14 遊びは終り
白石知《とも》美《み》は、三十分前から、レストランの窓《まど》際《ぎわ》の席に座って、外を眺《なが》めていた。
「早く来ないかな」
と呟《つぶや》く。
ちゃんと時間も言ってあるのに。——時間にルーズなのが彼《かれ》の欠点。
それ以外は、とってもすてきな人なんだけど……。
知美は、一《いつ》杯《ぱい》のコーヒーを、三十分、もたせていた。
途《と》中《ちゆう》で、また何か頼《たの》もうかと思ったが、思い直した。
もったいない! 家計を預《あず》かる身としては、むだづかいをなくして行かなくては!
店のウエイトレスが、チラチラと知美の方を見ている。知美は平気だった。
寄《よ》り道してボーイフレンドと会っているとでも思われるかもしれない。
でも、そう言われたら、面白い。
「あら」
と言い返してやる。「私たち夫《ふう》婦《ふ》なんですよ」
って。
はた目にそう見えないのは仕方ない。
何しろ知美は十七歳《さい》。今は学校帰りで、セーラー服と、学生鞄《かばん》というスタイルなのである。
いくら左手の薬指にリングをはめているからといって、まさか、この女学生が「人《ひと》妻《づま》」だとは思わないだろう。
人妻か。——何だかこの言葉を耳にすると、恥《は》ずかしくなる。
まだまだ二人とも新《しん》婚《こん》ホヤホヤなんだもの……。
白石紘《こう》一《いち》は、十九歳の大学生だ。
大学生と女子高生の夫婦——はた目には、ずいぶん変でしょうね、と知美は思った。
あれこれ、人に言われていることも、知美は知っていた。
「親のスネかじり」
「甘《あま》えている」
「おままごと遊び」
——でも、知美は本当に紘一を愛していたし、紘一だってそうだ。
だったら、結《けつ》婚《こん》して悪いわけがあるだろうか?
それに、法《ほう》律《りつ》的《てき》にも、ちゃんと二人は結婚できる年《ねん》齢《れい》なのだ。
ただ——親にマンションを買ってもらい、生活費をもらっているというのは、そりゃあ汗《あせ》水《みず》たらして働いている人たちから見れば、腹《はら》立《だ》たしいかもしれない。
でも、金持の家に生れたのは、何も子《こ》供《ども》の責《せき》任《にん》じゃないだろう。
いいんだ。何と言われたって。
あと何十年かたって、
「あの二人は理想の夫《ふう》婦《ふ》だね」
と言われるようになって見せるわ。
しかし——知美にも多少の心配はあったのだ。
夫、紘《こう》一《いち》のことである。
デリケートで、繊《せん》細《さい》で、とても感受性《せい》の強いタイプなのだ。
しかし、それが大学を出ても続くのでは困《こま》る。
今は学生だから仕方ないが、卒業すれば、親の仕送りなしでやって行く。それが知美の考えだった。
ところが、紘一の方は、あまりそんな気にもなれないらしい。
「いいんじゃない、そのとき考えれば」
と言って、その手の話を避《さ》けてしまうのである。
そして、
「外国の貴《き》族《ぞく》は働かないで、財《ざい》産《さん》だけで暮《くら》してるんだよ」
と、そういう生活に憧《あこが》れていることをほのめかす。
「でも、私たち、貴《き》族《ぞく》じゃないわ」
と、知美はいつも言っている。
紘一はただ笑《わら》うだけだ。
知美としても、もちろん身を粉にして働けるというタイプではない。でも、その気になれば、タイプも打つし、多少英会話もできる。
少なくとも、ずっと親の仕送りを受けて、何もしないで暮《くら》すという生活はしたくなかった。
困《こま》るのは、二人の親たちなら、ずっとお金を送ってくれるに違《ちが》いない、ということである。
まあ、紘一の卒業はまだ先の話だ。でも、そのときになって、もめるのもいやだし……。
紘一が道をやって来るのが見えて、知美は手を振《ふ》った。
しかし、紘一は、気付かずに、入口の方へ回って行く。
「——やあ、ごめんよ」
と、紘一は座って、「ついうっかりして寝《ね》過《すご》しちゃったんだ」
この笑《え》顔《がお》を見ると、知美はポーッとして、怒《おこ》るのも忘《わす》れてしまうのだ。
「夕ご飯、食べて帰りましょ」
「どうせなら、もっといい店に行かないか?」
と紘一は言った。
「そんなお金、ないわ」
「親父《おやじ》のつ《ヽ》け《ヽ》のきく所がいくつだってあるよ」
「そういうの、やめよう、って話だったじゃない」
「そうか。——分ったよ」
紘一は軽く肩《かた》を揺《ゆ》すった。
相手に譲《ゆず》るのも楽しい時代なのである。
「私、この定食のAでいい。六百八十円」
「僕《ぼく》は——これだ」
「あ、千二百円もしてる」
と言って、知美は笑《わら》った。「いいわ、許《きよ》可《か》する!」
注文して、知美は窓《まど》の外を見た。
「——今日、ちょっとある人と話をして来たんだ」
と、紘一が言った。
「ある人って?」
「名前は言えない」
「どうして?」
「約《やく》束《そく》なんだ」
「へえ」
知美は首をかしげて、「何の話だったの?」
と訊《き》いた。
「仕《ヽ》事《ヽ》さ」
と、紘一は言った。
「仕事? 何のこと?」
「アルバイトをやるんだ。それを決めて来たのさ」
知美はポカンとして夫を見ていた。
「——何だよ、そんな顔して」
「だって——びっくりするじゃないの、いきなり」
「だめだったら、がっかりするだろ。だから、黙《だま》ってたんだ」
「凄《すご》いわ! おめでとう!」
知美は席で飛びはねた。
「よせよ、みっともないよ」
と、紘一は赤くなった。
「だって——嬉《うれ》しいわ!」
「ありがとう」
「どんなお仕事なの?」
「うん……」
紘一は、なぜか、ちょっとためらった。
「どうしたの?」
「いや……あんまり人に話しちゃいけないと言われてるんだ」
紘一はそう言ってから、「でも、そんな怪《あや》しい仕事じゃないよ!」
と、付け加えた。
「信じるわよ」
「サンキュー。その内、詳《くわ》しく説明するよ」
紘一は、「ちょっとトイレに行って来る」
と、席を立った。
一人になると、知美は、また胸《むね》が熱くなって来るのが分った。
あの人は、やっぱり立《りつ》派《ぱ》な人なんだわ! 私の旦《だん》那《な》様ですものね!
言いたくないというのは、あんまりたいした仕事ではないのだろう。
〈でも、いいじゃないの〉
どうせ、二人とも若《わか》いんだ。どんなにだって変って行ける。
知美は急にお腹《なか》が空《す》いて来て、料理が来たら、先に食べていよう、と思った。
——料理が二人分とも来た。
しかし、紘一は戻《もど》って来ない。
「何やってんのかな」
と、呟《つぶや》く。「食べちゃうぞ」
——すると、紘一がトイレの戸を開けて、出て来るのが見えた。
呑《のん》気《き》なんだから、あの人は。
紘一が、ひどくゆっくりした足取りで、戻って来る。
「先に食べようかと思ってたのよ」
と、知美は言った。「早く食べないと冷めちゃうわ」
ナイフとフォークを手に食べ始めても、まだ紘一が立ったままなので、
「——何してるの?」
と、知美は、紘一を見上げた。
紘一の目は、虚《うつ》ろで、知美を見てはいなかった。
「どうしたの?」
と、知美は言った。
急に、紘一の体が、まるで支えを失った布《ぬの》の塊《かたまり》のように、崩《くず》れて、床《ゆか》に沈《しず》んだ。
知美は立ち上った。
ナイフとフォークが床に落ち、金《きん》属《ぞく》音《おん》を立てる。
足下で、紘一はすでに、生命を失った、「もの」となって横たわっていた。