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忘れられた花嫁20
日期:2018-09-28 18:33  点击:325
 20 明子の危《き》機《き》
 
 「お嬢《じよう》さん」
 と、声をかけて来たのは、一向にヤクザ風でもない、ごく普《ふ》通《つう》の中年の主《しゆ》婦《ふ》だった。
 「私ですか?」
 と、明子は顔を上げた。
 A大学の裏《うら》門《もん》に近い、スナック。
 まだ昼前なので、ガラ空きである。
 「そう。——ちょっとお話があるの」
 明子は、困《こま》ったな、と思った。
 例の「アルバイト」の口をかけて来る人間に、見られようとして、ここ三日間、A大学の近くの店をうろついているのだが、一向に声もかからない。
 たまにかかれば、こんな、どこかのおかみさんタイプの女《じよ》性《せい》。
 きっと、生命保《ほ》険《けん》の話でもする気じゃないのかしら。
 いいとも言わない内に、その主婦は、明子の向いの席に座っていた。
 「あなたここの大学生なの?」
 「ええ」
 と、明子は肯《うなず》いた。
 「大学に行かないの?」
 「面白くないんだもの」
 と、明子は、ちょっとワルぶって見せた。
 「何をしてるわけ?」
 「何をしようかって考えてるの」
 「そうなの。でも、お金、あるの?」
 「少しならね」
 と明子は肩《かた》をすくめて見せた。
 「お金、ほしい?」
 「もちろんよ」
 これは、ちょっと怪《あや》しいな、と明子は思った。
 「いいアルバイトがあるの。どう? やらない?」
 「封《ふう》筒《とう》貼《は》り? あて名書き?」
 主《しゆ》婦《ふ》は笑《わら》って、
 「そんなんじゃ、一か月かかって、やっと何千円かよ」
 「アルバイトなんて、大体そんなもんじゃないの」
 「一時間で二万円。どう?」
 明子は、目をパチクリさせて、主《しゆ》婦《ふ》の顔を眺《なが》めた。
 この主婦が、売春のあっせん?——まさか!
 「どういうバイト?」
 と、明子は聞いた。
 「楽しいわよ。面白くてためになって、お金になるわ」
 明子は、フフ、と笑《わら》って、
 「じゃ、決ってるわね」
 と、言った。
 「そう。そ《ヽ》う《ヽ》い《ヽ》う《ヽ》バイトよ」
 と、主婦は微《ほほ》笑《え》んだ。
 「どうやって、相手と会うの?」
 「待って。その前に、言っとくけど、三万円の約《やく》束《そく》なの。その内、一万円をこっちへ納《おさ》める」
 「いいわ。もっとチップをもらったら?」
 「それはあなたのものよ」
 「へえ。——でも、何だか心配だな」
 「今は危《あぶな》い時期?」
 話が生々しくなって来て、明子はエヘンと咳《せき》払《ばら》いした。
 「そうじゃないけど——変な相手じゃいやだしさ。こう——まともじゃないのは」
 「その点は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。うちのお客は、上等だし、お金もあるわ。それに年《ねん》齢《れい》の行ってる人が多いから、上手よ」
 「そう?」
 「それに、若《わか》いのみたいに、ただやればいいってのと違《ちが》って、ムードがあるわ。絶《ぜつ》対《たい》に、楽しめるわ」
 明子は、迷《まよ》っているふ《ヽ》り《ヽ》をして、
 「でも、一つ心配なのよ」
 と言った。
 「なあに?」
 「暴《ぼう》力《りよく》団《だん》とかさ、そんなののヒモつきだと、あとで怖《こわ》いじゃないの」
 「その点は大丈夫」
 「でも、おばさんだって、責《せき》任《にん》者《しや》じゃないんでしょ?」
 「私は外交員よ」
 保《ほ》険《けん》だね、まるで。
 「上の人に会わせてよ。そしたら安心できるから」
 「それは、まず腕《うで》を見てから」
 「腕?」
 「そう。お客が満足して、また会いたい、って言うようなら、合格よ」
 明子は、ゴクリとツバを飲み込《こ》んだ。——こうなると、やめるわけにもいかなくなってしまう。
 「いいわ」
 と明子は言った。「じゃ、これが試験ってわけね」
 「じゃ、商談成立ね」
 と主《しゆ》婦《ふ》は、肯《うなず》いて、「待ってて」
 店の赤電話の方へ歩いて行くと、どこやらへ電話をしている。
 呆《あき》れたもんだわ、と明子は思った。
 あんな普《ふ》通《つう》の主婦が、こんな仕事をしているんだ!
 「はい。——じゃ、すぐにそこへ。——はい、それじゃ」
 主婦は急ぎ足で戻《もど》って来た。
 「良かったわ、ちょうど今、お客がいるの」
 「え?」
 「案内するわ。行きましょ」
 と促《うなが》される。
 明子は迷《まよ》ったが、ここで、いやだと言い出せば、もう声はかかるまい。
 何とかなるさ! 明子は椅《い》子《す》をずらして立ち上った。
 
 連れて行かれたのは、ちょっと小ぎれいなマンションの一階にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》。
 主《しゆ》婦《ふ》は店に入って、中を見回すと、週《しゆう》刊《かん》誌《し》を開いている中年の男の方へ歩いて行った。
 「お待たせして」
 「君が?」
 と中年男が目を丸《まる》くした。
 「違《ちが》いますよ」
 と主婦は笑《わら》って、「入口に立ってる子です」
 と、明子の方へ目をやった。
 「いかがです?」
 「——うん、なかなかいい」
 と、中年男は肯《うなず》いた。「結《けつ》構《こう》だね」
 こっちはコケコッコーだわ。明子は、仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》で立っていた。
 「じゃあ……」
 と主婦は明子の方へやって来ると、「一時間したら、ここに来て待ってるわ」
 と言って、ポンと肩《かた》を叩《たた》いた。
 「しっかりね」
 「どうも——」
 成り行きとはいえ、少々困《こま》った事《じ》態《たい》であった。
 中年男は、見たところ、そういやな男でもない。
 まずは上級のサラリーマンである。
 「出ようか」
 と、席を立ってやって来る。
 「はあ」
 どうしようか?
 明子が割《わり》合《あい》のんびりしているのも、いざとなれば、合《あい》気《き》道《どう》がある、と思っているからである。
 ともかく、まず、どこへ行くのかを確《たし》かめよう、と思った。
 それから、例の「相《あい》棒《ぼう》」の手がかりがつかめるかもしれない。
 ところが、その中年氏は、外へ出ずにそのままマンションのホールへと入って行ったのだ。
 「どこに行くの?」
 と、明子は訊《き》いた。
 「何だ知らんのか?」
 「ええ」
 「じゃ、本当に初めてなんだな」
 と、中年氏はニヤリと笑《わら》った。
 「このマンションの中に部《へ》屋《や》があるのさ」
 「ここに?」
 これは有力な手がかりだ、と思った。
 マンションであるからには、その部屋の持主がいるはずだからだ。
 よし、後で調べてみよう。
 エレベーターで四階に上る。
 「——四〇二号室だよ」
 と、中年氏が廊《ろう》下《か》を歩きながら言った。
 静かだった。どの部屋にも、人がいないのかしらと思うほどである。
 「ここだ」
 中年氏が鍵《かぎ》を出して、ドアを開ける。「この鍵が三万円とはね。——まあ、入って」
 明子は、上り込《こ》んだ。
 ごく普《ふ》通《つう》の、2LDKぐらいのマンションである。
 「ここがいつも?」
 と、明子は訊《き》いた。
 「ああ。他にもいくつか部屋があるんだ」
 「このマンションの中に?」
 「あちこちさ。——さあ、時間がない」
 いきなり後ろから抱《だ》きしめられて、明子はあわてて身をよじった。
 「あ、あの——ちょっと——いくら何でもムードが——」
 「なるほど」
 と中年氏はすぐに手をほどいて、
 「じゃ、アルコールをちょっとやろうか」
 「そ、そうね……」
 明子はホッと息をついた。
 どの辺でやっつけるかな。——もう少し聞き出してから。
 このおっさん、何度かここを利用しているらしい。
 「——さあ、カクテルだ。甘《あま》いからね」
 とグラスを二つ持って来た。
 アルコールなら、明子は少々のことではへばらない。
 「じゃ、乾《かん》杯《ぱい》だ」
 「ええ。——乾杯」
 と、明子はグッとグラスをあけた。
 頭がクラクラした。足がもつれる。
 手から、グラスが落ちた。立っていられない。
 「私——どうして——」
 明子は、床《ゆか》に座り込《こ》んでしまった。
 「薬に慣《な》れてないね」
 と、中年氏が楽しげに言った。「よく効《き》いたな」
 「薬ですって?」
 「そう。薬で動けなくなったところで楽しむのが好《す》きでね。——シャワーを浴びて来よう。その間に、君は身動きできなくなる」
 口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きながら、中年氏がドアの一つの向うへ消える。
 明子は這《は》って出口の方へ進もうとしたが、一メートルと行かずに、手足がしびれて、動けなくなってしまった。
 

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