4 ショックの朝
結《けつ》婚《こん》式《しき》というのは、そんなに朝早く、六時とか七時とかからやるものではないが、その準《じゆん》備《び》は至《いた》って早い。
もっとも、明子は午後の担《たん》当《とう》なので、出《しゆつ》勤《きん》はゆっくりだった。
これが母の啓《けい》子《こ》には気に入らないようだ。
「朝起きて働きに出る。これが本当の仕事ってもんよ」
と、非難するが如《ごと》き目で、娘《むすめ》を見るのである。
その代り、夜が遅《おそ》いのだから、といくら言っても、聞いてくれない。
おかげで大体いつも明子は十時には朝食の席につく。
「眠《ねむ》いよう」
とブツブツ言いながら、ブラックコーヒーをがぶ飲みしていると、玄《げん》関《かん》に誰《だれ》かが来たらしい。母が出て応《おう》対《たい》している。
こういう時間はセールスマンが多いものだ。どんな押《おし》売《う》りだって、啓子にかかれば、あわてて逃《に》げ出さざるを得《え》なくなる。
「これだけ言っても分らないの!」
と、腕《うで》まくりをしたときの啓子の迫《はく》力《りよく》は大変なものなのである。
だが、どうも今朝《けさ》はそうでもないらしい。——少しして顔を出すと、
「明子、お前にお客よ」
「私?」
と、明子は訊《き》き返した。
「そう。何だか——保《ほ》科《しな》さんて人に頼《たの》まれたって」
「あら、何かしら」
明子は、パジャマのままだったので、あわててTシャツとジーパンに着《き》替《か》えた。
玄《げん》関《かん》へ出てみると、若《わか》いOLらしい女《じよ》性《せい》が立っている。
「あの——私が明子ですが」
「ああ、永戸さんですね。私、保科さんと同じアパートに住んでるんです」
「そうですか。あの、何か伝言でも?」
具合が悪くて休むのかと思ったのだ。しかし、考えてみれば、それなら電話一本かけて来れば済《す》むことである。
「いえ、そうじゃないんです。これを——」
と、その女性が取り出したのは、何やら、お弁《べん》当《とう》箱《ばこ》ぐらいの大きさ、形の紙包みであった。
「それは?」
「中は分りません。ただ、保科さんが、今朝こちらへ届《とど》けてくれって」
「保科さんはどうかしたんですか?」
「ゆうべ、遅《おそ》くに、出かけたみたいでしたよ」
「ゆうべ?」
「ええ。十二時過《す》ぎに、私の所へみえて、これを置いていかれたんです。そのとき、旅《たび》仕《じ》度《たく》でした」
「旅の仕度を?」
「どこへ行くのかは聞きませんでしたけど、しばらく留《る》守《す》にするとおっしゃってました」
「留守に……」
明子は面《めん》食《く》らった。——そんな風に突《とつ》然《ぜん》、いなくなってしまうとは。
何があったのだろう。
部《へ》屋《や》へ戻《もど》ると、明子は包みを開けてみた。中にもう一つ包みが入っていて、一通のメモがつけてある。
間《ま》違《ちが》いなく、保科光子の、きれいな書体であった。
〈明子さん。突然ごめんなさい。この包みを預《あず》かって下さい。もし、私の身に万一のことがあったら、これを開けて下さい。光子〉
明子は、三回、読み直した。
わけが分らない。「万一のことがあったら」というのは、どういうことだろう?
明子は、すっかり眠《ねむ》気《け》もさめてしまった。
少し早目に出《しゆつ》勤《きん》した明子は、上司の村川の所へ行った。
「失礼します」
と、声をかけると、ちょうど廊《ろう》下《か》に出ていた村川は、
「ちょうど良かった! 君に用があったんだ!」
と、明子の腕《うで》を取るようにして、自分の部《へ》屋《や》へと連れて行った。
ドアを閉《し》めると、
「一体どういうことだ?」
といきなり言った。
「何のことです?」
「とぼけることはないだろう」
と村川は仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》だ。
「だって、分りません」
「保科君が突《とつ》然《ぜん》辞表を出した」
やはりそうか。それを調べたくて、来たのだ。
「知っていたのか?」
「いいえ」
「少しもびっくりした風じゃなかったぞ」
「今朝《けさ》聞いたんです」
「本当か? 理由は?」
「知りません。直接会っていないんです」
「フム」
村川は肩《かた》をすくめた。「——仕方ない。こんな風に突然辞められては全く困《こま》ってしまうよ」
「村川さんはお会いにならなかったんですか?」
「会わないよ。今朝《けさ》出て来ると、机《つくえ》の上に辞表が置いてあった」
「文面は……」
「ただ、〈一身上の都合〉だ。——こっちだって一身上の都合で逃《に》げ出したいよ!」
文句ばかり言っている男が、明子は大《だい》嫌《きら》いである。
さっさと部《へ》屋《や》を出た。
自分の仕事の時間には少し早い。——明子はロビーへ行って、コーヒーを飲んだ。
最初の組が、そろそろ終って出て来る。
ロビーでは、あちこちで、久しく会わなかった親《しん》戚《せき》同士の挨《あい》拶《さつ》がくり返されていた。
「結《けつ》婚《こん》式《しき》ってのは、いいもんだな」
と、急に近くで声がして、明子は仰《ぎよう》天《てん》した。
「——尾《お》形《がた》君! ああびっくりした!」
「失礼、おどかすつもりだったんだ」
と、尾形は笑《わら》った。
「大学の方はいいの?」
「うん、今日は休講さ」
「さぼってばっかり!」
「人聞きの悪いこと言うなよ。学生は喜ぶ。こっちも楽だ。一石二鳥じゃないか」
「変なの」
と明子は笑《わら》った。
尾形和《かず》敏《とし》。——明子の通っている大学の講《こう》師《し》である。
二十七歳《さい》という若《わか》さ。しかも、見た目が若いので、大体学生と言って通用するのだ。
明子も友だち扱《あつか》いで、
「尾形君」
と呼《よ》んでいる。
尾形の方も、そう呼ばれるのが楽しいらしいのだ。——といって、この二人、恋《こい》人《びと》同士というわけではない。
単に仲《なか》のいい友だちなのである。
「何かあったの」
と、明子は訊《き》いた。
「君の処《しよ》分《ぶん》のことさ。どうやら今度の理事会で解《と》けそうだよ」
「そう」
「——あんまり喜ばないね。せっかく僕《ぼく》が努力して、こぎつけたのに」
「ありがとう。でもね……ちょっと気になることがあるのよ。——学長さんは、事《じ》情《じよう》を分ってくれたの?」
「うん。ともかく君が暴《ぼう》力《りよく》を振《ふ》るって、三人の男をけがさせたのは、中学生の女の子を守るためだった、ってことは評《ひよう》価《か》しているようだ」
「あんなもの、暴力の内に入らないわ」
「しかし、ともかく君は合《あい》気《き》道《どう》をやるわけだから、少し手《て》加《か》減《げん》すべきだった、と学長は言ってたよ」
「向うは三人よ。いくら私だって、そんなこと言ってらんないわ」
「僕もそう言ったがね。——学長は渋《しぶ》い顔をしていたよ」
「あれより渋い顔ができる?」
と言って、明子はぎゅっと顔をしかめて見せた。
「君は愉《ゆ》快《かい》だな」
と、尾形は笑《わら》って、「ところで君の方の気になることって?」
「うん。実はね……」
と言いかけて、明子は言葉を切った。
「どうした?」
「あれ……あそこに……」
明子は立ち上った。
ロビーの入口が見えている。その扉《とびら》から入って来たのは、保科光子だった。
しかし、明らかに様子がおかしい。——服《ふく》装《そう》は、外出するようなワンピースだったが、足もとが、ふらついている。
「保科さん——」
明子は、駆《か》け出した。
保科光子は、二、三歩進んで、明子のことに気づいたようだった。右手を、明子の方へ伸《の》ばす。
そして、そのまま、その場に倒《たお》れ伏《ふ》してしまった。
「——保科さん!」
明子は駆け寄《よ》った。「どうしたんですか! しっかりして!」
尾形もやって来て、保科光子をかかえるようにして体を起こしてやった。
「この血!」
と、明子が息を呑《の》んだ。
抱《だ》き起した尾形の手に、べっとりと血がついた。背《せ》中《なか》に、血のしみが、広がっているのだ。
「誰《だれ》か呼《よ》んで来るんだ! それと救急車! 早くしろ!」
尾形の声が別人のように鋭《するど》い。
明子は、驚《おどろ》く人々を尻《しり》目《め》に、ロビーを駆け抜《ぬ》けて行った。