23 哀《かな》しげな男
「私、永戸明子は、こんなことをしていていいのだろうか? 有《ゆう》能《のう》な人物が、封《ふう》筒《とう》のの《ヽ》り《ヽ》付などをやるのは、社会的損《そん》失《しつ》ではないか?」
——まあ、しかし、アルバイトの身、それも「押《お》しかけ女《によう》房《ぼう》」ならぬ「押しかけバイト」なのだから、あまり偉《えら》そうな口もきけないのである。
茂木こず枝が働いていた、この会社、まあ「中小企《き》業《ぎよう》」という呼《よ》び名がふさわしい、パッとしない会社であった。
今どきはやらないタイムレコーダーなどを備《そな》えつけ、コピーの機械も、やたらに大きい、旧《きゆう》式《しき》なもの。封筒だって、今はギュッと手で押《お》すだけでくっつくのがあるのに、大きなは《ヽ》け《ヽ》で、ベタっとの《ヽ》り《ヽ》をつけて一つずつ封《ふう》をするのである。
オフィスの十年前、といったTV番組でも見ているような気分だった。
しかし、それだけに、働いている人間も、のんびりしている。
どうも、現《げん》代《だい》の猛《もう》烈《れつ》なOA戦争、マイコン、コンピューターといったものからは、ポツンと取り残されている感じなのである。
封《ふう》筒《とう》にの《ヽ》り《ヽ》をつけている今は、午後一時半で、当然、午後の仕事は始まっているのだが、何人かの男《だん》性《せい》社員は、スポーツ新聞などを広げている。
女子社員は、といえば、これはおしゃべりに時を忘《わす》れているのだ。
あまり、「充《じゆう》実《じつ》した時間」とはいえないが、明子の如《ごと》く、情《じよう》報《ほう》収《しゆう》集《しゆう》のためにやって来た人間には、ピッタリの職《しよく》場《ば》とも言えた。
「あんまり精《せい》を出さなくてもいいわよ」
タバコをふかしながら、フラリとやって来たのは、どこの会社にも、たいてい一人や二人はいる、「主《ぬし》」のような女《じよ》性《せい》。
四十代か五十代か、見分けのつかない化《け》粧《しよう》をして、女の子たちににらみをきかせている。——社長だろうが部長だろうが、何だってのよ、って感じである。
「はい」
ちっとも精を出してなんかいなかった明子は、少々後ろめたい思いで、でも言われるままに手を休めた。
「うちはバイト料も安いんだからさ、それくらいのことをやっときゃいいの」
と、大《おお》欠伸《あくび》をする。
「はあ」
「よくうちなんかで働く気になったわね」
「別に、どこでも同じようなものかと思って——」
「大《おお》違《ちが》いよ、あんた」
と手を振《ふ》って、「普《ふ》通《つう》の所なら、バイト料はうちの一・五倍よ。あんたも、よそを捜《さが》した方がいいよ」
やれやれ、こういう人にかかっちゃ、会社も大変だな、と明子は思った。
「今はいい稼《かせ》ぎ場所があるじゃないの」
と、その「主《ぬし》」は続けて、「ソープランドとか、ノーパン喫《きつ》茶《さ》とかさ。あんたなんか、結《けつ》構《こう》可愛《かわい》い顔してんだし、そっちでガバッと稼いだら?」
まさか、このおばさんまで、売春の仕事をしてるわけじゃないだろうな、と明子は思った。
いや、そんな感じではない。一見怖《こわ》そうだが、実《じつ》際《さい》は——やっぱり怖いのだ。
しかし、こういう人は、結構、若《わか》い人の相談相手になったりもする。
大体、この手の人は二通りで、底意地が悪くて、若い子たちに嫌《きら》われるか、口やかましいが、その割《わり》に頼《たよ》りにされるかだ。
この人の場合は、いい方じゃないのかな、と明子は思った。
「ここはね、三時から三十分間休めるのよ」
と「主」は言った。
「え? でも、そんなこと、説明されませんでしたけど」
「当り前よ。これは慣《かん》例《れい》、ってやつなの。既《き》成《せい》事実よ。——社長だって、何も言わないのよ」
「へえ」
「だから、バッチリ休んで構《かま》わないのよ」
と、ウインクして見せる。
「また、八《はつ》田《た》さんは——」
と、若《わか》い男の声がした。「だめですよ、純《じゆん》情《じよう》な若い女の子に、そういうことを教えちゃあ」
やって来たのは、声の印象ほど若くもない、三十前後の、こんな会社にしては、ちょっと目につく、いい男だった。
「よっ、色男」
と、八田、と呼ばれたその「主《ぬし》」が、からかった。
「早速若い子の所へ寄《よ》って来たね」
「人聞き悪いなあ」
と、その男は苦《く》笑《しよう》した。
丸《まる》顔《がお》のポチャッとした、童顔で、目がクリッとして可愛《かわい》い。
しかし、あまり明子の好《この》みではなかった。
「僕《ぼく》は丸《まる》山《やま》。——このおばさんは、八田吉《よし》子《こ》っていうんだ。あんまり近寄《よ》らない方がいいよ。売れ残り病が移るからね」
「何よ、こいつ!」
と、八田吉子が殴《なぐ》るふりをする。
適《てき》当《とう》にじゃれ合っている感じなのだ。明子は笑《わら》ってしまった。
「永戸明子です」
「丸山君はね、三十になって独《どく》身《しん》なのよ。プレイボーイの評《ひよう》判《ばん》高いの。——気を付けなさい」
「噂《うわさ》だけですよ」
丸山はタバコに火を点《つ》けた。
「あんた大学生?」
と、八田吉子が、明子に訊《き》く。
「ええ。でも、停学処《しよ》分《ぶん》を食らっちゃって——」
「へえ! 何をやったの?」
「強《ごう》盗《とう》か、殺人か——」
「まさか」
と明子は笑って、「自殺未《み》遂《すい》なんです」
と言った。
「まあ! その若《わか》さで、もったいない!」
これは明子の、もちろんでたらめである。
何とか、茂木こず枝のことへ、話を持って行きたいので、創《そう》作《さく》したのだった。
「どうしてまた……」
「正《せい》確《かく》に言うと、心中未《み》遂《すい》なんです」
と、明子は言った。
「まあ、今でも心中する人なんているの!」
と、八田吉子は感心したように言った。
「私も、カーッとなってたもんですから」
「で、相手は? 死んだの?」
「いいえ、二人とも大したことなくて。睡《すい》眠《みん》薬《やく》服《の》んだんですけど、今の睡眠薬って、そう死なないんですよね。——結局、見付かって大《おお》騒《さわ》ぎ」
「で、その彼《かれ》とは?」
「変なもんで、そんなことがあると、フッ切れちゃうんです。別れて、今は未《み》練《れん》もありません」
ウム、なかなか名《めい》演《えん》技《ぎ》である。明子は自分でも感心していた。
さり気ない哀《かな》しさ、というのは、なかなか出せないものである。——私、女《じよ》優《ゆう》になろうかしら、などといい気になっている。
「そうよ。男なんて、どれも似《に》たり寄《よ》ったりで、大したことないの。それを悟《さと》ると、私みたいに独《どく》身《しん》も楽し、ってことになっちゃうのよ」
と、八田吉子は言った。
ふと、明子は、丸山が、目をそらしているのに気付いた。
どこかわざとらしい。話を聞いていないふ《ヽ》り《ヽ》をしているようだ。
「この会社だって、あのこず枝さんがさ——」
と八田吉子が言いかけると、
「八田さん、だめですよ」
と、丸山が遮《さえぎ》った。「社長から、しゃべるなと——」
「何よ、あんなカボチャ」
カボチャ?——社長をカボチャとは、大したもんだ。
「こず枝さんって?」
と、明子が訊《き》く。
「茂木こず枝、ってね、ここの社員だったのよ。ところが自殺。——ほら、結《けつ》婚《こん》式場で花《はな》嫁《よめ》衣《い》裳《しよう》のまま死んでいた、って、記事、見なかった?」
明子は、少し考えるふりをして、
「——ああ、憶《おぼ》えてますわ。ウエディングで死んでいたんでしたわね。じゃ、ここの方だったんですか?」
「そうなのよ。もしかしたら他殺かも、なんていわれてね、警《けい》察《さつ》が来て、何だかんだ訊《き》いて行ったりして、大変だったのよ」
「そうでしょうね」
と、明子は肯《うなず》いた。
「あ、そうだ、電話をしなきゃ」
と、丸山が、ちょっとわざとらしく言って、席へ戻《もど》って行く。
どうやら、丸山と茂木こず枝の間に、何《ヽ》か《ヽ》あったらしい。
明子のアンテナは、鋭《するど》く第六感を働かせていた。
「そのこず枝さんって方は、やっぱり失《しつ》恋《れん》だったんですか?」
と、明子は訊《き》いた。
「さあ、それが分らないのよ」
と、八田吉子は首を振《ふ》った。「私も、そういうことはよく知ってるんだけどね。でも、あの子は、割《わり》合《あい》にいつも一人でいる子だったわ」
「お友だちでもいれば違《ちが》ったんでしょうけどね」
「そうね。やっぱり、あれこれ推《すい》測《そく》が飛んでたけど、きっと、許《ゆる》されない恋《こい》に身を焦《こ》がしてたんじゃない?」
八田吉子の口から、思いもかけず、ロマンチックな表《ひよう》現《げん》が出て来て、明子はびっくりした。
働いていると、一日は短い、とよく言われている。
しかし、明子のこの一日は、至《いた》って長かった。——あまり熱心に働いていなかったせいかもしれない。
「ご苦労様」
と、隣《となり》の席の女の子が声をかけて来た。「真直ぐに帰るの?」
「いえ、別に、どうでも——」
「じゃ、ちょっと飲んでかない?」
「お酒ですか?」
「コーヒーとケーキ」
と言って、クスッと笑《わら》う。
なかなか、気さくな感じの女の子だった。
「——茂木さんって変ってたのよ」
と、その女の子——小《こ》沼《ぬま》宏《ひろ》子《こ》は、ケーキを食べながら言った。
——会社の近くのケーキ屋。二階が、喫《きつ》茶《さ》になっているのである。
「変ってるって?」
「どう言ったらいいのかしら……。つまり変ってるのよ」
明子はため息をついた。——今の若《わか》い世代の表《ひよう》現《げん》力《りよく》の貧《まず》しさたるや!
「恋《こい》人《びと》って社内の人だったのかしら?」
「そう思うわ」
と、小沼宏子は肯《うなず》いた。
「よく分るわね。八田さんは、分らないって……」
「私、電話を取るもの」
と、小沼宏子は言った。
「え?」
「外からの電話を取るの。だから、男《だん》性《せい》からかかって来れば、私には分るのよ」
「ああ、なるほど。で、茂木さんにはかかって来なかったのね?」
「そう。といって、彼女、休み時間にも、外へあまり出なかったから、自分からも電話してないわけでしょ。——男とそんな深い仲《なか》になって、一回も電話のやりとりがないなんて考えられないわ」
これは、なかなか、説《せつ》得《とく》力《りよく》のある意見だった。
座席からは、ちょうど会社の入っているビルの出入口を見下ろすことができた。
ちょっと話が途《と》切《ぎ》れて、何気なく外を見た明子は、あの丸山という男が、出て来るのを目に止めた。
あの人、きっと何か知っている。
「あっ!」
と、明子は突《とつ》然《ぜん》、声を上げた。
びっくりした小沼宏子が、ケーキをつまらせてむせ返る。
「ごめんなさい! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
「ええ——何とか」
「ちょっと、約《やく》束《そく》があったの、忘《わす》れてた。悪いけど失礼するわ」
代金を置いて、まだむせている小沼宏子を残し、明子は表に飛び出した。