26 人《ひと》違《ちが》いのナイフ
「なるほど」
と、肯《うなず》いたのは、検《けん》死《し》官《かん》の志水である。「大分、活《かつ》躍《やく》したようですな」
「危《あぶな》いこともやったようだね」
と、社長が愉《ゆ》快《かい》そうに言った。「いや、君は実に面白い女の子だね。大学を出たら、ぜひうちへ来てくれ」
「いや、婦《ふ》人《じん》警《けい》官《かん》にぴったりです」
と、志水。
時ならぬ「スカウト合戦」に、明子は、あせって、
「今、そんなお話をされても——」
——ここは、結《けつ》婚《こん》式場の社長室である。
志水の方から、その後どうなったのか気にして電話があり、明子の方も、「中間報《ほう》告《こく》」をしようと、やって来たわけであった。
「ともかく、茂木こず枝が、誰《だれ》か妻《さい》子《し》ある男と付き合っていたということは、勤《つと》め先の同《どう》僚《りよう》、丸山の話で明らかなんです」
と、明子は言った。
「しかし、そうなると、この式場で死んだことにどういう意味があったのかな」
と、社長が顎《あご》をなでながら言った。
「そうなんですよね」
「つまり、当日、式をあげた人とは関係ないということになるかな」
と、志水が考え込《こ》む。
「それはどうでしょう。ともかく、佐田房夫って人が、茂木こず枝の名に聞き憶《おぼ》えがあるのは確《たし》かなようですし」
「それが不思議だね」
「それに白石紘《こう》一《いち》が殺されたこと」
「何か関係があるのかな」
「分りません」
と、明子は首を振《ふ》った。「でも、この事《じ》件《けん》が起って、とたんに殺されたというのも、おかしくありません?」
「うん、それはそうだな」
と、社長が肯《うなず》く。
「その女子大生の売春のことと、何か関係があるんでしょう」
と、志水が言った。「その白石という男の検《けん》死《し》をした検死官に、一《いち》応《おう》話を聞いてみました」
「何かおっしゃってましたか?」
「刺《さ》し傷《きず》は至《いた》って鮮《あざ》やかだったそうでね」
「というと——」
「つまり、これは半ばプロのやったことじゃないか、というんですな」
「プロ。——つまり、殺し屋ですか?」
と、明子は目を丸《まる》くした。「そんなの本当にいるのかしら」
「いや、別に『殺し屋』でなくたっていいんです。いわば、刃《は》物《もの》を扱《あつか》いなれた人間、ということですよ」
「となると、やはり、白石という男は、その売春がらみで殺された、というのが正《せい》解《かい》だろうね」
と、社長が肯く。
そこへ、ドアが開いた。
「社長、実は——」
と顔を出したのは、部長の村川である。
明子を見て、ちょっと面白くなさそうな顔になる。
「何だ、君か」
「何だ、部長か」
明子が言い返すと、社長が吹《ふ》き出してしまった。
「ちょっと待ってくれ。すぐに行く」
「はあ……」
村川は、明子をにらんで、出て行った。
「じゃ、私は——」
と、社長が立ち上る。「会議があるので、失礼する」
「どうも」
明子はちょっと頭を下げた。「あの——このまま、捜《そう》査《さ》を続けてよろしいでしょうか」
「うん。やってくれ。もっとも、あんまり危《き》険《けん》なことをやってもらっても困《こま》るが」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です!」
「じゃ、栄養をつけてくれ」
と、社長は、ポケットから券《けん》を一枚出してサインすると、「ここの食堂なら、何を食べてもこれでいいよ」
「ありがとうございます!——一回限《かぎ》りですか?」
と、明子は訊《き》いた。
志水と明子が社長室を出て、食堂のあるロビーの方へ歩いて行くと、
「おい!」
と、声がかかった。
振《ふ》り向くと、尾形が急ぎ足でやって来るところである。
「あら、講《こう》義《ぎ》じゃなかったの?」
「君が変なことを言うからだ」
と息を切らしている。
「私、何か言ったっけ?」
「予約がどうとか——」
「ああ、あれね!」
と、明子は指を鳴らした。「ちょうどお昼を食べるのにね、テーブルを予約しようかと思って——」
「また、僕《ぼく》をからかったな!」
と、尾形は明子をにらんだ。「授《じゆ》業《ぎよう》を休んで来たのに」
「じゃあ、一《いつ》緒《しよ》にどう? タダなんですって、この券《けん》持ってくと」
尾形も、こうなると怒《おこ》るに怒れない。惚《ほ》れた弱味、というところである。
——レストランに入って、明子は、ウエイトレスへ、
「ここで一番高いもの何ですか?」
と訊《き》いた。
尾形はもう昼食は済《す》ませて来たので——何しろ午後の二時だ——コーヒーだけを取った。
志水は楽しげに二人のやりとりを眺《なが》めている。
——尾形も、明子の話を聞くと、
「ふーん」
と肯《うなず》いた。「その茂木こず枝の言った、『皮肉な』仕事って何だろうね?」
「分らないの、それが。ねえ、何か考え、ない?」
「そう言われてもね……」
「それと、白石紘《こう》一《いち》殺しとどう関り合っているかが問題なのよ」
ちょうどステーキが来て、明子はそれにナイフを入れ始めた。
明子はステーキを全部切ってしまってから食べる、という癖《くせ》がある。
これはいい食べ方ではないのだ。おいしい肉《にく》汁《じゆう》が、全部出てしまうからである。
しかし、どうも、一回ごとにナイフを使うというのが面《めん》倒《どう》なのだ。
肉を切り終えると、明子はナイフを置いて、フォークを右手に、食べ始めた。
「大した食《しよく》欲《よく》だね」
と、尾形が苦《く》笑《しよう》した。
ちょうど、そこへ、若《わか》い女《じよ》性《せい》と、中年過ぎの男性が入って来て、三人と少し離《はな》れたテーブルについた。
尾形は、何となくそっちを眺《なが》めていた。
若《わか》い女《じよ》性《せい》の方は、椅《い》子《す》に浅く座って、メニューを開いている。
そのとき、奥《おく》の方のテーブルから、男が一人、立ち上った。そして出口の方へと歩いて行く。
若い女性の後ろを通り抜《ぬ》けるとき、ちょっとその男の足が止った。
——そして、急に足を早めてレジへ行くと、
「つりはいい」
と言い捨《す》てて、伝票と金を置いて行ってしまう。
「おかしいな……」
と、尾形は呟《つぶや》いた。
「じゃ、私、このランチにするわ」
と、若い女性が言って、椅子に座り直そうとする。
「危《あぶな》い!」
と叫《さけ》ぶなり、尾形は、明子の使ったナイフをつかんだ。
ナイフが宙《ちゆう》を走った。
「キャッ!」
若い女性があわてて机テーブルに突《つ》っ伏《ぷ》す。ナイフがその頭上を越《こ》えて行った。
「何をするんだ!」
と、一《いつ》緒《しよ》にいた男が立ち上る。
「その椅《い》子《す》です! もたれかかっちゃいけない!」
尾形が飛び出した。
「え?」
若《わか》い女《じよ》性《せい》が振《ふ》り向いて、「まあ!」
と叫《さけ》んだ。
椅子の背《せ》を突《つ》き抜《ぬ》けて、鋭《するど》いナイフの刃《は》が十センチも出ていた。
「もたれたら、刺《さ》さっていましたよ」
と、尾形が言った。
明子も駆《か》けつけて、目を丸《まる》くする。
「どうなってるの?」
「今、出て行った男だ」
尾形は駆け出した。もちろん、明子もである。
ロビーには、大勢人が出ている。ちょうど一つ、披《ひ》露《ろう》宴《えん》が終ったところらしい。
「——やれやれ、これじゃ無《む》理《り》だな」
と、尾形は息をついた。
「でも、凄《すご》いじゃない!」
と、明子は尾形をつついた。「どこでナイフ投げを憶《おぼ》えたの?」
「よせやい」
と、尾形は顔をしかめた。「夢《む》中《ちゆう》で投げただけさ」
「でも、人助けしたじゃないの」
「まあね……」
「どうして狙《ねら》われたのかしら?」
と明子は言った。
戻って、話を聞いてみたが、一向に思い当らない様子。
「——それはどうやら、人《ひと》違《ちが》いですな」
と、声をかけて来たのは志水だった。
「え? 人違い?」
と、明子は訊《き》き返す。
「そう。きっと狙《ねら》われたのは、あなたですよ」
「私が?」
「あなたと私は二人でここへ来るところでした。ところが途《と》中《ちゆう》で、こちらの尾形さんが加わった」
「そうか!」
尾形が声を上げた。「それで、こちらの二人連れの方が——」
「じゃ、私を殺そうとしたの?」
明子は、今さらながら、ゾッとした。
しかし——確《たし》かに分らなくはない。
この二人連れ、年《ねん》齢《れい》など、明子と志水の二人に良く似《に》ているのだ。
「よし、このナイフだ」
尾形はハンカチを出して、ナイフを抜《ぬ》き取った。
「警《けい》察《さつ》へ届《とど》けないと」
「そうだ。このナイフから、きっと何かつかめるよ」
「それにしても、どうしてこんな所で——」
と明子は首をひねった。
間《ま》違《ちが》えられた二人は、わけも分らず、ただキョトンとしているばかりだった……。