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霧の夜にご用心04
日期:2018-09-28 18:49  点击:267
 電話の声
 
 自分のアパートへ戻ったのは、もう、すっかり夜になってからだった。
 夕食を外で取って来たせいでもあるが、夕方まで、警察であれこれと訊かれていたのである。私が小浜一美のことをかばうので、何か特別な関係であるかのように見られたらしい。
 全く、警察というところは、男と女といえば、愛人関係だとしか考えないらしい。呆《あき》れたものだ。
 しかし、とんでもないことになってしまった。
 小浜一美が指名手配されそうな様子だったのだ。——彼女のアパートの近くの溝《みぞ》で見付かった真新しいナイフから、血液反応が、ごくわずかだが、出たというのだ。
 しかし、そのナイフが彼女のものかどうか分りはしないし、血がついていたといっても間違って自分の指を切ったのかもしれないではないか。
 その程度のことで、犯人と決めつけて、
 「後は自白させればいい」
 ぐらいに思っているのだろう。
 小浜一美にとって不利なのは、突《とつ》然《ぜん》姿《すがた》をくらましてしまったことだ。全く、その点は彼女らしくない。
 警察が調べたところでは、彼女は銀行の預金も、総《すべ》て引出しているということだった。
 一体どこへ行ったのだろう? そしてなぜ……。
 部《へ》屋《や》へ戻って私は、何をする気にもなれず畳《たたみ》の上に寝転んでいた。
 本当なら、この私が、切り裂きジャックとして追われている立場である。ほんの一《いつ》瞬《しゆん》の差。——あのとき、女が声をかけなかったら、私は桜田を殺していたはずだ。
 運命というのは不思議なものだ、と思った。
 小浜一美が犯人であるはずはない。私は、犯人を見《ヽ》て《ヽ》いるのだ。顔は霧《きり》で分らなかったにせよ、あの長い髪《かみ》は、小浜一美の、少し老《ふ》けて見える原因でもある、ひっつめた髪とはまるで違う。
 それに——いくら怒鳴られて泣いたといえ、あんな殺し方ができるのは、異常者である。そう、私のような。
 私なら、きっとあれぐらいの殺し方をしただろう。
 「参ったな」
 と私は呟《つぶや》いた。
 特に意味のある言葉ではなく、ただ生活のリズムを極度に狂《くる》わされてしまった苛《いら》立《だ》たしさから来るグチだった。
 寝転がっていても仕方ない。私は起き上がって、風《ふ》呂《ろ》でも沸《わ》かそうかと、風呂場のほうへ行きかけた。
 電話が鳴り出した。誰だろう?
 電話を引いてはあるものの、孤独な生活で、かけることも、かかって来ることも、めったにない。また警察だろうか?
 気が重かったが、出ないわけにも行かず、そっと受話器を上げた。
 向うからは何も言わない。
 「もしもし」
 と私は言った。「平田ですが」
 少し間があって、
 「私が誰か分りますか?」
 と、女の声がした。
 「どなたですか?」
 私は訊き返した。やけに落ち着き払《はら》った、穏《おだ》やかな声である。
 「昨夜、お会いしましたね」
 とその女は言った。
 「昨夜? さあ……分りませんね」
 「憶《おぼ》えていらっしゃらない?」
 少し声の調子が変った。——突然、分った。
 あの声だ。霧の中で、わき道から桜田を呼んだ声である。
 「——お分りになったようですね」
 と女は少し笑いを含《ふく》んだ声を出した。
 「分りませんね。何をおっしゃっているのか……」
 「隠すことはないじゃありませんか。昨夜はあなたも黒ずくめで、すてきだったわ」
 どうしてこっちの電話を知っているのだろう? しかし、口ぶりからいって、しらを切るのは無理なようだ。
 「何の用ですか」
 「そう怖《こわ》い声を出さなくてもいいじゃありませんか」
 女はむしろ愉《たの》しげな口調で、「お仲《なか》間《ま》でしょ、私たち?」
 「冗《じよう》談《だん》じゃありませんよ」
 「あら、そう?」
 と女は言った。「あの黒ずくめのスタイルはどういうこと?」
 「私がどんな格好をしようと知ったことじゃないだろう」
 「そうむきになることはないわ」
 と女は軽く笑った。「その内、またお会いできるでしょうからね」
 「その内?」
 「そう。——私はまだ続けるつもりよ。男を殺してやるの」
 私は、これが現実だろうか、と耳を疑った。
 「警察には届けられないでしょ」
 と女は言った。「あなたがどうしてあの太った男をつけ回していたか、説明しなきゃならないものね」
 私は何も言わなかった。その点は女の言う通りである。
 「じゃ、またその内に……」
 「待ってくれ」
 と私は急いで言った。
 「何かしら?」
 「君のおかげで私の同じ職場の女性が疑いをかけられている。彼女が無関係だということを、警察へ言ってやってくれ」
 「他の人の面《めん》倒《どう》まではみきれないわ」
 と、女は笑った。「その内には警察にも分るでしょう」
 「しかし——」
 「じゃ、またね」
 電話は切れた。
 私は、しばらく受話器を手に、ぼんやりと立ち尽《つく》していた。——今の電話の相手が、犯人の女であることは確かだとしても、なぜ私のことを知ったのか。そしてなぜ、私に電話をかけて来たのか。
 私には分らなかった。女は、どうやら、男を憎《にく》んでいるようだ。
 しかし、切り裂きジャックのような異常者の犯罪なら、むしろ警察へ挑《ちよう》戦《せん》状《じよう》を送ったりして、自分をPRするのではないか。少なくとも、あの女は、今のところ名乗り出るつもりはないようだ。
 「お仲間」と彼女は言った。私は、無差別に女を殺すつもりだった。その通りだ。
 だが、少なくとも当面は、女を殺す気になれない。あの殺人を目撃してしまったことで何か、私の内の、煮《に》えたぎっていたものが、一気に冷めてしまったようだった。
 あの女は、何のつもりで私に電話して来たのか。またその内に、とも言った……。
 ふと、私は気付いた。
 あの女は、出会った男が私だったという確信がなかったのではないか? おそらく出会った後も、あの近くにいて、私が桜田の死体を見付け、立ち去るのを見ていた。
 そしてこのアパートまで尾《び》行《こう》して来たのではないか。だが、あの霧の中である。他の男と見誤ったかもしれない。
 そこで電話して来て、確かめたのではないか。——私はまた真正直に、それを認めてしまった。
 あの女にすれば、私は目撃者なのである。私の口をふさぐつもりかもしれない……。
 私は戦《せん》慄《りつ》が体を貫《つらぬ》くのを覚えた。
 
 「おい、平田、ちょっと来てくれ」
 山口課長が呼んだ。
 「はい」
 「会議室だ」
 何の用だろう?——私は会議室へ向って急ぎながら、あれこれ考えていた。
 会議室は、がらんとして、山口一人が、奥《おく》のほうに腰《こし》を下ろしている。
 「こっちへ来い」
 山口は隣《となり》の椅《い》子《す》を叩《たた》いた。
 「——何ですか」
 「小浜君のことだ」
 「はあ」
 そう言われても、私には何の話か見当もつかない。
 小浜一美が指名手配されて、一週間たつ。桜田が殺されて十日である。
 もちろん、まだ小浜一美は捕《つか》まっていない。犯人でないことは分っているのだが、私にはそれを口にすることができない。
 「君は小浜君がやったと思うか」
 と山口が言った。
 「思いません」
 私は即《そく》座《ざ》に言った。
 「そうか。——俺《おれ》もそう思う」
 私は面食らった。山口が、もう解《かい》雇《こ》してしまった彼女のことを、こうも真《しん》剣《けん》な口調で話しているのが、どうにも奇《き》妙《みよう》だった。
 「それが何か?」
 と私が訊《き》いても、山口は、しきりにボールペンでメモ用紙にめちゃくちゃな模《も》様《よう》を書きつけているばかりだった。
 「課長——」
 「待ってくれ」
 山口は急に立ち上がると、ドアのほうへ、抜《ぬ》き足差し足で近付いて行き、パッとドアを開けて、廊《ろう》下《か》を見回した。
 何をやってるんだ?
 「——平田君」
 戻って来ると、山口は言った。「君は秘《ひ》密《みつ》の守れる男か?」
 「必要なら」
 「聞いてくれ」
 山口は声をひそめた。「彼女は——小浜君は、あるビジネスホテルに泊《とま》っている」
 私は目を見張った。
 「どうしてご存知なんです?」
 「三日前、俺の所へ電話してきた」
 「課長へですか」
 意外だった。山口をそれほど信用していたのか。
 「俺は……小浜君とで《ヽ》き《ヽ》て《ヽ》いたんだ」
 山口は低い声で言った。
 「課長が?」
 「うん。まあ……半年ほど前からだが、何となくそうなって……」
 山口はもごもごとはっきりしない口調である。
 「分りました。それで?」
 「実は、君に頼《たの》みがある。小浜君が、桜田さんを殺したとは、俺も思っとらん。だが、実際、今彼女は追われている」
 「なぜ行方をくらましたんです?」
 「詳《くわ》しいことは聞いていない」
 と、山口は目をそらした。
 言いたくない事情があるようだ。
 「で、私に——」
 「うん。彼女にこれを渡《わた》してほしい」
 と、山口は、上《うわ》衣《ぎ》のポケットから、封《ふう》筒《とう》を出した。「金を少し工《く》面《めん》してある。それから、手紙が入っている」
 私は、それを受け取った。
 「届けてくれるか」
 「いいでしょう」
 と肯《うなず》くと、山口はホッとした様《よう》子《す》で、
 「すまん! よろしく頼むよ」
 「ホテルはどこです?」
 「あ、そうか。忘《わす》れるところだった」
 山口はメモを書いて折りたたむと、私の手に押《お》しつけた。「じゃ、頼むぞ」
 ——席に戻った私は、何とも妙な気持だった。
 山口と小浜一美が……。どうにも似つかわしくない組合せだ。小浜一美も、独り暮しで寂《さび》しかったのだろう。
 だが、これで彼女に会えるわけだ。話を聞くこともできる。
 そう考えると、むしろ、小浜一美に会うのが、何となく楽しみにさえなって来た。
 会社が終ると、私は真直ぐにそのホテルへ向った。
 ごみごみした繁《はん》華《か》街《がい》の一角で、ビジネスホテルとはいうものの、実際はラブホテルに近い、小さなホテルだった。
 旧式なエレベーターで、四階に上がる。
 「四〇八号か……」
 ドアをノックすると、中で人の動く気配がした。返事をしないのは当然だろう。
 覗《のぞ》き穴《あな》から私を見たらしく、
 「まあ」
 と呟《つぶや》くのが耳に入って、すぐにドアが開く。
 「平田さん!」
 私は絶句した。
 わずかの間に、小浜一美はやつれ切っていた。やせて、頬《ほお》がこけてしまっている。
 「やあ……」
 私はやっとの思いで言った。「入っていい?」
 「どうぞ。ここをどうして……」
 「課長から聞いたよ」
 殺風景な部屋だった。「ここにどれぐらい泊っているの?」
 振《ふ》り向いた私は、小浜一美が床《ゆか》に崩《くず》れるように倒《たお》れるのを見て、あわてて駆《か》け寄った。

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