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忘れられた花嫁03
日期:2018-09-28 18:18  点击:271
 3 変死、怪《かい》死《し》
 
 「どうです?」
 と、刑《けい》事《じ》が訊《き》いた。
 「うーん」
 と、その初老の男は唸《うな》った。
 死体を前にしているので、唸ってもおかしくない。
 明子は、部《へ》屋《や》の隅《すみ》に立って動かなかった。
 主《しゆ》任《にん》の保《ほ》科《しな》光子が、
 「明子さん、用があるなら、帰ってもいいわよ」
 と言ってくれたが、明子としては別にそう急ぐわけでもなく、それに少々大切な用があったって、こんな風に殺人(かどうか、はっきりしないが)の現《げん》場《ば》に出食わすなんて、めったにないことなのだから、動く気はなかった。
 「いいえ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。見《み》届《とど》けたいわ、せっかくですもの」
 「若《わか》いのね」
 と、光子はちょっと笑《わら》った。
 「あの人、何かしら?」
 と、明子は低い声で言った。
 「あの、年取った人? きっと偉《えら》い人よ。警《けい》部《ぶ》さんとか——」
 「それにしてはパッとしないけど」
 「大体そんなものじゃない?」
 二人はあわてて口をつぐんだ。その初老の男が二人の方へやって来たのだ。
 「死体を発見したのは……」
 「私たちです」
 「そうですか」
 と、その男は肯《うなず》いた。「いや、びっくりしたでしょう」
 「ええ、まあ……」
 と、光子が言った。
 「私も昔《むかし》、若《わか》かったころですが、初めて死体を見てひっくり返ったことがあります」
 「はあ」
 「それに比《くら》べると今の若い方は落ち着いておられる」
 光子と明子は顔を見合わせた。
 ——何だかずいぶんのんびりしたおっさんだわ、と明子は思った。
 「私はそう若くありませんけど」
 と光子が言うと、相手はちょっとキョトンとして、それから笑《わら》い出した。
 「冗《じよう》談《だん》を言ってはいけません! あなたなど、私から見りゃ娘《むすめ》のようなものだ」
 光子たちも仕方なく苦《く》笑《しよう》した。
 ——どうなってるの?
 「先生、どうなんですか?」
 と刑《けい》事《じ》の一人が、しびれを切らした様子で、やってきた。
 「や、済《す》まん。——しかし、ここでは結《けつ》論《ろん》が出んよ。要するに変死だ」
 「先生にはかなわないな」
 と刑事は苦《く》笑《しよう》して、「じゃ、早いとこ結論を出して下さいよ」
 「ああ分ったよ。しかし、晩《ばん》飯《めし》ぐらい食わせてくれ」
 その「先生」は、来たときと同じようにフラリと出て行った。
 「あの——」
 と、明子が刑事に声をかけた。
 「今の方はお医者さんですか?」
 「検《けん》死《し》官《かん》ですよ。変ってましてね。名物なんです。志《し》水《みず》さんといって。——あれ、戻《もど》って来た」
 その検死官、明子たちの方へ戻って来ると、
 「さっき訊《き》き忘《わす》れましたが、この死体を見つけたとき、何か変ったことには気付きませんでしたか?」
 「変ったことって……別に。ともかく、死体に気を取られて」
 「なるほど、無《む》理《り》もありませんな。——服はなかったですか?」
 「ええ、この通りです」
 「そうか。——分りました。では」
 と、さっさと出て行く。
 「あれで結《けつ》構《こう》優《ゆう》秀《しゆう》なんですよ」
 と刑《けい》事《じ》が言った。「ただ、時々、とんでもないことを言い出しますけどね」
 「あら、また——」
 と光子が言った。
 検《けん》死《し》官《かん》は、また戻《もど》って来ると、
 「言い忘《わす》れた。私は検死官の志水。『清い水』でなく、『志《こころざし》のある水』です。お名前は?」
 「は——あの——保科光子です」
 「私は、永戸明子」
 「そうか! では、これで失礼」
 と、今度はまたのんびりと、散歩でもしに行くように、出て行った。
 明子と光子は、ポカンとして、その後《うしろ》姿《すがた》を見送っていた。
 「——変った人でしょ」
 と、刑事が言った。
 それから、
 「きみ、もう運び出してくれ」
 と声をかける。
 「あの——その衣《い》裳《しよう》、うちの貸《かし》衣《い》裳《しよう》なんですけど」
 と、光子が言った。
 「そうですか。しかし、何しろ重要な証《しよう》拠《こ》ですので」
 「じゃ、上司にその旨《むね》を説明していただけませんか」
 「分りました。じゃ、案内してもらえますか」
 ——光子が刑《けい》事《じ》と一《いつ》緒《しよ》に控《ひかえ》室《しつ》を出て行く。
 明子は、ウエディングドレスの、名も知らぬ女《じよ》性《せい》が運び出されるのを見ていた。
 何となく侘《わび》しい光景である。——一体、あの女性がどういうつもりでここへ入り込《こ》んだのか、そしてなぜあの衣裳を身につけたのか、明子には知るすべもないが、いずれにしても、幸福を包むべきあの白い服が、今は死に装《しよう》束《ぞく》になってしまったわけだ。
 死体の顔も、一目見たときはギョッとして、あまり良く見なかったが、慣《な》れて来てよく見ると、ずいぶん若《わか》い。
 たぶん明子と同じくらい——せいぜい二つ三つしか違《ちが》うまい。
 あの若さで死ぬなんて。
 何だか、明子は、虚《むな》しい気分になって来てため息をついた……。
 
 「——お待たせ」
 と、光子が出て来た。
 従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》出入口を出ると、もうすっかり外は暗くなっている。
 「とんだ残業だわ」
 と光子は、薄《うす》い地味なコートをはおって、首を振《ふ》った。「手当はつかないし」
 「でも、面白かったわ」
 と言ってから、明子はあわてて、「もちろん、亡《な》くなった人は気の毒ですけど——」
 と付け加えた。
 「分るわ」
 光子も微《ほほ》笑《え》んだ。「あんなこと、目の前で見るのなんて、めったにないことですものね」
 「そうですね。——どうかしら? 殺人だと思います?」
 明子は歩きながら言った。
 「そうね、いずれにしても殺人じゃない?」
 「いずれにしても、って?」
 「直《ちよく》接《せつ》手を下して殺したか、それとも彼女《かのじよ》が自殺したのか、それは分らないけど、たとえ自殺だとしても、あんな所で死ぬからには、きっと男に捨《す》てられたかどうかしたんでしょう」
 「そうでしょうね」
 「それなら殺人も同じよ。罰《ばつ》せられないだけ、罪《つみ》が深いわ」
 光子の話し方は、いやに真《しん》剣《けん》だった。明子は、おや、と思ったものだ。
 しかし、光子はすぐにいつもの笑《え》顔《がお》に戻《もど》った。
 「さあ、私、どこかで夕ご飯を食べて帰らないと」
 「保科さん、お一人でしたっけ」
 「そうなの。つまらないもんよ、一人暮《ぐら》しなんて。あなたはご両親と、でしょ?」
 「ええ。口やかましくて困《こま》ります」
 「一人でいると、その口やかましいのが恋《こい》しくなるわ。じゃ、また明日」
 と、光子は手を振《ふ》って別れて行った。
 「さよなら!」
 元気に言って、明子は少し足を早める。
 これで帰ると、たぶん家につくのは九時ごろだろう。
 両親が心配するといけない、と明子は足を早めた——というのは表向きで、本当はお腹《なか》が空《す》いていたのである。
 駅へ入ろうとして、明子は定期券《けん》を出そうとバッグを探《さぐ》った。
 「あれ?」
 入っていない。——おかしいな。
 ここから出した憶《おぼ》えはないのだけれど。
 「変だな」
 と引っかき回していると、
 「失礼」
 と声をかけられた。
 「はあ」
 「これを落としませんでしたか?」
 それは明子の定期券《けん》だった。
 「あ、すみません」
 「いえ」
 若《わか》い男だった。——定期入れを明子へ渡《わた》すと、そのまま行ってしまう。
 「ああ、良かった」
 と、改《かい》札《さつ》口《ぐち》を入りかけて、ふと、おかしいな、と思った。
 今の男、駅から、明子がやって来た方向へと歩いて行った。——すると、この定期入れを、どこで拾ったのだろう?
 明子は振《ふ》り向いた。もう男の姿《すがた》は見えなかった。
 
 「お帰り」
 母の啓《けい》子《こ》は、大《おお》欠伸《あくび》をしながら言った。「早いね、今日は」
 「皮肉ばっかり言って」
 と、明子は言った。「娘《むすめ》が労働に疲《つか》れて帰って来たというのに!」
 「何を気取っているの。——お腹《なか》は?」
 「飢《う》え死にしないのが奇《き》跡《せき》よ」
 「大げさだね。——電子レンジで温めるから待っといで」
 明子の「強さ」は、どうやら、この母譲《ゆず》りである。
 ともかく、がっしりしていて、大きい。頼《たよ》りがいがあるという感じだ。
 「お父さんは?」
 「出《しゆつ》張《ちよう》」
 「へえ。——じゃ、帰って来ないのか。ねえ、今日、殺人事《じ》件《けん》があったのよ」
 「ふーん、そう」
 と、啓子は一向に気にしていない様子。
 「びっくりしないの?」
 「どうせTVか映画の話だろ」
 「違《ちが》うのよ!」
 明子は、詳《くわ》しく説明した。「——きっとあの人、殺されたんだと思うわ。私が死体を発見したのよ!」
 劇《げき》的《てき》効《こう》果《か》のために、明子は自分一人で死体を見付けたことにしたのである。
 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
 と、啓子が心配そうに言った。
 「何が?」
 「そういうときは、死体を見つけた人が疑《うたが》われるんだよ。何か悪いことをしていたら、今の内に白《はく》状《じよう》しておきなさい」
 「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ!」
 と、明子は顔をしかめた。
 手早く食事を取ると、明子は風《ふ》呂《ろ》へ入った。
 明子は——ここはあくまで湯気の白い幕《まく》を通して見ていただきたいが——なかなかいいプロポーションをしている。
 細身だが、やせているのでなく、締《しま》っている体つきの良さだ。
 ところで明子の欠点——というほどでもないが——の一つは、長風呂である。
 「もういい加《か》減《げん》に出なさい」
 と、啓子に言われて、それから二十分はかかる。
 これが自然に美《び》容《よう》にプラスしているのかもしれない。
 「化《け》粧《しよう》石ケンか」
 と、明子は呟《つぶや》いた。
 明子は一番安物の白い石ケンが好《す》きなのである。やたら香《かお》りの強い石ケンでは、その匂《にお》いの残るのが気になった。
 そんな風だから、色っぽさに少々欠けているのかもしれない。
 石ケンの匂《にお》いをからだに漂《ただよ》わせているのは好《す》きだが、香《こう》水《すい》の匂いをプンプンまき散らしているのは苦手だ。
 大体あんなのは、当人だけが喜んでいて、周囲は迷《めい》惑《わく》してるものなんだから……。
 「——そうだ!」
 と、明子は思わず口走った。
 あの、定期入れを拾った男。——いや、本当に拾ったかどうか怪《あや》しいものだが、あの男、いやに香水をプンプンさせていた。
 男のくせに、とチラッと思ったのを思い出したのだ。
 男があんなに香水をふりかけることってあるかしら?
 しばらく考えて、思い当った。
 ——結《けつ》婚《こん》式《しき》だ!
 「明子! いつまで入ってるの!」
 いつもの通り、啓子の声がした。

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