32 決 闘!
だが、何だか様子がおかしかった。
村川は、青い顔で、脂《あぶら》汗《あせ》を顔中に浮《う》かべていた。そして、
「永戸君!」
と、息を吐《は》き出すように言った。「助けてくれ!」
「ええ? 何ですって? 私を殺そうとしたくせに、そんな虫のいい——」
明子が言い終らない内に、村川がゆっくり倒《たお》れて来た。
明子は、あわてて、飛びすさった。
村川の背《せ》中《なか》に、血が広がっている。
「——やあ、ここにいたのか」
見たことのない男が立っていた。
ナイフを手にしている。——この男だわ、何人もの人を殺したのは!
「運の強い女だな、あんたは」
と、その男は言った。「だが、それもここまでだ」
その男が無《ぶ》気《き》味《み》なのは、いかにも「殺し屋風」だったからではなくて、ごく普《ふ》通《つう》の、どこにでもいる小《こ》柄《がら》なサラリーマンにしか見えないからだった。
もっとも、目立たないから、殺せるので、これが一見して恐《おそ》ろしい男だったら、誰《だれ》もが逃《に》げてしまうだろう。
「何よ!」
と、明子は言い返した。「私は、そう簡《かん》単《たん》にいかないわよ」
一歩退《さ》がって身《み》構《がま》える。
「勇ましいことだな」
と、男は笑《わら》った。「しかし、ナイフに勝てるかね?」
「やってみれば?」
正直、明子だって怖《こわ》いのである。
刺《さ》されるのは、注《ちゆう》射《しや》だって嫌《きら》いだし、切られるのは電車のキップぐらいでいい。
だが、ここは、強がって見せるしかない。
殺された保《ほ》科《しな》光子のことを考える。——何の罪《つみ》もないあの人を、殺したんだ!
「どうしたの? 女の子が怖いの? 分った、いつも振《ふ》られてたんでしょ」
わざと怒《おこ》らせる。それしか手はない。相手を調子づかせるのだ。
合《あい》気《き》道《どう》は、攻《こう》撃《げき》のための技《わざ》じゃなくて、あくまで身を守るためのものだ。相手が向かって来ないと、どうしようもないのだ。
「おい、今に泣《な》き言を言うなよ」
男がナイフをサッと走らせた。確《たし》かに目にも止らぬ早《はや》業《わざ》という感じだ。
「キャッ!」
明子は、尻《しり》もちをついた。みっともなく、ペタンと座り込《こ》んだまま後ずさる。
「おい、どうした、今の元気は?」
男が笑《わら》って、踏《ふ》み込《こ》んで来る。
今だ! これを待っていたんだ!
明子は足を思い切り伸《の》ばして、男の足を払《はら》った。かすかにそれたが、男は、上体とのバランスを崩《くず》した。
明子は、勢いをつけて立ち上ると、男の懐《ふところ》へ思い切って飛び込んだ。
体当りに、男の体がのけぞる。明子はクルッと向き直って、男の腕《うで》をしっかりとつかむと、身を沈《しず》めた。
会心の背《せ》負《お》い投げ!
男は、大きく空中に円を描《えが》いて、地面に叩《たた》きつけられた。
「——こいつ!」
起き上ろうとして、あわてたせいか、足が滑《すべ》って四つん這《ば》いに、ペタッと伏《ふ》せた格《かつ》好《こう》になる。男が大きく目を見開いて、うめいた。
どうしたのかしら?——男がそろそろと上体を起すのを見て、明子は、アッと声を上げた。
伏せた拍《ひよう》子《し》に、手にしていたナイフで、自分の胸《むね》を刺《さ》していたのだ。
男は、よろけながら立ち上ったが、ナイフを自分で引き抜《ぬ》くと、何だかキョトンとした顔で、それを見下ろし、それから、急に、ガクリと膝《ひざ》をついて、突《つ》っ伏《ぷ》すように倒《たお》れた。
「やった……。やった……」
明子はそう呟《つぶや》いてから、急にガタガタ震《ふる》え出した。
全身から汗《あせ》が吹《ふ》き出して来る。
そして明子はヘナヘナとその場に座り込《こ》んでしまった。
ふと気が付くと、パトカーのサイレンが、近づいて来ていた。
「いや、全く……」
尾形がジロッと明子をにらむ。
「言いたいことは分ってるわよ」
と、明子は澄《す》まして言った。「でも言わない方がいいわ」
「どうしてだ?」
「私に質《しつ》問《もん》してたんじゃなかった? その返事はまだしてないのよ」
もちろん、結《けつ》婚《こん》の申し込みのことだ。
尾形は、渋《しぶ》い顔で黙《だま》り込んだ。
「ともかく無《ぶ》事《じ》で良かった。それに、村川も何とか命は取り止めたから、話を聞けるだろう」
と、志水が言った。
「色々、ご迷《めい》惑《わく》をかけました」
と、頭を下げたのは、千春である。
ここは、結婚式場のレストランだ。
社長を中心に、事《じ》件《けん》の関係者が集まっていた。
「あら、千春さんのせいじゃないわ」
と、明子が言った。「そんな風に言うことないわよ」
「そうですわ」
と、白石知美が言った。
「でも、父が、何かやってるらしい、ってことは察していたんですもの。まさか、あんなひどいことだとは思わなかったけど……」
「もう済《す》んだことだよ」
と、佐田が言った。「お父さんのしたことに、君は責《せき》任《にん》はないんだ」
「でも——」
と、千春は佐田を見つめて、「私と別れないの?」
と訊《き》いた。
「今度そんなこと言うと、ぶん殴《なぐ》るぞ!」
と、佐田が本気で怒《おこ》ったように言った。
「カッコいい!」
と、明子が手を叩《たた》いた。
「そうすぐに別れんで下さい」
と、社長が言った。「うちで結《けつ》婚《こん》したんだから」
「でも、なぜ、保《ほ》科《しな》さんが殺されたのかしら?」
と、明子は言った。
「そりゃ、村川のことを知っていて——」
「なぜ知ってたの?」
「うん……そうか」
と、尾形が腕《うで》を組む。
「それはね、保科さんも、村川の恋《こい》人《びと》だったからです」
と、佐田が言った。
「保科さんが!」
明子は目を丸《まる》くした。
「だから、弁《べん》当《とう》箱《ばこ》などというものも、手に入った。いや、あのお弁当を作っていたのは、保科さんだったんですよ」
「そうか!」
と、明子は言った。「村川さんの奥《おく》さん、実家へ戻《もど》ってたんだわ」
「だから、保科さんも、知らない内に、村川の仕《ヽ》事《ヽ》を手伝っていたんでしょう。でも、茂木こず枝の死を見て、やっと目が覚めた……」
「そうか、それで、お弁当箱を」
「あなたへ届《とど》けたわけです。自分で、村川と話をしようとしたんでしょうね」
「ひどい男だわ!」
明子はカンカンになった。「志水さん」
「ん? 何です?」
「村川が治ったら教えて下さい」
「それはいいが、どうして?」
「思い切り、ぶん投げてやらなくちゃ、気が済《す》まないわ」
「おい、いい加《か》減《げん》にしてくれ」
尾形が、うんざりしたように言った。
「——一番気の毒なことをしたのは」
と、志水が言った。「白石知美さんでしたね」
そう。——知美は十七歳《さい》の未亡人である。
「いえ、私は……」
知美は、静かに言った。「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。生きてるんですもの。——あの人は死んでしまった。たとえ、自分のせいだとしても、可哀《かわい》そうだったと……思います」
千春が、涙《なみだ》を拭《ぬぐ》った。
「でも——」
知美は微《ほほ》笑《え》んだ。「若《わか》いんですもの、私! 大丈夫!」
「そう! その意気よ!」
明子は肯《うなず》いた。「今度結《けつ》婚《こん》するときも、ここを使ってね!」
「一言多いんだよ」
と尾形が言った。
「さあ、ともかく、事《じ》件《けん》は終った。食事をしよう」
と、社長が言った。「みんな、好《す》きなものを食べて下さい。ここの社長として、お礼とお詫《わ》びの気持だ」
「遠《えん》慮《りよ》しなくていいのよ」
と、明子が言った。「どうせ、交《こう》際《さい》費《ひ》で落とすんだから」
みんながドッと笑《わら》った。——知美も、千春も。
食《しよく》卓《たく》は賑《にぎ》やかになった。
「——そうだ」
と、尾形が言い出した。「一つ分らないんだけど、どうして、白石さんや佐田さんのところは、あ《ヽ》の《ヽ》日《ヽ》に式を挙げたんですか?」
「それもそうだ」
と、志水が肯く。「妙《みよう》ですな。事件の関係者が、同じ日に挙式したとは」
「あら、それは偶《ぐう》然《ぜん》でも何でもありませんわ」
と、明子が言った。
「というと?」
「あの日は、式場の何周年かで、特《とく》別《べつ》割《わり》引《びき》があって、安かったんですもの!」
と、明子は言った。