17 学友の話
「そろそろ——」
と、知美が立ち上った。
若《わか》い未《み》亡《ぼう》人《じん》である。しかし、そういう目で見るせいか、それとも、黒いスーツのせいか、とても十七歳《さい》には見えない。
人間は悲しみに堪《た》えて大人になるんだわ、と、明子は、一人で納《なつ》得《とく》していた。
私なんか大人になるはずだわ。お小《こ》遣《づか》いの少ない悲しみ、恋《こい》人《びと》のいない悲しみ、憂《う》さ晴らしに放り投げる相手のいない悲しみ……。
あんまり大したことのない悲しみばかりを数え上げて、明子は一人で肯いていた。
「お骨《こつ》が帰って来るのね」
と、知美は言った。「あの人が焼かれてるなんて思うと、辛《つら》くって。一《いつ》緒《しよ》に死んじゃいたくなるわ」
そんなもんかしら、と明子は思った。
私なら、どんなにいい亭《てい》主《しゆ》が死んだって、一緒に死ぬ気にはなれないけどね。
といっても、亭主のいない身では、そう断《だん》言《げん》もできないが。
「一つ訊《き》きたいことがあるの」
と明子は言った。
「何かしら?」
知美は明子の方を見た。
「ご主人、大学生だったわけでしょう?」
「ええ」
「それにしちゃ、お友達でご焼《しよう》香《こう》に来た人が少ないように思ったけど」
知美は、もう一度明子の前に座った。
「私、そんなこと、考えてもみなかったわ」
「私も、別にずっと見てたわけじゃないから、よく分らないけど——」
「いえ、本当にそうよ。その通りだわ」
知美はゆっくりと肯《うなず》いた。「ほとんど——いいえ、一人も来なかったんじゃないかしら。こんなことってないわよね」
「何か事《じ》情《じよう》があるのかしら」
知美はじっと考え込《こ》んだが、やがて首を振《ふ》って、
「思い当らないわ。——私、放っておきたくない。何人か、主人のお友達も知っているから、訊《き》いてみるわ」
「私、お手伝いしてもいい?」
「お願いできる?」
こっちからお願いしたいくらいだ。明子はもちろんしっかりと知美の手を握《にぎ》ったのだった。
玄《げん》関《かん》の方に、車の音がした。
「帰って来たんだわ」
知美は立ち上ると、シャンと背《せ》筋《すじ》を伸《の》ばし、夫の遺《い》骨《こつ》を出《で》迎《むか》えるべく、玄関の方へと歩いて行く。
その後ろ姿《すがた》には、一種、悲《ひ》壮《そう》な美しさすら漂《ただよ》っていた……。
その二日後のことである。
明子は、知美に呼《よ》び出されて、白石紘《こう》一《いち》の通っていたA大学の校門前にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》へ出向いた。
「あら……」
知美を見て、明子は戸《と》惑《まど》った。
淡《あわ》いグレーのセーターに、水色のスカート。ちょっと小《こ》柄《がら》ではあるが、大学生といって通りそうな印象だった。
「どうもすみません、わざわざ」
と、知美はピョコンと頭を下げた。
「いいのよ。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
「ええ。いつまで泣《な》いてたって、あの人が生き返るわけじゃなし……」
若《わか》さというものなのか、その微《び》笑《しよう》には、か《ヽ》げ《ヽ》り《ヽ》がなかった。
悲しくないわけではないのだろうが、体の方が生命力に溢《あふ》れているのだ。
「そう、その調子よ」
と、明子は座りながら、言った。「人生、こういう悲しみを、いくつも通《つう》過《か》しなきゃならないんですからね」
何だか分ったようなことを言って、自分で照れくさくなり、
「あの——コーヒー一つ」
と、注文した。
「実は、主人の親しかったお友達に電話してみたの」
と、知美が言った。
「で、何か分った?」
明子が身を乗り出す。
「それが——」
と、知美は肩《かた》を寄《よ》せて、「誰《だれ》も話してくれないの」
「話してくれない?」
「ええ。お葬《そう》式《しき》には出たかったんだけど、どうしても外せない用があって、とか……。みんながそう言うの。おかしいでしょう?」
「何か事《じ》情《じよう》がありそうね」
「それに会ってお話がしたい、って言うとみんな、『ちょっと忙《いそが》しくて』とか、『その内に』とかって逃《に》げちゃうの」
「いくら何でも冷たすぎるわね、お友達にしては」
「ねえ、そうでしょう?」
「それで……ここへ来たのは?」
知美は大学の正門を、窓《まど》越《ご》しに眺《なが》めて、
「この席からよく見えるでしょ? よく紘一さんが出て来るのを、ここで待っていたの。だから、ここで、主人のお友達が誰か出て来るのを見ていようと思って」
「そうね。向うがそうも逃げるとなれば、ますます追っかけなきゃ」
明子は肯《うなず》いた。
「下手《へた》をすると、ちょっと待たなきゃいけないけど……」
「構《かま》やしないわ。どうせこちらは停学中で——」
と言いかけて、明子はあわてて口をつぐんだ。
しかし、知美の方は、ちょうど校門を出て来た数人のグループに気を取られている様子だった。
「あの人——いいえ、違《ちが》うわ」
と、がっかりしたように首を振《ふ》る。
「まあ、のんびり待ってましょうよ」
ちょうどコーヒーが来たので、明子は、ミルクを入れながら言った。
「あの人!」
と知美が言った。
「え?」
「今入って行く青いセーターの。あれ、きっとそうだわ」
と知美が腰《こし》を浮《う》かす。
明子は、まだコーヒーに口をつけていない。置いて行くのはもったいない!
「待って」
と、知美を抑《おさ》えて、「ここへ連れて来てあげるわ」
「ええ?」
「ここの方がゆっくり話もできるでしょう」
「それはそうだけど——」
「待ってらっしゃい」
明子は、急いで席を立つと、店を出た。
青いセーターの、少々——いや、かなり肥《ひ》満《まん》タイプのその学生は、薄《うす》っぺらい本と、分《ぶ》厚《あつ》い漫《まん》画《が》週《しゆう》刊《かん》誌《し》をかかえて、大学構《こう》内《ない》へ入って行った。
大体、もうお昼過《す》ぎだ。こんな時間に大学へ出て来て、勉強する気なんかあるのかしら?
明子は、自分のことは棚《たな》に上げて、思った。
足早にその青いセーターを追い越《こ》すと、やにわに振《ふ》り返り、
「あら! 久《ひさ》しぶりねえ!」
と声を上げた。
青いセーターは、自分が声をかけられたとは思わないのか(当然だが)、チラッと明子を見て歩いて行こうとする。
明子は、その腕《うで》を、ぐいとつかんだ。合気道で鍛《きた》えているから、そう簡《かん》単《たん》には振り離《はな》されはしない。
「な、何するんです?」
と、面《めん》食《く》らって明子を見る。
「本当に懐《なつか》しいわ、元気そうね!」
「あの——」
「少し太ったんじゃない? 大分かな?」
「何ですか、僕《ぼく》は——」
「ゆっくり話でもしましょうよ。ちょうどそこの喫《きつ》茶《さ》店《てん》が空《す》いてるみたいだから」
と、腕《うで》を引《ひつ》張《ぱ》る。
「待って——待って下さいよ! 僕はあんたなんか——」
「どうしているかと思って、ずっと気にはしてたのよ。さあ、つもる話に時を忘《わす》れましょう!」
ぐいぐい引張って行く。
「ちょっと——困《こま》りますよ、——僕、これから、授《じゆ》業《ぎよう》が——」
と青いセーターが抗《こう》議《ぎ》しようとすると、明子は、その手首をエイッとねじってやった。
「痛《いた》い! 痛……」
青いセーターは飛び上りそうになった。だらしがないんだから!
「逆《さか》らって動くと、手首の骨《ほね》が折れるわよ」
と、明子は低い声に凄《すご》みをきかせて、言った。「分った?」
青いセーターが無《む》言《ごん》でコックリ肯《うなず》く。
「じゃ行きましょう。会えて良かったわ!」
明子は、青いセーターを、喫茶店の中へと、ぐいと押《お》しやった。
席から知美が立ち上る。
「西川さんでしたね」
「あ——白石の——」
「知美です。何度か家にみえて——」
「はあ、どうも……」
青いセーター——いや、西川という名前もあるらしいから、そっちで呼《よ》ぶことにすると——西川は、ヒョイと頭を突《つ》き出すように頭を下げた。
「ゆっくり座んなさいよ」
明子がポンと肩《かた》を叩《たた》くと、西川は、あわてて椅《い》子《す》にドシンと腰《こし》をおろした。キーッと、椅子が悲鳴を上げた。
「ちょっと! 壊《こわ》さないでよ」
と明子は言って、自分の席に腰をおろした。
良かった! コーヒーはまだ冷めていない。
「お葬《そう》式《しき》に行けなくてどうも……」
と、西川は頭をかいた。「どうしても行かなきゃいけない所があって——」
「ちょっと」
と、明子が言った。
「え?」
「また腕《うで》をねじられたいの? 友達のお葬式に出られないような用なんてもんがあるはずないでしょ。正直に言わないと首をねじっちゃうわよ」
西川が、あわてて太い首を手でさすった。
「いや……つまり……」
「西川さん」
と知美が言った。「主人のお葬《そう》式《しき》に、お友達が一人も来なかったんです。いくら何でも、これは偶《ぐう》然《ぜん》とは思えませんわ。そうでしょう?」
「はあ……」
「わけを知りたいんです。それにあの人は、事《じ》故《こ》で死んだのでも、病気で死んだのでもありません。殺されたんです! だけど、警《けい》察《さつ》の捜《そう》査《さ》は一向に進まないし。
——私、事実が知りたいんです!」
西川はもじもじしていたが、やがて諦《あきら》めたように、
「分りました」
と、肯《うなず》いた。「でもその前に——」
「なあに?」
と明子が訊《き》く。
「チョコレートパフェを頼《たの》んでもいいですか?」
と、西川は言った。