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霧の夜にご用心02
日期:2018-09-28 18:45  点击:254
 最初の犯行
 
 「小浜君……」
 と私が声をかけると、小浜一美は振《ふ》り返って笑って見せた。
 さしもの気丈な彼女の目が赤くうるんでいるのが、私の胸を突いた。
 「後は私が片付けるから、平田さん、帰っていいわよ」
 「いや、そういうわけにはいかないよ」
 私は、そう言いながら、何をすればいいのか、分らなかった。
 小浜一美は雑《ぞう》巾《きん》で床を拭《ふ》いている。
 「やっときれいになったわ」
 私は、じっと立ちつくしていた。
 あの後の桜田の怒りようは凄《すさ》まじかった。ひたすら謝《あやま》っている小浜一美に、悪態の限りを浴びせかけ、さすがに同席していた顧問の一人がなだめたほどだった。
 不幸な事故で、決して彼女が責められるべきことではないが、こちらが詫《わ》びる立場なのは仕方ない。それにしても、あの桜田の態度は……。
 もう時間は九時を回っていた。
 「悪かったね」
 と私は言った。
 「平田さんが謝る必要ないわ」
 と、小浜一美は肩《かた》をすくめた。「私が、うっかりしていただけなんだもの」
 そうではないのだ。私がすまないと思っているのは、彼女に替《かわ》って、私が桜田の叱《しつ》声《せい》を受けるべきなのに、それをしなかった、ということなのである。
 私は少なくとも彼女より年上で、古顔である。私が、彼女をかばってやらねばならなかったのだ。
 それなのに、私は、体がしびれてしまったように、その場に立って、動けなかったのである。
 「さあ、すっかり遅《おそ》くなっちゃった」
 と、小浜一美は言った。「帰りましょうよ、平田さん」
 「うん……」
 私は、帰り支度をした。席を片付けていると、
 「悪いけど、平田さん、先に帰って。私、電話するところがあるの」
 と、小浜一美が言いに来た。
 「分った。じゃ鍵《かぎ》を——」
 「私が全部見て行くから」
 「じゃ、頼《たの》むよ」
 「お疲《つか》れさま」
 もう会社には、もちろん誰も残っていない。
 私は、エレベーターのボタンを押《お》した。
 ふと、気になって、会社の入口まで戻ってきた。——低い声が聞こえる。
 そっと覗《のぞ》いてみると、小浜一美が、声を上げて泣いているのだった。
 私は、気付かれないようにエレベーターのほうへと足を向けた。
 一階へ降《お》りながら、胸の中は、言いようのない怒りに溢《あふ》れていた。それは桜田への怒り、そして、無力な自分への怒りでもあった。
 無力な?——いや、俺は無力じゃない! 俺は……切り裂きジャックなのだ!
 一階へ着いて、裏《うら》の通用口から外へ出る。
 まだ、霧は充分に濃《こ》く、立ちこめていた。車のライトが、光をにじませながら、ゆっくりと通り過ぎる。
 舞台はできていた。後は、主役の登場を待つばかりだ。
 「しかし……」
 と私は呟《つぶや》いた。
 ジャックは売春婦だけを殺した。それ以外の人間——男をも殺そうと思ったことがあるだろうか?
 私は、ゆっくりと歩きながら、考え込んでいた。
 ジャックは、理由なく、売春婦を殺したわけではない。逆に言えば、理由があれば、売春婦以外の人間をも殺したかもしれない。
 そうだ。理由はある。
 殺すに足る理由かどうかは、個人の判断しだいであろう。少なくとも私には充分だ。
 桜田を殺してやる。
 私はそう心に決めた。
 
 アパートは、会社から三十分で帰り着く近さである。
 私は、部《へ》屋《や》へ入ると、服を替《か》えた。
 用意しておいたコート、帽子、靴を揃え、ナイフを取り出した。
 これでいい。——後は桜田をどこで捕まえるかである。
 服は濡《ぬ》れたが、あの後、大分乾《かわ》いて来たようで、会議が終ったとき、桜田が同席の友人を飲みに誘《さそ》っていたのを、私は憶《おぼ》えていた。
 桜田の行きつけの店は、私も知っている。二、三度、山口課長と一緒に、桜田のおともをしたことがあるのだ。
 会社の近くにある、小さなバーで、店では必ずしも桜田は歓《かん》迎《げい》されていないようだった。
 それはそうだろう。ああ口やかましくて、威《い》張《ば》りくさっていては、いくら商売とはいえ、相手をして面白くない。
 ホステスが私にそっと、
 「ケチなくせに席は二人分だものね」
 とグチって、私は吹《ふ》き出してしまったものだ。
 行っているとすれば、おそらくあの店であろう。閉《へい》店《てん》までいるとして、十二時頃には出て来る。
 十時を少し過ぎていた。
 窓のカーテンをそっと開けてみた。霧のカーテンが、視界を遮《さえぎ》っている。
 いいぞ。理想的だ。
 少し待って、十時四十分頃、支度を整えてアパートを出た。
 住人とは、幸い顔を合わせずに済んだ。いつも、こんなスタイルをしているわけではないから、見られたら変に思われるだろう。服の着替えは、どこか外でしたほうがいいかもしれない。
 歩きながら、私は、自分が伝説の世界へと足を踏《ふ》み入れて行くのを感じていた。
 霧になじむと、水銀灯の光も、ガス灯のそれのように見えたし、すれ違う人々も、ヴィクトリア朝時代の服《ふく》装《そう》のようにも思える。
 ただ、その場所まで歩いて行くわけにはいかない。それが残念なところだ。
 この格《かつ》好《こう》では目立つだろうか?
 桜田のように「暑い」とは感じなくても、コート姿はやや変かもしれない。
 私はコートを脱《ぬ》いで手にかけると、地下鉄の階《かい》段《だん》を降りた。
 
 バーの名前を入れた照明が、ぼんやりと霧の中に並んでいる。
 こうして見ると、ごみごみした裏通りも、どこか幻《げん》想《そう》的《てき》な趣《おもむき》ですらある。霧というのは、不思議なものだ、と私は思った。
 十一時半になっていた。客たちも、そろそろ引き上げ始める。
 「また来てね」
 という女たちの声。男たちの、ろれつの回らない声。千《ち》鳥《どり》足の人《ひと》影《かげ》が、霧の中を、泳ぐように進んで行く。
 まだ桜田はいるのだろうか? いや、そもそも、この店に来ているのかどうか。
 それすらも確かではない。いや、逆に言えば、そこに私は賭《か》けているのである。
 桜田が来ていれば、それこそが、私が切り裂きジャックの正統な後継者であることの証《あか》しに他ならない。
 十一時四十分だ。——もう間もなく答えが出るだろう。
 私はじっと霧の中に立っていた。心臓が高鳴り、気持が高《こう》揚《よう》して来るのが分る。
 十一時四十五分だった。
 「じゃ、先生、また」
 という女の声。
 私はハッとして、傍《そば》に身を寄せた。ドアが開いて、桜田の巨体の輪《りん》郭《かく》が、霧の中に浮かび上がった。
 「この次は付き合えよ」
 桜田の声だ。
 「はいはい」
 「約《やく》束《そく》だぞ」
 間違いない。私はそっと微《ほほ》笑《え》んだ。
 「この次」は、もうあるまい……。
 桜田はこっちへ歩いて来た。見られる心配はまずなかったが、私は帽子を少し目《ま》深《ぶか》にして、奥《おく》へ退《さ》がった。
 桜田が、何やら分らない鼻歌を口ずさみつつ、通り過ぎて行く。私は、数メートル後から、ゆっくりと歩き出した。
 あまり離《はな》れては、霧で見失うことも考えられる。といって、ピタリとくっつくのも問題である。
 だが、桜田は、かなり酔《よ》っていた。おそらく気付くことはあるまい。
 問題はどこでやるか、ということだった。私なりの考えはあった。
 この道を行って、おそらく、桜田はタクシーを拾うべく大通りへ向うだろう。途《と》中《ちゆう》、細いわき道があって、そこは、まず人が通ることはない。
 そこへ何とか桜田を引きずり込《こ》むことができればいいのだが……。
 少なくとも、大通りへ出るまでの間で、仕《ヽ》止《ヽ》め《ヽ》なくてはならない。
 私は、コートのポケットから、黒の革手《て》袋《ぶくろ》を取り出してはめた。ぴったりと指にはりつくような手袋で、外国製の高級品だ。
 内ポケットから、砥《と》ぎ上げたナイフを取り出す。革のケースにおさめたまま、コートのポケットへ入れ、しっかりと握《にぎ》りしめた。
 桜田は、のろのろした亀《かめ》のような足取りで進んで行く。すれ違うアベックに何やらからかいの言葉をかけている。
 全く、低《てい》俗《ぞく》な男だ。私は唇《くちびる》を歪《ゆが》めて笑った。もう奴に頭を下げる必要はない。もうあいつは、私にとって、ただの標的に過ぎないのだ……。
 あのわき道が近付いて来る。どうしようか? ナイフを突きつけて、あの奥へ押し込むか。
 私は、ポケットの中で、ナイフをケースから抜《ぬ》いた。鼓《こ》動《どう》が早まる。しかし、恐《おそ》ろしくはなかった。
 こうなる日を待っていたのだから、今さら恐れる必要はないわけである。
 私は足を早めて、桜田に追いつこうとした。
 「ねえ、あんた」
 不意に女の声がして、私はギクリとした。足を止めて周囲を見回す。
 「遊ばない?」
 私に声をかけたのではない。桜田へかけたのだ。桜田は立ち止まって、
 「どうせ婆《ばば》あだろう」
 と言い返した。
 「あら、失礼ね。まだ三十よ。見に来たら?」
 「三十の二倍位じゃねえのか」
 女は、そのわき道から声をかけているのだった。桜田はフラフラと、その声のほうへ歩いて行く。
 「こっちよ。——狭《せま》い?」
 「ちゃんと入れるぞ」
 「却《かえ》って体がくっついていいじゃない?」
 女が笑った。
 「おい待て。金は? いくらだ?」
 「いらないわ。私、寂《さび》しいだけなのよ……」
 「そういうのが怪《あや》しい」
 「信用しなきゃいいわ」
 「待てよ。本当にタダか?」
 「そうよ」
 ——沈《ちん》黙《もく》が続いた。
 布のこすれる音がした。女の呻《うめ》き声がした。
 私は、別に何の興奮も覚えずに、その場に立って、桜田が出て来るのを待っていた。
 死刑囚《しゆう》に与えられる最後の喜びか。それも慈《じ》悲《ひ》というものだろう。
 桜田が唸《うな》った。——私は、じっと様《よう》子《す》をうかがった。
 何かがこすれるような音。そして、不意に、女の影がわき道から現れた。
 はっきりとは見えなかった。白っぽいコート、中肉中《ちゆう》背《ぜい》の体つき。長い髪《かみ》。
 それだけしか見分けられなかった。女は、こっちへ歩いて来かけて、私に気付くと、クルリと背を向け、歩き去った。
 女の靴音が遠《とお》ざかる。
 桜田は何をしているのだろう? 私はなお少し待っていた。
 一向に出て来る様子がない。眠《ねむ》ってしまっているのだろうか?
 私は、そっとわき道へと近付いて行った。
 そして、ナイフをポケットから出すと、道の奥を覗《のぞ》き込んでみた……。

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