寂しい逃亡者
〈切り裂《さ》きジャック、第二の凶《きよう》行《こう》?〉
〈恨《うら》みか? 手配中の小浜一美の上司殺さる〉
〈独身女性のヒステリーが原因?〉
私は、電車の中で目につく見出しに、ため息をついていた。
女は三人もの男を殺した。
もちろん本当の意味での切り裂きジャックとは違《ちが》う。ジャックは夜の女なら誰《だれ》でも見境なく殺した。
しかしこの女は、今のところ、桜田、山口、という関連のある人間を殺している。あのフロントの男は別にしてだが。
それにしても、これで小浜一美が犯人であるという容《よう》疑《ぎ》は決定的になった。
当人たちは隠《かく》しているつもりだったろうが、一美と山口の関係も、警《けい》察《さつ》が調べれば、早《そう》晩《ばん》明るみにでよう。そうなれば、一美は殺人者の烙《らく》印《いん》を押《お》されたも同然だ。
重苦しい気持で出社すると、会社は大《おお》騒《さわ》ぎだった。もちろん、課長の一人が殺されたのだ。当り前の話である。
私が、たぶん一番静かにしていたのではないだろうか。
「——平田さん」
と、女の子がやって来た。
「何だい?」
「警察の方が」
「分った」
来ると思っていたのだ。
応接室へ入って行くと、桜田が殺されたときに来た、中年の刑《けい》事《じ》——確か川上といった——と、やたら高圧的に出て来る若《わか》い刑事の二人だ。
「——どうも、課長さんはとんだことでしたね」
と川上という刑事が悔《くや》みを述べる。
「恐《おそ》れ入ります」
「今度の犯行も、前の桜田殺しと手口が大変よく似ているのです」
と川上は言った。
「すると、やはり小浜君の犯行だとお考えなんですね?」
「当り前ですよ」
若いほうの刑事が言った。どうにも、すぐに突《つ》っかかって来る。
「松《まつ》尾《お》君」
と、川上がたしなめて、「どうでしょう? 小浜一美には、山口さんを殺すような理由がありましたかね」
と訊《き》いた。
「どうして僕《ぼく》にそんなことをお訊きになるんです?」
「小浜一美と親しかった。そうでしょう」
と松尾とかいう若い刑事が口を出す。
「同《どう》僚《りよう》です。それだけですよ」
「山口さんのことはどうでした?」
と、川上が言った。
「どうだったかとおっしゃられても。——どういう意味のご質問ですか」
「あなたの個人的な感想ですよ。お好《す》きでしたか?」
「課長をですか?」
私は大して迷わなかった。「好きとは言えませんでしたが」
「なぜです?」
「あまり器《うつわ》の大きい人ではなかったですしね。自分勝手で口やかましかったし」
私は肩《かた》をすくめて、「要するにふつうの上役でしたよ」
と言った。
「いや、これは皮肉ですな。耳が痛《いた》い」
と、川上刑事は笑った。「しかし、殺したいとは思わなかった?」
「世の中に上役がいなくなりますね。そんなことをしていては」
と私は言い返した。
「昨日は、山口さんは残業されましたか?」
「さあ、分りません」
「あなたは?」
「帰りましたよ。課長はまだそのときは社にいました。その後のことは分りません」
「なるほど」
川上刑事は肯《うなず》いた。「山口さんが殺されたとき、ホテルのその部《へ》屋《や》の宿《しゆく》泊《はく》名は、〈小浜一美〉となっていましたよ」
「本名で泊《とま》っていたんですか。ずいぶん大《だい》胆《たん》ですね」
「そうですな。ホテルなどは、やはり指名手配犯などは気を付けていますからね」
「じゃ、もしかしたら他の人間じゃないんですか? 彼女がやったと見せるために……」
「その可能性はあります」
と、川上刑事は肯いたが、どこまで本気でそう答えていたのかは、疑《うたが》わしい。
私からは大して聞き出せないと思ったのか、川上刑事は、
「もう結構です」
と、私を解放してくれた。
その後も、しばらくは何人かの社員、特に女子社員たちをかわるがわる呼《よ》んでは、話を聞いていた。
二人の刑事たちが帰っていったのは、もう昼近くだった。
社長が、全社員を会議室に集め、何だかわけの分らぬ訓辞を垂《た》れた。要するに、しっかり仕事をしろ、ということだったらしい。
席へ戻《もど》ると、すぐに昼休みのチャイムが鳴った。私は昼食を食べに社を出ようとしたのだが……。
どうも妙《みよう》だった。いつもなら、チャイムと共に、一《いつ》斉《せい》にワッと社内から人が消えるのに、今日は、みんなやけにぐずぐずしていて、なかなか席を立たないのだ。
「——平田さん、食事に出るの?」
と女の子の一人が言った。
「うん。君は?」
「だって——出にくいわ。社の人があんなことになって」
「そうよ」
と他の一人も肯いた。「他の社の人に言われるのよね、色々と」
「本当に迷《めい》惑《わく》しちゃう!」
私は呆《あき》れて彼女たちの顔を眺《なが》めたが、何を言う気もなくなって、一人でさっさと社を出て行った。
外へ出て、さてどこへ行こうか、と思案した。
少し高いが、ちゃんとしたレストランへと足を向ける。——少々、会社の連中への反《はん》抗《こう》心も頭をもたげていたのだ。
高いせいで、中は空《す》いている。もっとも、ここも以前に比べるとランチなども用意して、大分入りやすくしている。
高級志向では、こんなオフィス街《がい》ではやって行けないのだろう。
もっとも、こっちも、千円や千五百円のランチがあるからこそ、こうしてたまには来られるのだが。
一人でのんびり食べて、デザートとコーヒーが出るのを待っていると、
「平田様、いらっしゃいますか?」
と、レジから声があった。
私のことだろうか?——別人かな、と思いつつ、一応出てみようかという気になった。
「——平田ですが」
「お電話が入っております」
「そう。別の平田さんかな。——まあ、出てみます」
私は受話器を取った。「もしもし、平田ですが」
少し間があって、
「平田さん? 小浜です」
という声。私はびっくりした。
「君……どこにいるんだ?」
「その近く。もしかしたら、と思って、あっちこっちへかけてたの」
「そうか。——新聞見た?」
「ええ。でも私じゃない! 本当に私じゃないのよ!」
「分ってるよ」
と私はなだめた。
「もう……どうしていいのか分らないわ」
「ゆうべはどこへ泊ったの?」
「やっぱり、あんな感じのホテルよ。でも、同じ所に泊るなんて、そんな度《ど》胸《きよう》ないわ」
小浜一美は、軽くため息をついて、「大変でしょうね、会社」
と言った。
「うん。でも、その内きっと分るさ。元気を出して」
「ありがとう。——平田さんの言葉が一番嬉《うれ》しいわ」
彼女の声が震《ふる》える。泣いているのだ。私は胸《むね》が詰《つ》まった。
「ねえ、これからどうするんだい?」
と私は訊いた。
「分らないわ。——まだお金は少し残ってるの。どこか、働ける所はないかしら」
「そんな……。ねえ、五時までどこかで時間を潰《つぶ》していられる?」
「ええ、たぶん……」
「じゃ、帰りに会おう」
「でもあなたの迷惑じゃ——」
「いいんだ。ともかく待っててくれ」
「ありがとう」
一美の声は、本当に嬉しそうだった。
人を喜ばせることができる。それは私にとって、滅《めつ》多《た》にない経験であった。
「さあ、入って」
私は言った。
小浜一美は、おずおずと私の部屋へ入って来た。
「遠《えん》慮《りよ》しないで。——さあ、座《すわ》って」
私は窓《まど》のカーテンを閉《し》め、ドアにもチェーンをきちんとかけた。
「ごめんなさい、図《ずう》々《ずう》しくついて来て」
と、一美は言った。
「僕が誘《さそ》ったんだよ、何を言ってるんだ」
私は、やかんをガスにかけて、
「ここにいる間は安心さ。ゆっくりしているといいよ」
私はデパートで買いこんで来た弁当を二つ出して、
「さあ食べよう。お茶を淹《い》れるからね」
「それぐらいは私にやらせて」
と一美が立ち上がる。
私も、お茶は彼女に任せることにした。
食事の間は、二人とも、努めて事件の話はしないようにしていた。
彼女も、やっといつもの彼女らしい落ち着いた笑《え》顔《がお》を見せた。
「——さあ、これからどうしましょうか」
と、食事を終って、お茶をいれかえると、一美が言った。
「疲《つか》れたろう? 風《ふ》呂《ろ》を沸《わ》かすから、入って寝《ね》るといいよ」
一美は、微《ほほ》笑《え》んだ。
「ありがとう。——でも、あなたを刑《けい》務《む》所《しよ》へ送るような真《ま》似《ね》はしたくないわ」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。その内には、真犯人も捕《つか》まるさ」
「どうかしら」
一美は首を振《ふ》って、「山口さんまで殺されてしまって。——これで私が姿《すがた》を消した理由を説明してくれる人がいなくなったわ」
その通りだ。山口の死は、一美の桜田殺しの容疑を晴らすことを不可能にしてしまった……。
「でも誰かしら? 桜田さんと山口さんを殺す人なんて、想像がつかない」
「うん、全くだ。しかも山口課長を殺した奴《やつ》は、ホテルに君の名で泊っている」
「私のことを知っているのね。それに、あのホテルに泊っていたことも」
不思議だ。なぜあの女は、それを知っていたのだろう?
「ねえ、平田さん、私——」
と、一美が言いかけたとき、ドアを叩《たた》く音がして、一美は息を呑《の》んだ。
「押《おし》入《い》れに!」
私は低い声で言った。「——はい!」
「今晩は。回《かい》覧《らん》板ですよ」
と隣《となり》の家の奥《おく》さんの声だ。
「ちょっと待って下さい!」
一美が押入れに入るのを確かめ、玄《げん》関《かん》のドアを開ける。
「ご苦労様です」
「じゃ、これ。——お客様?」
と、その奥さんは、部屋の中を覗《のぞ》き込《こ》んで言った。
テーブルの上に、二つの弁当箱《ばこ》、茶《ちや》碗《わん》が出たままである。
「ああ、ちょっと——親《しん》戚《せき》が来て、もう帰ったんです」
と私は言った。
「そう。じゃ、どうも」
——私はホッと息をついた。
靴《くつ》だけでも片付けておいて、よかった。
足音が隣の部屋へ消えるのを確かめ、私は押入れの戸を叩いた。
「もう大丈夫だよ」
戸が開いて、一美が出て来ると、大きく息を吐《は》き出した。
「何だか……息が詰まりそうだった」
しばらく、どちらも口をきかなかった。——やはり、こんな部屋に一美をかくまっておくのは無理なのだ。
「ともかく風呂を沸かすよ」
と私は立ち上がった。
先に彼女を入れて、私はTVを見ていた。ニュースでは、また彼女の写真が出ている。
何とかして、彼女の無実を証明する手《しゆ》段《だん》はないだろうか?
ここまで来てしまっては、難しいように思われた。
警察は完全に彼女を犯人として追っている。もし今後も、あの女が犯行を重ねたとしても、それまでが一美の犯行ということになってしまうだろう……。
彼女が出て来る様子に、私は背《せ》を向けた。
「いいお湯だった。——こんなにホッとしたの、アパートを出てから初めてよ」
「それは良かったね」
私はTVを消した。
「平田さん、入って」
「うん。先に寝てくれ」
私は、彼女のほうを見ないようにして、風呂場へと入った。——何しろ狭《せま》いアパートである。
どこか、彼女が安心していられる場所が必要だ。
しかし、私とて、二つも部屋を借りるほどの金はない。どうしたものだろう?
考えながら、ゆっくりと入《にゆう》浴《よく》して、すっかりのぼせてしまった。
もう眠《ねむ》っているかな。——そっと風呂場を出て、私は空《から》っぽの部屋を見回した。
たたんだままの布《ふ》団《とん》の上に、小さなメモが置かれていた。