15 恐《きよう》 喝《かつ》
「あらまあ」
と、啓《けい》子《こ》が言った。
母、啓子の「あらまあ」には、明子も慣《な》れっこであるが、それが何の意味なのかは、
「どうしたの?」
と訊《き》いてみないことには、よく分らない。
「殺されたんですって。可哀《かわい》そうに」
「へえ。誰《だれ》が?」
明子はあまり関心も示さずに言った。
ともかく食事中に、明子の目を向けさせようと思えば、かなり思い切った手《しゆ》段《だん》を取るしかないのである。
「十九歳《さい》の夫、殺さる、ですって。ずいぶん若《わか》いのね」
「本当ね」
「未《み》亡《ぼう》人《じん》は十七歳ですってよ。——どうなってるのかしら」
啓子は新聞をガサゴソとたたんだ。
殺されたことに「あらまあ」なのか、夫《ふう》婦《ふ》が若いことに「あらまあ」なのか、その辺は判《はん》断《だん》に苦しむところだった。
「そんなに珍《めずら》しいこともないわよ」
と、明子は言った。「私だって、十九歳と十七歳っていう夫婦、知ってるわ……」
待てよ、と思った。——十九歳の夫。十七歳の妻?
それにしてもピッタリだ。
「ちょっと新聞貸《か》して」
と、明子は手をのばした。
「危《あぶな》いじゃないの、おはしを持ったまま手を出して——」
明子は新聞を広げた。
「まさか!」
と言ったきり、絶《ぜつ》句《く》。
あの夫《ふう》婦《ふ》だ! 白石夫婦ではないか!
「どうしたの、明子」
と啓子が言った。「ご飯が冷めるわよ」
「いいの、私、お腹《なか》空《す》いてない」
と、明子は言った。
いかにショックが大きかったか、分ろうというものだ。
「じゃ、お茶《ちや》漬《づけ》一《いつ》杯《ぱい》」
——それほどでもなかったのかもしれない。
「知ってる人なの?」
と、啓子が不思議そうに訊《き》いた。
「ちょっとね。——会ったことがあるの」
「へえ。可哀《かわい》そうにね。じゃ、お葬《そう》式《しき》にでも行って来たら?」
「そういう関係じゃないのよ」
と言ったものの、待てよ、と思い直した。
それもいいかもしれない。——ともかくあの女の子——いや、未《ヽ》亡《ヽ》人《ヽ》とも話をしたかった。
これは偶《ぐう》然《ぜん》の殺人事《じ》件《けん》なのだろうか?
しかし、新聞で読む限《かぎ》りでは、喧《けん》嘩《か》とかそんなことではない、妻の知美という女の子も、
「全く理由が分りません」
と語っている。
つまり、計画的殺人という線も考えられるわけで、そうなれば、ちょうど、明子が捜《そう》査《さ》している事件と関連があると思える。
もちろん、明子もあの白石という夫に、
「茂《も》木《ぎ》こず枝《え》」
という名をぶつけてみたのだが、一向に反《はん》応《のう》はなかったのである。
だが、たとえ白石が直《ちよく》接《せつ》茂木こず枝と関係なくても、何《ヽ》か《ヽ》を知っていたとも考えられるし、それに、白石は茂木こず枝の勤《つと》めていた会社でアルバイトをしていたのだ。
明子に訊《き》かれたときは忘《わす》れていて、後になって何か思い出したという可《か》能《のう》性《せい》もある。
ともかく、まず当ってみることだ……。
殺された白石紘《こう》一《いち》が社長の息子《むすこ》だったせいか、さすがに葬《そう》儀《ぎ》は盛《せい》大《だい》だった。
もっとも、来ているのは、大部分が父親の関係らしく、年《ねん》輩《ぱい》の人が多かった。
明子は一《いち》応《おう》、弔《ちよう》問《もん》客《きやく》とも見えるように、紺《こん》のワンピース姿《すがた》でやって来て、門の前をウロウロしていた。
しかし、あんまりうろついていても、香《こう》典《でん》泥《どろ》棒《ぼう》か何かと間《ま》違《ちが》えられそうだ。
どうせこんなに大勢来ているのだ。一人ぐらい顔の分らないのが焼《しよう》香《こう》したって、おかしくあるまい。
というわけで、明子は一《いち》応《おう》焼香の列に並《なら》んだ。
凄《すご》い家だ。明子の家の何倍あるか……。
まあいいや。そんなことは考えないようにしよう。
順番が来て、明子は型通り焼香した。遺《い》族《ぞく》の方へ一礼しながら、妻《つま》の知美を見ると、黒のスーツ姿で、大分落ちついてはいるが、青ざめて、目を赤く充《じゆう》血《けつ》させている。
明子が頭を下げると、知美も頭を下げたが、ふと明子の顔を見て、思い当ったような表《ひよう》情《じよう》になる。
思い出したんだわ。——へえ、意外とボンヤリじゃなかったのね、と明子は、葬《そう》式《しき》にしては少々不《ふ》謹《きん》慎《しん》なことを考えた。
表に出て、どうせ出《しゆつ》棺《かん》までそう時間もないようなので、しばらく待つことにした。
周囲を見回すと、同様に、出棺を待つ人たち……。
——ふと、明子は妙《みよう》な気がした。
あまりにも、若《わか》い人が少なすぎるのである。
考えてみれば、死んだ白石は大学生だったのだ。
大学の友人たちなどが、もっと大勢やって来てもいいではないか。それなのに……。
周囲を見回しても、父親関係の知人らしい、中年過《す》ぎの人ばかり。
どうなっているのかしら?
明子は首をひねった。
「——もし」
と、誰《だれ》かの手が肩《かた》に触《ふ》れる。
「はあ」
振《ふ》り向くと、ちょうど明子の父親ぐらいの年《ねん》齢《れい》の男が立っている。別に黒服ではなかった。
「何か?」
「つかぬことをうかがいますが、亡《な》くなった紘《こう》一《いち》さんのお知り合いで?」
「ええ……。まあ、そんなところです」
「では、ちょっとこちらへ——」
わけが分らなかったが、ともかく、その男について、少し離《はな》れた所の、小さな公園まで歩いて行く。
そこに、十八、九の女の子が待っていた。
——いや、 顔は若《わか》くて、 たぶん十八、 九だと思えるのだが、 一見して、 お腹《なか》の大きいのが分る
「これは娘《むすめ》です」
と、その男は言った。「あの男に騙《だま》されて、こうなりました」
「あの男?」
「白石紘一です」
明子が目をパチクリさせて、
「本当ですか?」
と、思わず訊《き》いた。
「本当よ」
と、その娘は恨《うら》みがましい目で、
「あの人がまさか結《けつ》婚《こん》してるなんて……。時期が来たら親に正式に話をして、結婚しようとか言って——」
「白石さんが?」
「あなたも、やっぱり騙《だま》された口なの?」
明子はあわてて、
「いいえ」
と首を振《ふ》った。「私は、ただ仕事の上で、知っていただけよ」
「そうなんですか」
と父親が頭をかいて、「いや、それは失礼。てっきりうちの子と同じような女《じよ》性《せい》かと思いまして……」
「そんなに何人も?」
「私の知ってるだけで他に三人もいたのよ」
と、女の子がカッカしながら、「結《けつ》婚《こん》の約《やく》束《そく》してたっていうのよ、みんな! 許《ゆる》せない!」
これには明子もびっくりした。
あの知美が聞いたら、どう思うだろうか。
「それで——どうするつもりなんですか?」
と、明子は言った。
「もちろん、訴《うつた》えてやるわ」
と、女の子が言った。「もう子《こ》供《ども》は七か月よ。おろせないんだもの。あいつが死んだって、親からでも、お金を出させてやらなくちゃ」
「当然の権利だと思いますよ」
と、父親も腹《はら》立《だ》たしげに言った。
もちろん、それが事実なら、当然請《せい》求《きゆう》する権利はある。
しかし、——明子はちょっとがっかりしていた。
この調子では、白石を恨《うら》んで、殺す動機のある人間が、他に、もっといるかもしれない。
そうなると、白石の死は、明子が調べている事《じ》件《けん》とは無《む》関《かん》係《けい》かもしれないのだ。
「お気持、分りますわ」
と、明子は言った。
「そうでしょう?」
「でも今は——ともかくお葬《そう》式《しき》が済《す》むまで待ってあげた方が良くありませんか?」
「いや、そうはいかん」
と父親が首を振《ふ》る。
「どうしてです? 白石さん当人はともかく、 あの奥《おく》さんには凄《すご》いショックですよ、 きっと」
「だからこそ、じゃない」
と女の子がお腹《なか》を撫《な》でて、「これを見せて、この子の父親は白石紘一です、って大声で騒《さわ》いでやる、っておどかすの。お客たちの手前、向うも高い額《がく》でもあわてて承《しよう》知《ち》するわよ」
明子は、どうもそういうやり方は好《す》きでなかった。——しかし、この親子に意見する立場でもない。
「パパ、そろそろ出《しゆつ》棺《かん》よ」
「そうか。待とう。出て来るところを捕《つか》まえるんだ」
「じゃあね、バイバイ」
と、娘《むすめ》の方が明子に手を振る。
明子は首を振った。——どうなるのかしら?
明子は、しばらくその場に立って、様子を見ていた。
棺《かん》が出て来て、霊《れい》柩《きゆう》車《しや》に納《おさ》められる。
白石紘一の父親らしい男《だん》性《せい》が、代表して挨《あい》拶《さつ》を述《の》べる。
そして、霊柩車と何台かのハイヤーが、列を作って、走り出し、集まっていた人々が帰り始めた。
「おかしいわ……」
と、明子は呟《つぶや》いた。
じっと見ていたのだが、妻の知美が、出て来なかったのだ。
そんなことがあるのだろうか?
見落としかもしれない、と思ったが、あれだけ用心して見ていたというのに……。
門の前が、閑《かん》散《さん》として来ると、明子は、門の中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
受付などを手伝いに来た人たちが、片付けをしている間を抜《ぬ》け、家の裏《うら》手《て》に回ってみる。
「——ともかく、話は分ったんでしょうね、ええ?」
と、甲《かん》高《だか》い声。
さっきの、お腹《なか》の大きな女の子だ。
「ともかく、これで娘《むすめ》の一生はめちゃくちゃなんですよ」
と言っているのは父親の方だ。「それはあんたのせいじゃない。よく分ってはいるが、しかし、やっぱりあんたのご亭《てい》主《しゆ》のやったことだからね」
そっと覗いてみると、庭へ面した和室で、あの親子と、知美が向かい合っている。
「申し訳《わけ》ありません」
と知美が頭を下げる。「父とも相談しまして、必ずご返事します」
「当り前よ。冗《じよう》談《だん》じゃないわ」
女の子の方は、やくざっぽい口調だ。
「ともかく、差し当り、入院や出産の費用として、三百万ほど用意してもらいましょうかね」
と、父親が言った。「後のことは、できれば、こっちも裁《さい》判《ばん》沙《ざ》汰《た》にせずに、穏《おだ》やかに済《す》ませたいんですよ。分ってもらいたいな。——もっと騒《さわ》ぎ立てて、金《きん》額《がく》をつり上げてもいいが、私どもはそこまでやりたくない」
知美は、じっと顔を伏《ふ》せたままだ。
「まあ、よく相談してもらいましょう」
と父親が立ち上る。「さあ、帰ろう」
「うん」
娘《むすめ》は、どっこらしょ、と立ち上り、「あんたはどうなの? できてるの?」
と言って、笑《わら》った。
「おい、行くぞ」
と、父親が促《うなが》す。「——ああ、奥《おく》さん、三百万は来週にはほしいですね」
「かしこまりました」
知美は、青ざめた顔で、言った。
——父親と娘《むすめ》が出て行くと、知美は、彫《ちよう》像《ぞう》のようにじっとして、動かなかった……。