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忘れられた花嫁12
日期:2018-09-28 18:25  点击:265
 11 大《だい》邸《てい》宅《たく》
 
 雨の中での尾《び》行《こう》、というのは、楽ではない。
 といって、明子はタクシーに乗っているので大して困《こま》っていたわけではないが、運転手は必死だった。
 「いや、骨《ほね》だな、畜《ちく》生《しよう》!」
 赤信号で一息ついたとき、首を振《ふ》りながら言った。
 「ごめんなさいね」
 と、明子も珍《めずら》しく殊《しゆ》勝《しよう》なことを言っている、「少し割《わり》増《まし》で払《はら》うわ」
 「そうしてくれなくちゃ合わねえよ」
 と言ってから、運転手はニヤリと笑《わら》って、「と、言いたいところだが、結《けつ》構《こう》だよ」
 「あら、だって——」
 「一度こういうスリルのある仕事をやってみたいと思ってたんだ」
 「まあ、そうなの?」
 「これで、どこまで食いついて行けるか、面白いじゃないか。料金は規《き》定《てい》通りでいいからね」
 「悪いわね」
 本当は、少し安くしてくれないか、と言いたかったのだが、さすがにやめておくことにした。  
 「また走り出したな。——どうも、住《じゆう》宅《たく》街《がい》へ入って行くぜ」
 タクシーは、その外車について、やたら坂の多い、大《だい》邸《てい》宅《たく》の並《なら》ぶ道へと入って行った。
 「凄《すご》い家ばっかりね」
 と、明子は、ついつい、両側の家に目をとられながら言った。
 「この辺はみんなそうさ。俺《おれ》もあんまり入らないけどね」
 「へえ。——あ、曲った」
 外車は、わき道へ入って、ぐるっと回ると、大きな門《もん》構《がま》えの前に出た。
 「停《とま》ったな。あそこへ入るらしいぜ」
 「じゃ、私、ここで降《お》りるわ。どうも、ご苦労さま」
 「頑《がん》張《ば》れよ」
 「ありがと」
 明子は料金を払《はら》って、外へ出た。まだ雨はかなり降《ふ》っている。
 あの車は、門の前に停っていた。目につかないように、電柱の陰《かげ》に立って見ていると、門《もん》扉《ぴ》が、ギリギリと音をたてながら、ゆっくりと開いた。
 「電動なんだわ」
 と、明子は呟《つぶや》いた。
 待てよ。——電動ということは、人動(?)でないということだ。
 つまり、あの門を開け閉《し》めするのに、人はいらないのである。
 車が、静かに邸《てい》宅《たく》の中へと、滑《すべ》り込《こ》んで行くと、明子は、雨に濡《ぬ》れるのも構《かま》わず、突《つ》っ走った。
 車が入る。門が閉《と》じる。——その間に、明子は、中へとうまく入り込んだのだ。
 「どんなもんです」
 と、いばっても、誰《だれ》も賞《ほ》めちゃくれないのだが。
 門がピタリと後ろで閉《しま》った。
 「あ——」
 と、思った。
 出られなくなっちゃった! ま、いいや、何とかなるでしょ。
 ここもまた、隣《となり》近《きん》所《じよ》に劣《おと》らぬ大邸宅であった。いや、他と比《くら》べても、かなりの大邸宅だと言ってもいい。
 車は、前庭を回って、玄《げん》関《かん》へつく。
 明子は、すぐに近くの木の陰《かげ》に隠《かく》れた。
 何しろ、木だの植《うえ》込《こ》みだのがあちこちにあるので、便利である。
 あの初老の紳《しん》士《し》に促《うなが》されて、千春が車から降《お》りる。玄関に姿《すがた》を消すと、車は、ガレージへ入るのだろう、建物のわきへと回って行った。まあ、車はあまり犬小屋には入らないものである。
 しかし——この家に比《くら》べたら、明子の家は(父親には悪いが)正に、「犬小屋」だった。
 どっしりとした、洋館で、しかも古びているが、一向に汚《よご》れた感じがない。
 「こんな家にお嫁《よめ》に行きたいわね」
 などと、明子は感心していた。
 「——いけね!」
 こんなことをしていられないのだ。
 明子は、ともかく裏《うら》に回ってみることにした。——カサをさしている。
 これが素人《しろうと》なのである。こっそり隠《かく》れて動き回ろうというのに、カサをさす者もあるまい。
 しかも、明子のカサは、真っ赤で、スヌーピーのマンガ入りであった。
 しかし、奇《き》跡《せき》的《てき》に、見とがめられることもなく、建物の裏《うら》手《て》へ出て来る。
 ため息の出るような広い庭。サッカーができそうな——は、オーバーだが、軽い運動をやるには充《じゆう》分《ぶん》な広さであった。
 「——言うことはないのか」
 と、男の声がして、明子は、ハッと頭を低くした。
 えい! ひさしの下まで行きたいけど、そこまで行くと見付かっちゃう。
 そこで、仕方なく、カサをさして、茂《しげ》みの奥《おく》から顔を出してみたのだった。
 明るい居《い》間《ま》が、ガラス戸と、薄《うす》いレースのカーテンを通して見える。
 千春が、両手を後ろへ組んで、立っていた。
 その背《はい》後《ご》には、あの紳《しん》士《し》が立っていて、しかし今の言葉は、別の所から出て来ていた。
 「ありません」
 と、千春が言った。
 「こっちには何もかも、分っているんだからな」
 「そうでしょうね」
 と、千春は、小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような言い方をした。
 「お金をつかえば、できないことはないと思っているんだから」
 「事実、その通りさ」
 ——男の声は、ソファの中から聞こえているのだった。
 つまり、明子の方へ背《せ》を向けているソファに、誰《だれ》かが座っているわけだ。
 「私は調べた。——お前の亭《てい》主《しゆ》が、何もしないで、ただ家を出て、ぶらついて帰って来るだけだってことをな」
 「今は不景気なのよ」
 と千春は言い返す。
 「女《によう》房《ぼう》に、あんなアルバイトをさせて平気でいるのが男《ヽ》なのか?」
 「お父さんには分らないわ」
 千春の言葉に、明子は仰《ぎよう》天《てん》した。
 お父さんだって?
 千春が、この家の娘《むすめ》?——明子は、ただ呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
 「分っても分らなくても、事実は事実だ。違《ちが》うか?」
 千春は首をすくめた。
 ソファの男が立ち上った。
 こんな大《だい》邸《てい》宅《たく》の主《あるじ》じゃ、どんなにか立《りつ》派《ぱ》な、堂々たる人物——かと思いきや、何だか見すぼらしい、小《こ》柄《がら》な老人である。
 「旦《だん》那《な》様」
 と、あの初老の紳《しん》士《し》が言った。
 二人のイメージからすると、まるで逆《ぎやく》であった。
 「何だ」
 「当の『のぞき部《べ》屋《や》』の支配人に確《たし》かめてまいりました」
 「何をだ?」
 「千春様は、客と外へはお出にならなかったそうです」
 「外へ?」
 「はあ。つまり——その——」
 と、言い渋《しぶ》っている。
 「体までは売らなかったっていうことよ」
 と、千春が言った。
 ——何だか別人みたいだわ、と明子は思った。
 あの、新《しん》婚《こん》家庭で、ほのぼのとした新《にい》妻《づま》だった千春が、確かに、こうして見ると、この大《だい》邸《てい》宅《たく》の居《い》間《ま》に、うまく溶《と》け込《こ》んでいるのである。
 「体を売らなかった、だと?」
 父親の方は、せせら笑《わら》うように、
 「男に裸《はだか》を見せて金を取ってるんだ。どこが違《ちが》うんだ?」
 と言った。
 「お父さんにとっては、同じかもしれないわね」
 「おい、それはどういう意味だ」
 「分るでしょ?」
 雰《ふん》囲《い》気《き》が険《けん》悪《あく》になって来た。
 「まあ、お二人とも、冷静になって下さい」
 と、あの紳《しん》士《し》が言葉を挟《はさ》む。
 「私は冷静よ」
 「私も冷静だ」
 これじゃ、話が進まない。
 当人たちとしては深《しん》刻《こく》なのだろうが、明子は、申し訳《わけ》ないと思いつつ、おかしくてたまらなかった。
 「ともかく、佐田という男の所へ、お前を帰すわけにはいかん!」
 と、父親が言う。
 「私は法《ほう》律《りつ》的《てき》に、自由に夫を選べるのよ」
 と、千春が言い返す。
 「私はお前のために言っとるんだ」
 「大きなお世話よ」
 やれやれ、この分じゃ、当分終りそうにないな、と明子は思った。
 「おい、大《おお》原《はら》」
 と、父親があの紳《しん》士《し》に声をかける。
 「はあ」
 「千春をどこかへ閉《と》じこめておけ」
 「しかし、旦《だん》那《な》様——」
 「早くしろ!」
 「いやよ! 私、帰る!」
 と、千春がドアの方へ歩き出す。
 「怖《こわ》いのか」
 と、父親が言った。
 千春が、ピタリと足を止めて、
 「どういう意味なの?」
 と、振《ふ》り向いた。
 「お前の亭《てい》主《しゆ》に会ってやる。そして、金をやるから別れろ、と話をする」
 「馬《ば》鹿《か》言わないで」
 「本気だ」
 千春は、じっと父親を見《み》据《す》えて、
 「そんな話にあの人が乗ると、本気で思ってるの?」
 「思っているとも」
 「残念ながら、あの人は、そんな男じゃないわ」
 「そう思うのか」
 「私の夫よ」
 「だからといって、どれくらい、分っているのかな?」
 「お父さんよりは分っているつもりよ」
 「それをためしてみようじゃないか。どうだ?」
 なるほど、なかなか、説《せつ》得《とく》力《りよく》のある人物である。
 金持になるだけの才覚のある人間なのだろう。
 千春と父親は、長いことにらみ合っていたが、やがて千春は肩《かた》をすくめた。
 「やりたければやりなさいよ」
 「そうか。——よし。じゃ、今夜、彼《かれ》をここへ招《しよう》待《たい》することにしよう」
 「好《す》きにしたら」
 千春は、居《い》間《ま》を横切って、庭へ面したガラス戸の方へ歩いて来た。
 いけない、と明子は思ったが、逃《に》げるには遅《おそ》すぎて——。
 千春が、明子を見て、アッと声を上げた。
 「どうした?」
 と、父親が振《ふ》り向く。
 「いえ。——何でもないわ」
 と、千春は言った。「ちょっと、欠伸《あくび》をしただけよ」
 明子はホッと息をついた。
 「そうか。大原、一《いつ》緒《しよ》に来てくれ。——お前は?」
 「私、ここにいるわ。少し、一人になりたいの」
 「まあ、好きにしなさい」
 男二人で、居間を出て行くと、千春は、ちょっとの間様子をうかがってから、ガラス戸を開けた。
 「入って! 早く!」
 明子はためらったが、どうせ見付かっちゃったのだ。ここは一つ、「ご招待」を受けることにしよう。
 「——すみません、こんな所から」
 「いいから、早く入って!——カサを貸《か》して。そのソファの下へ——」
 千春は、ちょっとドアの方へ向いて、「たぶん、あれでしばらくは戻《もど》って来ないと思うわ」
 「そうですか」
 と明子は言った。
 どう言っていいものやら、分らないのである。
 まさか、
 「今日は、お元気ですか? 私も元気です」
 なんて、英語の初歩みたいなことは言えない。
 「びっくりしたわ」
 と千春は言った。
 「お互《たが》い様でしょ」
 「それもそうね」
 と、千春は笑《わら》った。「でも、どうしてここへ?」
 答えないわけにはいかない。
 明子は、仕方なく、この一《いつ》件《けん》に関り合いになるきっかけから喋《しやべ》り始めた。

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