21 天の助け
さすがに呑《のん》気《き》な明子も焦《あせ》っていた。
バスルームからは、中年男がシャワーを浴びている音が聞こえる。早く逃《に》げ出さないと、体が薬で言うことをきかない内に、思いのままにされてしまう!
畜《ちく》生《しよう》、薬を使うなんて、男のくせに、汚《きた》ないぞ!
しかし、今はそんな文句を言ってみたところで、助かるわけではない。自分の力で何とか切り抜《ぬ》けるしかないのだ。
さあ、明子、頑《がん》張《ば》って!
もう一度、必死で這《は》いずってみる。少しだが、体が動いた。
そうよ! その調子!
しかし、玄《げん》関《かん》までは、まだまだ距《きよ》離《り》があった。
男の方はよほどこういうことに慣《な》れているらしい。ちゃんと、動けなくなる程《てい》度《ど》の薬の量を心得ているのだろう。
居間から体半分ほど這い出たところで、バスルームから男が出て来た。
「——おや、大分頑《がん》張《ば》ったな」
と男は笑《わら》った。「しかし、残念ながら、とても間に合いそうもないね」
ああ、悔《くや》しい! 何とか手はないのかしら!
明子は、唇《くちびる》をかんだ。尾形の言うことを聞いて、おとなしくしてりゃ良かったかな。
でも、明子だって、そんないくじなしではない。
自分から危《き》険《けん》を承《しよう》知《ち》で飛び込《こ》んだのだ。自分で何とか対《たい》処《しよ》しなくては。
「さて、ゆっくり楽しむには、君をベッドの方へと運んで行かなきゃね」
男は、裸《はだか》にバスタオルを腰《こし》に巻《ま》いただけというスタイルで、明子の傍《そば》に立ってニヤついている。
「さあ、もう諦《あきら》めろ。——後になりゃ、楽しかったと感《かん》謝《しや》するようになるさ」
冗《じよう》談《だん》じゃないわよ、誰《だれ》があんたみたいな——。しかし、明子は、口も思うようにきけなかった。
「さて、どうするかな」
と男は明子を眺《なが》めて、「ここで裸《はだか》にしてから連れて行くか。それともベッドでか。——やっぱり順《じゆん》序《じよ》通り、まずベッドへ運ぼう」
男は、明子の体を仰《あお》向《む》けにすると、両《りよう》腕《うで》で、明子の体をかかえて、持ち上げようとした。
外国映《えい》画《が》で、よく逞《たくま》しい男《だん》性《せい》がヒョイと美女をかかえ上げているが、あれは日本の男性には少々危《き》険《けん》である……。
「お、割《わり》合《あい》重いな」
そうよ! 鍛《きた》えてあるんだからね!
男が真っ赤な顔をして、エイッ、とかけ声をかけて持ち上げる。
そのとたん、悲鳴が上った。
状《じよう》況《きよう》から言えば、ここで悲鳴を上げるのは明子の方だが、実際に悲鳴を上げたのは、男の方だった。
もっとも、いきなり放り出された明子だって、痛《いた》さに、ウッと呻《うめ》いたのだったが。
男の方は、それどころではない。ウーンと唸《うな》りながら、床《ゆか》に倒《たお》れて、身《み》悶《もだ》えしているのだ。
明子は苦《く》痛《つう》の中でも、一体何が起ったのかしら、と考えた。——男が、腰《こし》に手を当てて、唸りながら、喘《あえ》いでいる。
そうか。「ぎっくり腰《ごし》」だわ。
こんなときだったが、明子は笑《わら》い出しそうになってしまった。だからやめとけ、って言ったのに!
合《あい》気《き》道《どう》をやっていて、明子も、こういうは《ヽ》め《ヽ》になるといかに苦しいか、よく知っている。
あの様子では、相当にひどいらしい。
当分は動けまい。——そうなると、明子の方が有利な立場である。
明子は薬のせいで痺《しび》れているだけなのだから、効《き》き目が薄《うす》れて来れば、元に戻《もど》る。
しかし、あの、ぎっくり腰というやつは、そう簡《かん》単《たん》に治らないのだ。
——薬の効《こう》果《か》は、意外に早く消え始めた。十分もすると、手足の感覚が戻って来て、上体を起せるようになった。
相手も何とか動こうとはしているが、苦《く》痛《つう》で脂《あぶら》汗《あせ》を浮《う》かべて、呻《うめ》いているばかり。
「——天《てん》罰《ばつ》よ、いつもこんなことしてるから」
口がきけるようになると、明子は言った。
「頼《たの》む……。誰《だれ》か呼《よ》んでくれ……」
と、男は喘《あえ》ぎ喘ぎ言った。
「前にもあったの?」
「い、いや、初めてだ」
「相当ひどいわね」
と明子が首を振《ふ》った。「それじゃ当分入院よ」
「ねえ君……お願いだから……あ、いたた……」
「いいわよ、人を呼《よ》んでも」
と、明子は肯《うなず》いて、「でも、誰《だれ》を呼ぶの? 奥《おく》さんでも?」
「おい! ふざけてる場合じゃ——」
「だって、そうじゃない。救急車を呼んだっていいけど、そうなったら、あなたの家にも連《れん》絡《らく》が行くのよ。どうして、こんなマンションで、バスタオル一つで倒《たお》れてたのか、どう奥さんに説明するの?」
男はハアハア言いながら、
「しかし——じゃ、どうすりゃいいんだ!」
「知らないわよ」
明子は頭を振った。「若《わか》い女の子に薬なんかのませて、まともな男のすることじゃないわ」
そして、ゆっくりと手足に力を入れてみる。
——何とか立てそうだ。
「ああ、生き返った」
ソファに腰《こし》をおろすと、明子は、息をついた。——天は我《われ》を見《み》捨《す》てなかった!
男の方は転がろうとして呻《うめ》き、起きようとして叫《さけ》び、本当にひどいようだった。
「こ、こんなことをしていられないんだ!——夕方には会社へ戻《もど》らないと……」
男は必死の形《ぎよう》相《そう》で立ち上ろうとして、アーッと悲鳴を上げ、また転がる。
「会社の方にもまずいでしょうね」
と、明子は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。「仕事さぼって、こんな所で女子大生と遊んでた、なんてね」
「ね、ねえ、君」
と男は情《なさけ》ない声で言った。「何とか立たせてくれないか。手を貸《か》してくれ」
「無《む》理《り》よ」
と、明子は言った。「そんなにひどいのは、しばらく寝《ね》てないと治らないわ。お気の毒ですけど」
「そ、そんな……冷たいことを言わないでくれ!」
「仕方ないでしょ、自分のせいなんだから」
明子は、すっかり手足の痺《しび》れも取れて、立ち上ると、ウーンと伸《の》びをした。
「でも見《み》捨《す》てて帰るのも可哀《かわい》そうね」
と、男の方へ歩いて来る。
「何をするんだ?」
男が怯《おび》えたように明子を見上げる。
「たっぷりお礼をさせてもらうわ」
明子が指をポキポキ鳴らした。
「やめてくれ!——触《さわ》られただけで死んじまうよ!」
「あなた、会社へ行きたいんでしょ」
と、明子は言って、うつ伏《ぶ》せになった男の腰《こし》の辺りをまたいで立った。「少々荒《あら》療《りよう》治《じ》をするわよ」
「おい! 何をする気だ!——やめてくれ!」
「静かにしてなさいよ」
明子が右足で男の腰をぐいと踏《ふ》んだから、男の方は、正に断《だん》末《まつ》魔《ま》の悲鳴。
「助けて! 人殺し!」
「どっちが、助けてだか……」
明子は苦《く》笑《しよう》した。「いいこと、我《が》慢《まん》するのよ——」
——次の瞬《しゆん》間《かん》、男は凄《せい》絶《ぜつ》な叫《さけ》び声と共に気《き》絶《ぜつ》してしまった。
「いや、何とも恥《は》ずかしいよ」
ソファに腰をかけた中年男、やっと、シャツとパンツを身につけて、頭をかいた。
「どう、腰の方は?」
と明子が訊《き》く。
「うん。大分楽になった。何とかタクシーでも拾って、会社まで行くよ」
「でも、ちゃんと病院へ行かなきゃだめよ。放っとくと、また同じようになるわよ」
「ああ、そうする」
と男はため息をついた。「いや、もうこりごりだ」
「これで、少しは心を入れかえるのね」
「君は変ってるな」
と、男は明子を見た。「どこで、ぎっくり腰《ごし》を治す方法なんて憶《おぼ》えたんだい?」
「合《あい》気《き》道《どう》やってるの」
男は目を丸《まる》くした。
「手を出さなくて良かった!」
そして、ちょっと戸《と》惑《まど》い顔で、「どうして僕《ぼく》と一《いつ》緒《しよ》にここへ来たんだい?」
と訊《き》いた。
「あなたに訊きたいことがあってね」
「僕に?」
「教えてくれる?」
「何だい、一体?」
明子は、もう一つのソファに腰《こし》をおろすと、言った。
「あなた、ここを何度ぐらい使ってるの?」
「ここ、っていうと——この部《へ》屋《や》のことかい?」
「そうじゃなくて、あのおばさんの持って来た話のことよ」
「ああ……。つまり、何度ぐらいあ《ヽ》そ《ヽ》こ《ヽ》を利用してるのか、ってことだね」
「そう」
「そうだなあ」
と、男は考えて、「五、六回じゃないかな、まだ」
「五、六回ね。——そもそも、どこで知ったの?」
「町で声をかけられたんだ。——夜、飲んだ後だったな」
「声をかけて来たのは?」
「そいつが、よくあるチンピラ風の奴《やつ》だったら、こっちもごめんこうむるんだがね、一見ごく当り前の主《しゆ》婦《ふ》なんだよ」
「さっきみたいな?」
「うん、そうなんだ。で、ちょっと話を聞くと、三万円で本物の女子大生だ、っていう。そのときは本気にしてなかったんだ。酔《よ》ってたしね。ま、若《わか》い子ならいいや、と……」
「で、ついて行ったのね」
「そのときは、渋《しぶ》谷《や》の方のマンションだったな」
「その奥《おく》さん風の女って、さっきの人とは違《ちが》うのね」
「いつも別だよ。どうしてかは、よく知らないけど」
「それで、女の子と楽しんだわけね」
「まあね。——それが、どう見ても本物の女子大生なんだ。しかも可愛《かわい》くてね。すっかり気に入って……」
「病みつきってわけね」
「そういうことさ」
男は肩《かた》をすくめて、「その内、何か、変った刺《し》激《げき》がほしくなって——」
「薬で女の子を動けなくさせて、なんて、ポルノ映《えい》画《が》の見すぎじゃないの?」
「いや、でも結《けつ》構《こう》喜ぶ子もいるんだ。本当だよ」
「女子大生の方も、いつも違《ちが》う子が来ていたの?」
「うん、そうだったね。——一時、なぜだか、途《と》切《ぎ》れてて、ちょっとヤバくなったのかな、と思ってたんだけど、また久《ひさ》しぶりに声がかかって——」
「喜び勇んでやって来た、ってわけね」
「そんなところだ」
男は苦《く》笑《しよう》した。「こんなことになるとは思わなかった」
「この組《そ》織《しき》のこと、何か知ってる?」
と、明子は訊《き》いた。
「さあね。どうして?」
「それを調べてるの。ちょっと事《じ》情《じよう》があって」
「へえ。じゃ、君はアルバイトのつもりで来たんじゃないのか」
「そうよ」
「どうも、ちょっと様子が違うな、と思ったよ」
「何か知らない?」
男は考え込《こ》んだ。
「ウーン、そうだなあ……」
「何でもいいの。どんな細かいことでもいいから……」
「連《れん》絡《らく》はいつもあっちから会社へかかって来るんだ。仕事の電話みたいに見せかけてしゃべるんだけどね」
「電話をかけて来るのは?」
「男だよ、いつも」
「知ってる?」
「いや、会ったことはない。でも前は、えらい若《わか》い感じだったけど、今日は違ってたな」
その「若い男」というのは、白石だったのかもしれない、と明子は思った。
「で、あなたが、その気があると——」
「うん、約《やく》束《そく》するんだ、何時でどこ、という風にね。そこに誰《だれ》か主《しゆ》婦《ふ》らしい女が一人でやって来る」
「でも、あなた、さっきあの女の人を見て、びっくりしてたじゃないの」
「普《ふ》通《つう》は、女の子も一《いつ》緒《しよ》だからさ、君は店の入口の所にいただろう」
「あ、そうか。——でも、不思議ね。なぜ、ああいう、普通の奥《おく》さんみたいな人が出て来るのかしら?」
「それは僕《ぼく》も考えたよ。たぶん、女子大生に話をもちかけるとき、向うが安心するんだと思うね。変な男が声をかけるよりも、同《どう》性《せい》の、それも年《ねん》齢《れい》の上の人から言われた方が、何となく安心だろう」
なるほど、そうかもしれない。
しかし、それだけでは、ああいう主《しゆ》婦《ふ》が、何《ヽ》人《ヽ》も《ヽ》加わっていることの理由には、ならない……。
他に何かあるのだ、もっと……。
「——もう会社へ行く時間だ」
と男は言って、そっと腰《こし》へ手をやった。
「立てる?」
「何とか……ね。君には世話になった」
「しっかりして。手伝ってあげるわ」
明子は、男が服を着るのに手を貸《か》してやった。
「何とかなったわね」
「ありがとう。そうだ、君に——」
男は財《さい》布《ふ》を出すと、一万円札を三枚出して、「さあ、これが料金だ」
「あら、いいのよ。あのおばさんに渡《わた》す一万円札だけもらえば」
「いや、取っといてくれ。ぎっくり腰《ごし》の治《ち》療《りよう》代《だい》だよ」
明子は——あまりためらわずに受け取ることにした。
男に肩《かた》を貸して、部《へ》屋《や》を出ると、エレベーターで下へ。
「そうだ」
と男が言い出した。「一つ、思い出したぞ」
「なあに?」
「その案内役の女の一人がね、一度、どたん場で女の子に逃《に》げられてね、あわてて電話をかけてたんだ」
「へえ。どこへ?」
「どこだか分らない。でも番号がね、妙《みよう》に覚えやすくて——」
「何番?」
明子は、その番号をメモした。しかし、男の方も記《き》憶《おく》が曖《あい》昧《まい》で、局番などははっきりしないのだった。
「どこかの企《き》業《ぎよう》の代表局番だろうな」
と、男は言った。
「そうね。一が並《なら》んだりして、そんな感じだわ」
どこかで見たような番号である。——どこかしら?
エレベーターが一階につく。
あの主《しゆ》婦《ふ》が待っていた。
「ご苦労さま。——あら、どうかなさったんですか?」
と、男の方がよろけそうなのを見て言った。
「うん、実はね……」
男は明子の方をちょっと見て言った。「この子、凄《すご》くてね、こっちが腰《こし》を痛《いた》めちまったんだ……」