切り裂きジャック
結局、霧《きり》が問題なのだった。
他の条件は総《すべ》て整っている。といって大した準備がいるわけではないが。
ともかく、私の手には切れ味鋭《するど》いナイフがあり、黒ずくめの衣《い》裳《しよう》も揃《そろ》っている。もちろん、吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》ドラキュラが映《えい》画《が》でまとっているような黒いマントなど着て歩いたら、現代では目立って仕方がないし、サンドイッチマンぐらいに見られるのがオチだろう。そこは現代にふさわしく、黒のソフト帽《ぼう》、黒のコート、黒の靴《くつ》——これは足音がよく響《ひび》くようなものを選んだ——そして黒の革《かわ》手《て》袋《ぶくろ》……。
靴については、普《ふ》通《つう》の犯罪者なら、できるだけ足音のしない、ゴム底か何かの靴にするのだろうが、夜の街《がい》路《ろ》に響《ひび》く、コツ、コツ、という靴音は、殺人者にとっては欠かせないものである。
後、必要なのは被《ひ》害《がい》者《しや》だが、これは別に誰《だれ》でもいい。いや、誰でもといっても、女で、若《わか》くて、男を相手にする商売をしていればいいわけだ。
これで「美人」という条件をつけると、とたんに見付けるのが難しくなるので、それにはこだわらない。だから、被害者はその手の場所に行けば、いくらでも見付かる。
後は実行あるのみ、というわけだが……。残る一つが問題で、つまり私は霧にこだわっていたのである。
霧の夜の殺人。——これこそが私の求める「理想的な殺人」なのだ。
濃《のう》霧《む》ににじむガス灯の光、ぼんやりと浮《う》かび上がる灰《はい》色《いろ》の家《や》並《なみ》、ガラガラと敷《しき》石《いし》をかみながら走って行く四輪馬車。パトロールする警《けい》官《かん》の姿《すがた》、すれ違《ちが》って行く、ふんわりと広がったスカート姿の女性……。
女の悲鳴はこういう夜にふさわしいし、殺人鬼には、これこそ最上の舞《ぶ》台《たい》装《そう》置《ち》である。
しかし、今は二十世紀である(梨《なし》の話ではない)。ガス灯や馬車、裾《すそ》の広がったスカートなどは諦《あきら》めざるを得ないだろう。
重々しい石造りの家々とか、敷石の舗《ほ》道《どう》というのも、ロンドンやウィーン辺りへ遠《えん》征《せい》すれば、見付かるかもしれないが、私はそんな金持ではない。
従って、ごく平《へい》凡《ぼん》な盛《さか》り場とか、チマチマとした建売住宅に、穴《あな》だらけのアスファルトの道路で我《が》慢《まん》する他はない。
これだけ譲《ゆず》っているのだから、私がせめて霧ぐらいは、とこだわるのも理解していただけよう。
といって、私は霧に、身を隠《かく》してくれる役を果してくれと期待しているわけではない。ロンドンの霧ならいざ知らず、東京でそうした濃霧の日はまず考えられない。
私はあくまで、雰《ふん》囲《い》気《き》として、霧が欲しいのである。
それにしても、霧というのは、なかなか出ないものだ。
ナイフを買い込《こ》み——もちろん、買う場所などは充《じゆう》分《ぶん》に注意した——毎日、毎日、砥《と》いでいるのに、霧は一向にかかってくれない。
そしてもう二か月が過ぎてしまったのである……。
「いや、珍《めずら》しいよ!」
と、外回りから戻《もど》って来た若い社員が言った。
「どうしたの?」
社の受付の女の子が訊《き》く。もう四時五十分だというので、すっかり帰り支《じ》度《たく》をしている。
「霧だよ、霧。凄《すご》い霧だ。一寸《すん》先も見えないぜ」
「オーバーね」
と女の子のほうは笑《わら》っている。
「本当だってば。窓《まど》から覗《のぞ》いてみろよ」
「そんなに凄いの?」
と受付の子はさっさと立って見に行った。
これが仕事なら、もっとノロノロ歩いて行くのだろうが。
すぐに戻って来て、
「本当! 凄いわね」
と、楽しげに言った。
私は、机《つくえ》についていたが、仕事が手につかなかった。——霧? 霧だって? ついに来たのか。
待ちに待った日だ。「霧の夜の殺人」——明日の朝刊は、その見出しを一《いつ》斉《せい》に掲《かか》げるだろう。
私の胸《むね》は高鳴った。ついに時は来たのだ!
私の名は「切り裂《さ》きジャック」。いや、まずここは世間一《いつ》般《ぱん》の通り名を書いておくべきだろう。
私はこの社会では——つまり一九八二年の日本にあっては、平《ひら》田《た》正《まさ》也《や》と呼《よ》ばれている。
三十六歳《さい》。独身で、父も母もすでに亡《な》くなって、兄弟もなく、一人暮《ぐら》しをしている。
二枚《まい》目《め》とはお世辞にも言えないし、スタイルとて良くはない。しかし元《ヽ》祖《ヽ》のジャックにしても、二枚目だったとは限らないし、スマートだったという記録もない。
そんな外見上のことより、問題は中身である。私こそは切り裂きジャックの後《こう》継《けい》者にならねばならない。
あの後も、数々の犯罪者が出た。中には、ジャックを遥《はる》かに上回る数の人間を、ずっと残《ざん》忍《にん》な方法で殺した犯人も少なくない。
しかし、私に言わせれば、「霧の夜の殺人」という、正統的なスタイルでの殺人は、まだなされていない。
どの犯罪者も荒《あら》っぽく、欲得ずくで、そこには雰囲気や詩がない。
〈死〉はあっても、〈詩〉がない、というのは、語《ご》呂《ろ》合せになるが……。
ジャックは別に金を求めたわけではない。彼は女を憎《にく》んでいたのだ。
私? 私も同じだ。若い頃《ころ》からこの方、女に泣《な》かされ続けて来た。その積もり積もった怒《いか》りが、ある日、霧の夜に出没する殺人鬼の絵を見たとき、爆《ばく》発《はつ》した。
いや、もちろんそれは内面的な表現である。
私は、一応、表面上は、このK物産という中小企《き》業《ぎよう》の社員、平田正也であり、これからもそうありつづけるだろう。
しかし、それは私の仮の人生なのである。私は、その一枚の絵の中へ入り込んで、その主人公になったのだ。
切り裂きジャック。——霧の夜のロンドンに出《しゆつ》没《ぼつ》して、売春婦を殺し続けた男。しかも外科医のような手ぎわの良さで、乳《ち》房《ぶさ》をえぐり取ったり、内《ない》臓《ぞう》を切り取ったりした。
実際、ジャックの正体は気の狂《くる》った医者に違いないとも言われた。
しかし、ついにジャックは捕《つか》まらなかった……。
「おい平田」
だみ声が、私の高《こう》揚《よう》した気分に水をあびせた。課長の山《やま》口《ぐち》である。
いやな予感がした。
「何でしょう」
仕方なく立って行くと、山口は机の上を片付けている。課員の誰かが、五時になる前に机の上を片付けたりすれば、露《ろ》骨《こつ》に当てこすりを言うくせに。
「今夜、顧《こ》問《もん》会議がある。それに出てくれ」
顧問会議というのは、もうここを停年でやめた老人たちや、日頃何かと世話になっている人々の、月一回の定例の会議だ。
「私がですか」
「そう言っただろう」
「しかし……」
「何だ?」
「ちょっと……今夜は用がありまして」
と私は言った。
「俺《おれ》もだ」
と山口はニヤリと笑った。「課長の命令だぞ。それをいやだと言うのなら、会社に何の用もないようにしてやろうか」
笑ってはいるが、おどしつけて面白がっているのだ。
私は諦《あきら》めた。——霧は今夜一《いつ》杯《ぱい》ぐらい続くだろう。会議はせいぜい九時には終る。
会議と言っても、別に議題があるわけではない。要するに顧問手当を払っているので、形式上、こういう集りを開いているのだ。
中身はほとんど世間話である。
「分りました」
「よし、じゃ頼《たの》むぞ。車代なんかは小《こ》浜《はま》君に任せてある」
私は多少、救われたような気分になった。席へ戻ると、五時の終業のチャイムが鳴った。
一斉に椅《い》子《す》や引出しがガタガタと鳴って、底に穴のあいた茶《ちや》碗《わん》のように、たちまち人の姿が消えて行く。
山口課長も真先に帰って行った。いつも、
「真先に帰るような奴《やつ》はサラリーマンとして失格だ」
などと言っているくせに、自分だけは、いつも例外なのだ。
私は仕方なく、閑《かん》散《さん》とした事務所を見回した。——小浜一《かず》美《み》の姿もない。
食事にでも行ったのかな。
私は、会議室のほうへ歩いて行った。会議は六時半からだが、何しろヒマを持て余している連中なので、えらく早く来ることがある。
会議室のドアを開けてびっくりした。小浜一美が、さっさと机や椅子を運んでいる。人数に合せて、机の並べ方を変えなくてはならないのだ。
「やあ、僕《ぼく》がやるよ」
私は急いで言った。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。私は鍛《きた》えてるもの」
小浜一美はそう言って微《ほほ》笑《え》んだ。
いくら女が嫌《きら》いといっても、こんなときには任せてはおけない。私は一《いつ》緒《しよ》になって机や椅子を運んだ。
小浜一美は、数少ない——いや、ほとんど社内でただ一人の、私にとって安心できる女性である。
もう三十近くで、独身だった。ベテランでもあり、地味ながら、決して魅《み》力《りよく》のない女性ではない。
しかし、聞くところでは、病気がちの母親をかかえて、結《けつ》婚《こん》の時機を逸《いつ》したとのことだった。当人は、そんなことは口にもせず、いつも穏《おだ》やかで、若い女子社員の相談相手にもなっている。
普通、古手の女性社員は、若い女の子からは敬遠されるもので、その点、小浜一美は珍しい存在だった。
「——さあ、これでいい」
と、小浜一美は会議室を見回して息をついた。
「頑《がん》張《ば》るねえ、小浜君は」
「あら、お給料いただいてるんだもの、当然じゃない?」
と、軽く笑って、「——夕食は? 一緒に食べましょうよ」
「そうするか」
と私は肯《うなず》いた。
「早くしたほうがいいわ。馬《ば》鹿《か》みたいに早く来る人がいるから」
私たちは事務所へ戻って、財布を取って来ると、エレベーターへと向った。
K物産は、ごくありふれた雑居ビルの六階にある。
「どこに行く?」
エレベーターを待っている間に、小浜一美が言った。
「どこでもいいけど——」
「外にしましょうね。下はおいしくないし」
「うん」
私はホッとした。
ビルの地下には社員向けの食堂がある。夜も七時ごろまでなら食べられて、独身の社員などは、よく食べて帰っていた。
私たちは表に出て、すぐ向いのビルの地下にあるソバ屋へ入った。
「——平田さんは、どうしてお昼も外で食べるの?」
丼《どんぶり》物を食べながら、小浜一美が訊《き》いた。
「どうして、ってこともないけど……」
と私は曖《あい》昧《まい》に返事をした。
確かにそう言われても仕方ない。地下の社員食堂なら、昼を二百円で食べられる。弁当持参組を除けば、男の社員は、ほとんど地下で食べているのだ。それを、私はあえて外の高い食堂で食べる。
もちろん高給取りでもない身なのだから、一食千円近くもかかるのは痛《いた》い。しかし、昼食まで課長や同《どう》僚《りよう》たちと食べているのは、やり切れないのだ。
「会社の人と一緒なのがいやなんでしょ」
と、小浜一美は言った。
「そんなところだね」
「ちょっと、お茶下さい!——でも、少しはみんなと一緒に食事したほうがいいわ」
「何か言ってるかい、僕のこと?」
「別に。——まあ、あんまり付き合いのいい奴だとは思われてないでしょうけどね」
「そりゃ分ってるよ」
「損よ。あなたのような性格の人は。いい所が理解されないわ」
「いい所があれば損かもしれないけどね」
と私は言った。
こういう言い方は人を苛《いら》立《だ》たせるものだ。長年、
「僕はだめな人間です」
と言い続けていた相手に好《こう》意《い》を寄せるなんてことはできないだろう。
それが分っていて、つい口に出してしまうのである。
小浜一美は、ちょっと微笑んだだけで、それきり何も言わなかった。
社へ戻った私たちは、会議の準備にとりかかった。
「暑いな! クーラーは入らんのか?」
と、だみ声を上げたのは、顧問の桜《さくら》田《だ》という男だった。
椅子からはみ出しそうな巨《きよ》漢《かん》で、年中汗《あせ》をかいている。やかまし屋で有名だった。
「申し訳ありません」
と、小浜一美がにこやかに応じた。「まだビルのほうで冷《れい》房《ぼう》をしてくれないものですから……」
「気がきかんな、全く!」
五月なのに冷房を入れろと言うほうが無茶である。それに、窓を開けてあるので、暑いというほどのことはない。
「冷たいものをお持ちします」
小浜一美が会議室を出て行く。少し外れた席で座《すわ》っていた私のわきを通りながら、軽く片目をつぶって見せた。
もう八時を回っていた。——会議はゴタゴタと進んで、出席者の三分の一はウトウトしている。
進行係の顧問が、
「今日はこれで——」
と一言言えば、すぐにも終りになるだろう。
私は、苛々と時《と》計《けい》を眺《なが》めていた。早く終ってくれないだろうか。
気のせいか、窓の外の霧も多少薄《うす》らいで来たように見えた。
「じゃ、次の議題は……」
と、議長が言い出すと、みんながうんざりしたように息をつく。
私もいい加減にしろと怒《ど》鳴《な》りたくなった。
手ぎわよくやれば三十分で終るものを、もう二時間近くもかけている。みんな、会社で用意する弁当を食べに来ているようなものなのだ。
「何か発言はありませんか」
何を議論しているのかもよく分っていない者がほとんどなのだ。意見の出るはずもない。
早く終れ、早く終れ、と私は口の中で呟《つぶや》いていた。
ドアが開いて、小浜一美が、盆《ぼん》に冷たいお茶のグラスをのせて入って来た。ちゃんと全員の分をいれて来たのだ。
その手ぎわの良さに、私は感心した。私がやれば一時間はかかるかもしれない。
小浜一美は、まず、
「暑い暑い」
を連発している桜田の所へ、持って行った。
タイミングが悪かった。
彼女が、左手で盆を支えて、右手でグラスを一つ取り、桜田の前へ置こうと、隣《となり》の席との間へ、体を滑《すべ》り込ませたとき、桜田が突《とつ》然《ぜん》、立ち上がろうとして椅子をガタッと後ろへずらしたのである。
避《さ》けようがなかった。椅子の背《せ》が盆に触《ふ》れて、アッと思う間もなく、お茶のグラスが、音を立ててなだれ落ちた。
桜田の背中が、まともに冷たいお茶を浴《あ》びたわけである。
私は立ち上がったものの、為《な》すすべがなかった。小浜一美は、
「申し訳ありません!」
と素早く盆を床《ゆか》に置いた。
「おい、一体何をやってるんだ!」
桜田が顔を真っ赤にして立ち上がる。その拍《ひよう》子《し》に、こぼれたお茶の海の中へ足を突《つ》っ込んだ。スルッと足が滑って、桜田の巨体が、床へ転がった。
私は目をつぶった……。