最初の犯行
「小浜君……」
と私が声をかけると、小浜一美は振《ふ》り返って笑って見せた。
さしもの気丈な彼女の目が赤くうるんでいるのが、私の胸を突いた。
「後は私が片付けるから、平田さん、帰っていいわよ」
「いや、そういうわけにはいかないよ」
私は、そう言いながら、何をすればいいのか、分らなかった。
小浜一美は雑《ぞう》巾《きん》で床を拭《ふ》いている。
「やっときれいになったわ」
私は、じっと立ちつくしていた。
あの後の桜田の怒りようは凄《すさ》まじかった。ひたすら謝《あやま》っている小浜一美に、悪態の限りを浴びせかけ、さすがに同席していた顧問の一人がなだめたほどだった。
不幸な事故で、決して彼女が責められるべきことではないが、こちらが詫《わ》びる立場なのは仕方ない。それにしても、あの桜田の態度は……。
もう時間は九時を回っていた。
「悪かったね」
と私は言った。
「平田さんが謝る必要ないわ」
と、小浜一美は肩《かた》をすくめた。「私が、うっかりしていただけなんだもの」
そうではないのだ。私がすまないと思っているのは、彼女に替《かわ》って、私が桜田の叱《しつ》声《せい》を受けるべきなのに、それをしなかった、ということなのである。
私は少なくとも彼女より年上で、古顔である。私が、彼女をかばってやらねばならなかったのだ。
それなのに、私は、体がしびれてしまったように、その場に立って、動けなかったのである。
「さあ、すっかり遅《おそ》くなっちゃった」
と、小浜一美は言った。「帰りましょうよ、平田さん」
「うん……」
私は、帰り支度をした。席を片付けていると、
「悪いけど、平田さん、先に帰って。私、電話するところがあるの」
と、小浜一美が言いに来た。
「分った。じゃ鍵《かぎ》を——」
「私が全部見て行くから」
「じゃ、頼《たの》むよ」
「お疲《つか》れさま」
もう会社には、もちろん誰も残っていない。
私は、エレベーターのボタンを押《お》した。
ふと、気になって、会社の入口まで戻ってきた。——低い声が聞こえる。
そっと覗《のぞ》いてみると、小浜一美が、声を上げて泣いているのだった。
私は、気付かれないようにエレベーターのほうへと足を向けた。
一階へ降《お》りながら、胸の中は、言いようのない怒りに溢《あふ》れていた。それは桜田への怒り、そして、無力な自分への怒りでもあった。
無力な?——いや、俺は無力じゃない! 俺は……切り裂きジャックなのだ!
一階へ着いて、裏《うら》の通用口から外へ出る。
まだ、霧は充分に濃《こ》く、立ちこめていた。車のライトが、光をにじませながら、ゆっくりと通り過ぎる。
舞台はできていた。後は、主役の登場を待つばかりだ。
「しかし……」
と私は呟《つぶや》いた。
ジャックは売春婦だけを殺した。それ以外の人間——男をも殺そうと思ったことがあるだろうか?
私は、ゆっくりと歩きながら、考え込んでいた。
ジャックは、理由なく、売春婦を殺したわけではない。逆に言えば、理由があれば、売春婦以外の人間をも殺したかもしれない。
そうだ。理由はある。
殺すに足る理由かどうかは、個人の判断しだいであろう。少なくとも私には充分だ。
桜田を殺してやる。
私はそう心に決めた。
アパートは、会社から三十分で帰り着く近さである。
私は、部《へ》屋《や》へ入ると、服を替《か》えた。
用意しておいたコート、帽子、靴を揃え、ナイフを取り出した。
これでいい。——後は桜田をどこで捕まえるかである。
服は濡《ぬ》れたが、あの後、大分乾《かわ》いて来たようで、会議が終ったとき、桜田が同席の友人を飲みに誘《さそ》っていたのを、私は憶《おぼ》えていた。
桜田の行きつけの店は、私も知っている。二、三度、山口課長と一緒に、桜田のおともをしたことがあるのだ。
会社の近くにある、小さなバーで、店では必ずしも桜田は歓《かん》迎《げい》されていないようだった。
それはそうだろう。ああ口やかましくて、威《い》張《ば》りくさっていては、いくら商売とはいえ、相手をして面白くない。
ホステスが私にそっと、
「ケチなくせに席は二人分だものね」
とグチって、私は吹《ふ》き出してしまったものだ。
行っているとすれば、おそらくあの店であろう。閉《へい》店《てん》までいるとして、十二時頃には出て来る。
十時を少し過ぎていた。
窓のカーテンをそっと開けてみた。霧のカーテンが、視界を遮《さえぎ》っている。
いいぞ。理想的だ。
少し待って、十時四十分頃、支度を整えてアパートを出た。
住人とは、幸い顔を合わせずに済んだ。いつも、こんなスタイルをしているわけではないから、見られたら変に思われるだろう。服の着替えは、どこか外でしたほうがいいかもしれない。
歩きながら、私は、自分が伝説の世界へと足を踏《ふ》み入れて行くのを感じていた。
霧になじむと、水銀灯の光も、ガス灯のそれのように見えたし、すれ違う人々も、ヴィクトリア朝時代の服《ふく》装《そう》のようにも思える。
ただ、その場所まで歩いて行くわけにはいかない。それが残念なところだ。
この格《かつ》好《こう》では目立つだろうか?
桜田のように「暑い」とは感じなくても、コート姿はやや変かもしれない。
私はコートを脱《ぬ》いで手にかけると、地下鉄の階《かい》段《だん》を降りた。
バーの名前を入れた照明が、ぼんやりと霧の中に並んでいる。
こうして見ると、ごみごみした裏通りも、どこか幻《げん》想《そう》的《てき》な趣《おもむき》ですらある。霧というのは、不思議なものだ、と私は思った。
十一時半になっていた。客たちも、そろそろ引き上げ始める。
「また来てね」
という女たちの声。男たちの、ろれつの回らない声。千《ち》鳥《どり》足の人《ひと》影《かげ》が、霧の中を、泳ぐように進んで行く。
まだ桜田はいるのだろうか? いや、そもそも、この店に来ているのかどうか。
それすらも確かではない。いや、逆に言えば、そこに私は賭《か》けているのである。
桜田が来ていれば、それこそが、私が切り裂きジャックの正統な後継者であることの証《あか》しに他ならない。
十一時四十分だ。——もう間もなく答えが出るだろう。
私はじっと霧の中に立っていた。心臓が高鳴り、気持が高《こう》揚《よう》して来るのが分る。
十一時四十五分だった。
「じゃ、先生、また」
という女の声。
私はハッとして、傍《そば》に身を寄せた。ドアが開いて、桜田の巨体の輪《りん》郭《かく》が、霧の中に浮かび上がった。
「この次は付き合えよ」
桜田の声だ。
「はいはい」
「約《やく》束《そく》だぞ」
間違いない。私はそっと微《ほほ》笑《え》んだ。
「この次」は、もうあるまい……。
桜田はこっちへ歩いて来た。見られる心配はまずなかったが、私は帽子を少し目《ま》深《ぶか》にして、奥《おく》へ退《さ》がった。
桜田が、何やら分らない鼻歌を口ずさみつつ、通り過ぎて行く。私は、数メートル後から、ゆっくりと歩き出した。
あまり離《はな》れては、霧で見失うことも考えられる。といって、ピタリとくっつくのも問題である。
だが、桜田は、かなり酔《よ》っていた。おそらく気付くことはあるまい。
問題はどこでやるか、ということだった。私なりの考えはあった。
この道を行って、おそらく、桜田はタクシーを拾うべく大通りへ向うだろう。途《と》中《ちゆう》、細いわき道があって、そこは、まず人が通ることはない。
そこへ何とか桜田を引きずり込《こ》むことができればいいのだが……。
少なくとも、大通りへ出るまでの間で、仕《ヽ》止《ヽ》め《ヽ》なくてはならない。
私は、コートのポケットから、黒の革手《て》袋《ぶくろ》を取り出してはめた。ぴったりと指にはりつくような手袋で、外国製の高級品だ。
内ポケットから、砥《と》ぎ上げたナイフを取り出す。革のケースにおさめたまま、コートのポケットへ入れ、しっかりと握《にぎ》りしめた。
桜田は、のろのろした亀《かめ》のような足取りで進んで行く。すれ違うアベックに何やらからかいの言葉をかけている。
全く、低《てい》俗《ぞく》な男だ。私は唇《くちびる》を歪《ゆが》めて笑った。もう奴に頭を下げる必要はない。もうあいつは、私にとって、ただの標的に過ぎないのだ……。
あのわき道が近付いて来る。どうしようか? ナイフを突きつけて、あの奥へ押し込むか。
私は、ポケットの中で、ナイフをケースから抜《ぬ》いた。鼓《こ》動《どう》が早まる。しかし、恐《おそ》ろしくはなかった。
こうなる日を待っていたのだから、今さら恐れる必要はないわけである。
私は足を早めて、桜田に追いつこうとした。
「ねえ、あんた」
不意に女の声がして、私はギクリとした。足を止めて周囲を見回す。
「遊ばない?」
私に声をかけたのではない。桜田へかけたのだ。桜田は立ち止まって、
「どうせ婆《ばば》あだろう」
と言い返した。
「あら、失礼ね。まだ三十よ。見に来たら?」
「三十の二倍位じゃねえのか」
女は、そのわき道から声をかけているのだった。桜田はフラフラと、その声のほうへ歩いて行く。
「こっちよ。——狭《せま》い?」
「ちゃんと入れるぞ」
「却《かえ》って体がくっついていいじゃない?」
女が笑った。
「おい待て。金は? いくらだ?」
「いらないわ。私、寂《さび》しいだけなのよ……」
「そういうのが怪《あや》しい」
「信用しなきゃいいわ」
「待てよ。本当にタダか?」
「そうよ」
——沈《ちん》黙《もく》が続いた。
布のこすれる音がした。女の呻《うめ》き声がした。
私は、別に何の興奮も覚えずに、その場に立って、桜田が出て来るのを待っていた。
死刑囚《しゆう》に与えられる最後の喜びか。それも慈《じ》悲《ひ》というものだろう。
桜田が唸《うな》った。——私は、じっと様《よう》子《す》をうかがった。
何かがこすれるような音。そして、不意に、女の影がわき道から現れた。
はっきりとは見えなかった。白っぽいコート、中肉中《ちゆう》背《ぜい》の体つき。長い髪《かみ》。
それだけしか見分けられなかった。女は、こっちへ歩いて来かけて、私に気付くと、クルリと背を向け、歩き去った。
女の靴音が遠《とお》ざかる。
桜田は何をしているのだろう? 私はなお少し待っていた。
一向に出て来る様子がない。眠《ねむ》ってしまっているのだろうか?
私は、そっとわき道へと近付いて行った。
そして、ナイフをポケットから出すと、道の奥を覗《のぞ》き込んでみた……。