12 賭《か》 け
「——そうだったの」
と、千春は肯《うなず》いた。
「ごめんなさい」
と、明子は、まず、アッサリと謝《あやま》ってしまった。
「いえ、いいのよ」
と、千春は言った。「だって、あなたとしては当り前のことをしてるだけですものね」
「そう言われると……」
「その、茂木こず枝さんって人を、主人が知っている、っていうわけね」
「どうもそうらしくて……」
「でも、あの人、そんな風に、女《じよ》性《せい》を振《ふ》ったりする人じゃないのよ」
「はあ……」
「つまり、いつも振られてばっかりいる人だから」
明子は、何だかおかしくて笑《わら》い出してしまった。
「——でも、どうしてあんな作り話をしたんですか?」
と、明子は訊《き》いた。
「だって、まさか、私は大金持の娘《むすめ》で、この人との結《けつ》婚《こん》に反対されたので、家を出て一《いつ》緒《しよ》になったの、とは言い辛《づら》いでしょう」
「それもそうですね」
「割《わり》合《あい》と、ドラマチックな話が好《す》きなんで、あの筋《すじ》書《がき》をでっち上げたの」
千春は愉《ゆ》快《かい》そうに、「でも、みんな結《けつ》構《こう》信じてるみたい」
「名《めい》演《えん》技《ぎ》ですもの」
と明子は言った。
「ありがとう。——でも、いいところへ来てくれたわ」
「いいところ?」
明子の判《はん》断《だん》では「いいところ」どころか、最悪のときにやって来たような気がしていた。
「一つ頼《たの》まれてちょうだい」
「いいですよ」
「家へ行って、主人と会って」
「ご主人と?」
「そう」
「で、どうするんです?」
「父の企《たくら》みを話してやって」
「つまり、招《まね》かれても、ここへは来るな、と?」
「いいえ、来ないわけにはいかないわよ。それに、あの人、きっと来るわ」
「それじゃ——」
「父の出す条《じよう》件《けん》は裏《うら》があるから、決して承《しよう》知《ち》するな、と言ってちょうだい」
明子には、ちょっと妙《みよう》な気がした。
夫を信じていたら、何も、そんなことをいちいち言う必要はない。
「どうして、そんなことを、っていう顔つきね」
目ざとく、明子の表《ひよう》情《じよう》に気付いて、
「でも、人間、貧《びん》乏《ぼう》しているときに、お金をつまれたら、ついフラッとなるもんじゃない?」
私なんか、貧乏してなくても、フラッとなるわ、と明子は思った。
しかし、千春の言葉は、どこかごまかしているように聞こえた。——何か、あるのだ。
「でも、どうやってご主人の所へ行くんですか?」
と明子は言った。
「ここから車で行って」
「車で?」
「そう。父に言って、車を出させるから」
「そこまでしていただかなくても」
「いえ、主人を迎《むか》えに行かせるの」
「あ、そう」
と、明子は肯《うなず》いた。
「そのトランクに隠《かく》れて行けばいいわ」
なるほど、トランクに隠れるか。
これはなかなか、探《たん》偵《てい》という雰《ふん》囲《い》気《き》が出ている。
「やりましょう! 車、どこかしら?」
「案内するわ」
と、千春が立ち上った。
しかし、ことは千春の言うほど、楽ではなかった。
ガレージまではスンナリ行けた。トランクにも入りこめた。
しかし——当然のことだが、トランクは人間向きには、出来ていない。
ソファもなく、クッションもない。しかも、大きな外車とはいえ、やはり窮《きゆう》屈《くつ》である。
走ったのは、せいぜい一時間だったろうが、明子には丸《まる》一日とも思えた。
車が停《とま》り、ドアがバタンと音を立てる。
運転手が降《お》りて行ったらしい。
明子は、やっと、トランクから出ることができた。
もう雨は上っていた。
「ああ……痛《いた》い」
どこが、という段《だん》階《かい》ではない。体中が痛いのである。
やっと腰《こし》を伸《の》ばして、周囲を見回すと、佐田と千春のアパートの近くだと分った。
そこへ——佐田が歩いて来るのが目に入ったのである。
何だか、ポカンとして、元気がない。半分眠《ねむ》りながら歩いている、という感じなのである。
「佐田さん!」
と、明子が声をかけると、
「はあ……」
と、顔を向けて、「どちら様ですか?」
「永戸明子です」
しばらくぼんやりしていて、それからやっと分ったのか、
「ああ、どうも……」
と会《え》釈《しやく》した。
どうしちゃったんだろう? この前のときとは別人のようだ。
「奥《おく》さんのことでお話が……」
「家内ですか。——千春は出て行きました」
「いえ、それが——」
「無理もありません。僕《ぼく》が働かないものだから——」
「それがね、実は——」
「愛想をつかしたんですよ。当り前のことです」
「ですから、そうじゃなくて——」
「もう帰って来ませんよ。僕《ぼく》も捜《さが》す気になれません。帰ってくれと頼《たの》むには、何の自信もありませんし」
「いいですか、奥《おく》さんは——」
「分ってるんです。アルバイトに何をしてたかも。やめてくれと言ったのに、あれは好《す》きでやってるんだからいいのよ、と」
「ねえ、佐田さん——」
「強がりを言って。僕も悪かったんです。ひっぱたいてでもやめさせておけば良かったのに」
「黙《だま》って聞け!」
と、明子は思い切り怒《ど》鳴《な》った。
「すみません」
佐田が目をパチクリさせている。
「奥さん、実家にいるんですよ」
「そうですか」
「で、そこに迎《むか》えの車が来てます」
「あれですか?」
と、外車を指さし、「へえ。——ちょっと古い型だな」
などとやっている。
こりゃかなりおかしい。——こと、この夫のことに関しては、明子は、中《なか》松《まつ》の意見に賛《さん》成《せい》したくなった。
中松というのが、あの父親の名前で、つまりは千春の結《けつ》婚《こん》前の姓《せい》なのである。
「聞いて下さいな」
と、明子が言いかけたとき、運転手がやって来た。
「佐田さんですね」
「はあ」
「お迎《むか》えに参りました」
「そうですか。わざわざどうも」
と、佐田は頭を下げた。
明子は、ため息をついた。——どうなってんの、この人?
「さあ、どうぞ」
と、運転手がドアを開ける。
佐田が乗り込《こ》み——続いて、明子も乗り込んでしまった。
「付き添《そ》いです」
と言うと、運転手はキョトンとしていたが、黙《だま》ってドアを閉《し》めた。
車が走り出す。
「——心配だったでしょう」
と、明子は言った。「奥《おく》さんが見えなくなって」
「ええ」
「捜《さが》し回ってらしたんですか? それで疲《つか》れて——」
「いや、駅前でパチンコをやってたんです」
「はあ……」
「なかなか出なくてね。——すっかりくたびれました」
明子は、ぶん殴《なぐ》ってやりたくなった。
この前のときとは百八十度のイメージ転《てん》換《かん》である。
「聞いて下さい」
と、明子は、運転手を気にしながら、低い声で囁《ささや》いた。「奥さんのお父さんが、あなたにお金をやって、別れさせようとしてるんです。そんな手に乗らないように、って、奥さんから——」
明子は言葉を切った。
佐田はシートにもたれて、スヤスヤと眠《ねむ》っていたのだ。
自分の車なら、ドアを開けて、突《つ》き落としてやるのに、と明子は憤《ふん》然《ぜん》として腕《うで》を組んだ。