31 塀《へい》の中の秘《ひ》密《みつ》
「村川が……」
と、社長は首を振《ふ》った。「信じられん」
「でも、他に考えようはありませんわ」
と明子はきっぱりと言った。
「分ってるよ」
社長は渋《しぶ》い顔で肯《うなず》いた。「しかし——考えてみてくれ。うちの商売は何だ?」
「結《けつ》婚《こん》式場でしょ」
「そこの部長が、主《しゆ》婦《ふ》や学生に売春のアルバイトをさせていた、と分ったら……」
「もうだめですね」
明子は社長じゃないから、呑《のん》気《き》なものである。
「気軽に言わんでくれ」
「まあ、元気を出して下さい」
と、尾形が多少同《どう》情《じよう》するように言った。
「そうですよ、社長、紅《こう》茶《ちや》がさめます」
明子の言葉はあまり励《はげ》ましにはならないようだった。
村川の家では、まだ捜《そう》査《さ》が続いている。
明子たちは、村川の家の向い側にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、検《けん》死《し》官《かん》の志水が出て来るのを待っていた。
「それに、あの中松進吾を殺して逃《とう》亡《ぼう》したんですもの」
と、明子は続けた。「それに、保《ほ》科《しな》光子さんを殺させたのも、白石紘《こう》一《いち》も、私を狙《ねら》わせたのも、きっと村川だわ」
社長の方は、ますます落ち込《こ》んでいる。
「あの花《はな》嫁《よめ》は——」
と、尾形が言いかける。
「茂木こず枝さん? 彼女《かのじよ》は、きっと村川に手伝わされていたのよ、売春の仕事を。いやになって、それでも村川から逃《に》げられず自殺した」
「なるほど、わざと花《はな》嫁《よめ》衣《い》裳《しよう》を身につけて、村川の働いている式場で死んだわけか」
「村川が先に見付けたんだわ。身《み》許《もと》がわからないように、服や荷物を隠《かく》したんだと思う」
「私は救われん!」
と、社長は天を仰《あお》いで、ため息をついた。
「ただ……」
と、明子が呟《つぶや》く。
「何だね?」
「今、ちょっと考えたの。——あの村川部長って、そんなに大物だったのかしら?」
社長は肯《うなず》いて、
「うむ。君の言うことは分る」
と言った。「私の見たところ、村川は、そんなでかいことのやれる男ではない」
「ねえ? 社長もそう思うでしょう?」
「どっちかといえば、肝《きも》っ玉の小さな男だ。使い走り、というか」
「そう思ったんです、私も。そうなると、村川の上に、誰《ヽ》か《ヽ》いたのかもしれませんわ」
「まだ終らないのかい?」
尾形がうんざりしたように、言った。
「——まあ!」
明子が、突《とつ》然《ぜん》、声を上げた。もちろん、理由あってのことだ。理由なしで急に叫《さけ》んだりしたら、まともじゃないが——いや、そんなことはどうでもいい。
明子が声を上げたのは、目の前を、ゴキブリが走って行ったから、ではなくて、目の前に、佐田千春が立っていたからであった。
「千春さん!」
千春は固い表《ひよう》情《じよう》で、
「あなたの顔が見えたから——」
と、座り込《こ》んだ。「何があったの?」
「え?」
「あの家よ」
と、村川の家の方へ目を向ける。
「あ——そうだわ! あなたは知ってるのよね。中松進吾って人を」
「彼《かれ》がどうしたの?」
「殺されたの」
千春が、さっと青ざめた。
「ああ——やめておけって言ったのに!」
と、絞《しぼ》り出すような声。
「ねえ、教えて。あの人はどういう——」
と言いかけた明子を遮《さえぎ》って、
「私、もう黙《だま》っていられない!」
と千春は叫《さけ》ぶように言うと、店を飛び出して行った。
「千春さん! 待って!」
明子も、あわてて追いかける。
「おい、明子——」
尾形は、どうしたものやら、一《いつ》瞬《しゆん》迷《まよ》って出《で》遅《おく》れた。
明子は、千春がタクシーを拾って、走り去るのを目にすると、ちょうど道《みち》端《ばた》に停《とま》っていた車の中へ、飛び込《こ》んだ。
びっくりしたのは、運転席で週《しゆう》刊《かん》誌《し》を読んでいた大学生らしい若《わか》者《もの》で、
「な、何だよ、——」
「早く車を出して!」
と明子は命《ヽ》令《ヽ》した。
「ええ?」
「あのタクシーを追いかけるのよ!」
「ねえ、ちょっと——」
「命が惜《お》しくないの?」
明子は、指をポキポキ鳴らした。「空手三段《だん》なんだからね!」
「わ、分ったよ!」
若者はあわててエンジンをかけた。
「早く! 見失ったら、腕《うで》一本へし折るからね!」
「何で俺《おれ》が——」
と、ブツブツ言いながら、その大学生、車をスタートさせた。
その大学生の運転が良かったのか、明子の脅《おど》しが効《き》いたのか、何とかタクシーを見失うこともなく、やって来たのは千春の実家——すなわち、中松邸《てい》である。
千春がタクシーを降《お》りて、邸《てい》内《ない》へと入って行くのが見えた。
「ここでいいわ。ご苦労さん」
と明子は言った。
「料金を払《はら》ってくれないの?」
と大学生は言ったが、明子にジロリとにらまれて、
「冗《じよう》談《だん》だよ!」
と、あわてて首をすぼめた。
「あ、そうだ。——ねえ」
「何だよ?」
「ちょっと降りて」
「車、持ってかないでくれよ」
「持って行くほどの車でもないでしょうが」
乗せてもらっておいて、明子も大した度《ど》胸《きよう》である。
明子は、中松邸《てい》の塀《へい》を見上げた。
「ねえ、ちょっとここへ来て、前かがみになってよ」
「何すんだよ?」
「上に乗るの」
「何だって?」
「塀《へい》を乗り越《こ》えるのよ。心配しないで、強《ごう》盗《とう》じゃないんだから」
「当り前だい」
大学生、渋《しぶ》々《しぶ》、塀の前で、背《せ》中《なか》を丸《まる》めてかがんだ。
「もっと平らに。——そうそう。じゃ、私が中へ入ったら、もう帰っていいからね」
「言われなくても帰るよ」
と、大学生は、ふてくされて呟《つぶや》いた。
「エイッ!」
「いてっ!」
大学生の顔が歪《ゆが》んだが、それはほんの一《いつ》瞬《しゆん》で、アッという間に、明子の姿《すがた》は塀の中へ消えていた。
大学生はポカンとして、明子が姿を消した塀の上を見上げていた……。
「何だ、あいつ……」
——中へ入った明子は、庭を忍《しの》び足で進んだ。
居《い》間《ま》が見える。
千春と、父親の中松がいた。中松はソファに座って、千春は立ったままだ。
「どうして殺したのよ!」
と、千春が言った。「あの人には、どうせ何も分らなかったのに!」
「仕方なかったのさ」
中松は肩《かた》をすくめた。「村川の奴《やつ》、焦《あせ》ったのだ。逃《に》げようと準《じゆん》備《び》していたところへ、あいつがやって来たらしい」
「それにしたって……。進吾さんは、血のつながった甥《おい》でしょう!」
「しかし、厄《やつ》介《かい》者《もの》だったからな。そのくせ、何かあるとかぎつけて来て、金をせびった」
「そんな! 白石さんを殺しただけじゃ足りないの?」
「こっちへ火の粉がふりかからんようにするのが肝《かん》心《じん》さ」
中松は一向に動じる気配がない。
「まあ、かけろ」
「——村川さんは?」
千春が、腰《こし》をおろしながら言った。
「消させる。それしかない」
中松が、あっさりと言った。
そうか。——中松が黒《くろ》幕《まく》だったのだ。
村川はその部下で……。
よし、ここは逃げ出して、警《けい》察《さつ》へ——。
じりじりと後ずさりして、何かにぶつかった。振《ふ》り向いて、声を上げそうになる。
「しっ!」
と、その男が言った。「気付かれますよ」
「佐田さん!」
千春の夫、佐田房夫だったのだ。
「静かに! こっちへ退《さ》がりましょう」
しかし、どうも様子が違《ちが》う。あの薄《うす》ぼんやりの亭《てい》主《しゆ》とは、別人のようだ。
「——やれやれ、無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》な人ですね」
と、佐田は苦《く》笑《しよう》して言った。
「でも、あなた……」
「僕《ぼく》は、白石君の行っていた大学の、学長の息子《むすこ》なんです」
「ええ?」
明子は目を丸《まる》くした。
「大学の中で、売春のあっせんをしている者がある、というので、父から、調《ちよう》査《さ》してくれと言われましてね」
「じゃあ、千春さんと結《けつ》婚《こん》したのは——」
「いや、それは本心から彼女《かのじよ》が好《す》きだからですよ。ただ、近づいたきっかけは、中松が、どうやら陰《かげ》の人間らしいと分ったからですが——」
そうか。——明子は、やっと思い当った。茂木こず枝の死んだ日、駅で定期入れを拾ってくれた若《わか》い男。
あれは佐田だったのだ。
「そうだったんですか」
と、明子は肯《うなず》いた。「で、二人で家を出て——」
「でも、中松は簡《かん》単《たん》に捜《さが》し当てて来た。当り前ですね。村川が中松の部下だったんだから」
「だから、あなた、あんなにぼんやりした夫の役もやってたのね」
「そうでないと命が危《あぶな》いのでね」
「でも——なぜ白石さんは殺されたの?」
「まずかったんですよ、大学の中での売春がばれて退《たい》学《がく》。もう中松にしてみれば、役に立たないし、何かしゃべってしまうかもしれない」
「ひどい人ね!」
明子は憤《ふん》慨《がい》していた。
「村川のことが心配です」
と、佐田は言った。「あの男も、もう役に立たない。消される心配がありますからね」
「今、中松がそう言ってたわ」
「その前に、何とか見付けたい。村川さえ押《おさ》えれば、中松も言い逃《のが》れはできません」
「そうか。——じゃ、この中を捜《さが》してみましょうよ」
「あなたは逃《に》げて下さい。僕《ぼく》が捜してみますよ」
「そんな!」
「いや、警《けい》察《さつ》へ連《れん》絡《らく》して来てもらうんです。ともかく外へ出ないと、どうにもならないと思っていたんですが、ちょうどあなたがやって来た」
佐田がニッコリ笑《わら》った。
余《よ》裕《ゆう》のある笑いだ。
「いいわ、分りました」
と、明子は肯《うなず》いた。「じゃ、門の所から出るわ。塀《へい》を越《こ》えてもいいけど……」
「今、たぶん、門が開いてると思いますよ」
「行ってみます」
と、明子は体を起した。
「気を付けて!」
「あなたも」
明子は、庭の茂《しげ》みの中を、頭を低くして、走って行った。走るくらい広い庭なのだ。うちとは違《ちが》うな、などと、呑《のん》気《き》なことを考えていた。
——突《とつ》然《ぜん》、誰《だれ》かが前に立ちはだかった。
明子は、素《す》早《ばや》く身《み》構《がま》えた。
それは、村川だったのだ。