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忘れられた花嫁11
日期:2018-09-28 18:24  点击:268
 10 尾《び》 行《こう》
 
 「女って哀《あわ》れだわ」
 と、明子は言った。「もう一《いつ》杯《ぱい》」
 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」
 と、尾形が言った。「もうやめといたらどう?」
 「平気よ。飲ませてよ、ミルクぐらい」
 「うん……」
 尾形のアパートである。
 あまりアルコールに強くない尾形なので、冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》にはビールもない。
 尾形は、紙パックの牛《ぎゆう》乳《にゆう》を出して来て、コップに注《つ》いだ。
 明子はぐっとコップをあけて、ゲップをした。
 「——ああ、お腹《なか》一杯になっちゃった」
 「当り前だよ」
 尾形は苦《く》笑《しよう》した。「しかし、その奥《おく》さん、どうしてそんなアルバイトをやってるんだろう?」
 「決ってるじゃないの。夫が悪いのよ」
 「どうして?」
 「女は常《つね》にしいたげられてるんだから」
 「理《り》屈《くつ》にならないよ」
 「いいのよ、そんなこと」
 明子は、ゴロリと横になった。「ショックだったわ」
 「でもさ、もし家計の足しにするぐらいだったら、そんなことまでする必要はないだろう」
 「そうね」
 「つまり、きっと他《ヽ》に《ヽ》金の必要なことがあるんだよ」
 「どういうこと?」
 「その出費を夫に話せない。といって、へそくりや、多少のやりくりで出せる金《きん》額《がく》ではない。そこで、仕方なく、手っ取り早い、その手のバイトに——」
 「どこへ金を出してるのかしら?」
 と明子は言った。「でも、まさか彼女《かのじよ》に直《ちよく》接《せつ》訊《き》いてみるってわけにもいかないしね……」
 「帰りまでは待ってなかったのかい?」
 「だって、あんな所でボケッと立ってられる?」
 「それもそうだな」
 「私も、あそこでバイトしようかな。そうすれば、彼女のことも分るかも……。何よ、おっかない顔して。冗《じよう》談《だん》よ」
 「当り前だ」
 「じゃ、どう? あなた、お客になってあそこへ行くの。そして彼女《かのじよ》を指名して、話を聞いて来る。——やってみる?」
 「僕《ぼく》がその『のぞき部《べ》屋《や》』に?」
 「そうよ」
 尾形は、エヘンと咳《せき》払《ばら》いして、
 「そう……。まあ、気は進まないけど、これも研究のため、君の頼《たの》みとあれば、仕方なく——」
 「冗《じよう》談《だん》よ」
 と言って明子は大《おお》笑《わら》いした。
 「何だ。つまらない」
 「え?」
 「いや、別に、——僕はお腹《なか》空《す》いたから食事に出るよ。君は?」
 「家で食べないと母がうるさいの。帰ることにするわ」
 「じゃ、ついでに送ろう」
 「ついでに食べて帰ろう、って言うのよ。そういうときにはね」
 「あ、そうか。僕はこれだからもてないんだな、女子学生に」
 「もててるじゃないの。この私に」
 「まあね……」
 尾形は少々複《ふく》雑《ざつ》な顔で言った。
 
 「遅《おそ》くなっちゃった」
 と、明子は呟《つぶや》きながら、足を早めた。
 結局、尾形と夕食を一《いつ》緒《しよ》に取ってしまったのである。のんびりおしゃべりして来たら、もう九時を回っていた。
 家への道は、割《わり》合《あい》と静かである。
 よく痴《ち》漢《かん》が出るというので、明子も、もっと子《こ》供《ども》のころには、母親と一緒でないと、夜は出られなかったものだ。
 しかし、今は、家がズラリと立ち並《なら》んでいるので、そんなこともなくなった。
 車が一台停《とま》っている。
 明子は、そのわきをすり抜《ぬ》けて、先を急いだ。——二十メートルほど行ったとき、ブルルとエンジンのかかる音がした。
 ライトが、明子を照らす。明子は振《ふ》り向いた。
 車が一気に加速して迫《せま》って来る。
 危《き》険《けん》を感じるのと、駆《か》け出すのが、同時だった。
 道《みち》幅《はば》が狭《せま》いから、左右へ逃《に》げるわけにいかない。車は、ぐんぐんと追い上げて来た。
 どうしようか、などと考えている余《よ》裕《ゆう》はなかった。正に、体の方が、勝手に動いた、という感じだった。
 塀《へい》から、道へ突《つ》き出した、枝《えだ》ぶりのいい木。明子はその太い枝へ向かって、一気にジャンプした。
 両手がうまく引っかかる。両足を大きく振《ふ》った。体が持ち上ったと同時に、車が、枝の下を駆《か》け抜《ぬ》けた。
 そのまま、赤いテールランプが遠ざかって行く。
 明子は、道へ、飛び降《お》りた。
 「何よ、あれ……」
 明子は呟《つぶや》いた。息を切らしていた。
 いくら元気な明子でも、こう急に走ったのでは、息が切れる。
 あの車。——はっきりと、彼女《かのじよ》を狙《ねら》っていた。
 はねるつもりで、突っ込《こ》んで来たのだ。
 なぜ? 今度の事《じ》件《けん》と関係があるのだろうか?
 ない、と考える方が不自然だろう。
 誰《だれ》かが、私を殺そうとした。——明子はもう、何も見えなくなった、暗い道の先を見つめていた。
 
 佐田千春は、毎日、あの店へ通っているわけではないようだった。
 あの次の日には家にいて、ごく当り前の生活をしていた。
 しかし、その翌日には、また新宿へと出かけて行ったのである。
 雨の日だった。
 明子は、尾《び》行《こう》も楽じゃない、とため息をついた。
 傘《かさ》をさして、雨の中、あの〈のぞき部《べ》屋《や》〉から、千春がいつ出て来るかと、待っていなくてはならないのだ。
 天気が良くて、気候も良きゃ、見《み》張《は》ってるのも悪くないけどね、と明子は調子のいいことを考えていた。
 千春はこの日は十二時過《す》ぎに店へ入って行った。
 少し早い。帰りを急ぐのだろうか?
 一時間たったころ、このごみごみした裏《うら》通《どお》りへ、少々不《ふ》似《に》合《あい》な外車が入って来た。
 「金持の道楽かしら」
 と、呟《つぶや》いて眺《なが》めていると、その車、例の〈のぞき部屋〉の前で停《とま》ったのである。
 運転手がドアを開けると、出て来たのは、初老のパリッとした身なりの男。
 それが、堂々と、そこへ入って行く。
 どうなってんの? 明子は首をかしげた。
 そして、五分としない内に、その紳《しん》士《し》は出て来た。その後から一人の女——千春が出て来たのだ!
 見ていると、千春は、外車に乗り込《こ》んだ。
 車が、ゆっくりとバックして来た。
 この先が通行止になっているのだ。明子はあわてて身を隠《かく》した。
 外車は、広い通りへと入って行こうとしていた。
 明子は走り出した。雨の中、いやだったが、そうも言っていられない。
 通りへ出ると、タクシーを停《と》める。あの外車は、図体が大きいせいか、まだ流れに入れずにいる。
 「あの大きな外車をつけて」
 と、明子は言った。
 「尾《び》行《こう》?」
 と運転手が訊《き》いた。「厄《やつ》介《かい》事《ごと》じゃないだろうね」
 「スターのゴシップなのよ。私、記者なの。いいでしょ、追いかけてよ」
 「へえ、美人が乗ってるの?」
 「絶《ぜつ》世《せい》のね」
 「よし来た!」
 男なんて単《たん》純《じゆん》ね。——明子は、そっと舌《した》を出した。
 それにしても、あの男は何者だろう? そして、千春は、どこへ行こうというのか。
 車はゆっくりと走り始めた。タクシーの方も、ピタリとその後についている。
 雨の中での追《つい》跡《せき》が始まったのである。
 

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