新入社員の歓迎会
「乾《かん》杯《ぱい》!」
と、大声を張り上げたのは、殺された山口の後、課長になった笹《ささ》山《やま》である。
何が乾杯だ。およそそんな気分じゃないよ……。
私は、ほんの少しだけビールに口をつけて思った。誰も、あまり気勢が上がらないようで、
「乾杯」
の声も、遠慮がちで元気がない。
それもまあ当り前である。課長が殺され、課員の女性が指名手配されているのだ。いくら新課長と、新入社員の歓《かん》迎《げい》会とはいえ、楽しめるはずがない。
それに、こういう会は、通例で、新課長が自《じ》腹《ばら》を切ることになっている。
あのケチな山口ですら、課長になりたてのときは、嬉しかったのか、なかなかいい店へ連れて行ったものだ。
ところが、今度の笹山と来たら、いくら事情が特別で、祝うにふさわしくないからといっても、会議室で、買って来たサンドイッチやおにぎりだけで済まそうというのだから、お話にならない。
故人の手前、まずいということなら、一切こんな会をやらなければいいのである。
おかげで、飲むのを楽しみにしていた連中は肩すかしを食わされるし、夕飯代が浮《う》くと喜んでいた独り暮《ぐら》し組は、
「これじゃ、やっぱり帰りにラーメンでも食わなきゃな」
と囁《ささや》き合う始末である。
「ともかく、明日からは新しい気持で、各自仕事に励《はげ》んでもらいたい」
と、笹山はそっくり返りながら言った。
あまり貫《かん》禄《ろく》のないタイプで、そっくり返ると、転ばないように後ろへ突っかい棒《ぼう》を立ててやりたくなるくらいだ。
しかし、口では、「前、山口課長の志をつぎ……」などと言っているが(山口に志というほどのものがあったとも思えない)、その実、山口と仲《なか》の悪いことでは有名だったから、ヒョンなことで課長になれたのが、笹山は嬉しくて仕方ないのである。
その気持がつい顔に出て、一人でビールをガブ飲みしている。
「では、一応、会はこの辺で——」
と、笹山が言い出した。
「笹山さん。——課長」
と一人が笹山をつっつく。
「何だ?」
「あの——新入社員の紹《しよう》介《かい》のほうを、まだやってません」
「あ、そうか。いや、ついうっかりした」
と笹山はゲラゲラ笑《わら》った。
「頼《たよ》りないわねえ」
と、女性課員が聞こえよがしに言った。
「ええと、つまりその——小浜君がその——つまり——いなくなったので、新しくこの——」
笹山は、いささかろれつの回らなくなった口調で言いかけて、
「あれ、何て名前だっけ?」
失《しつ》笑《しよう》が起こった。笹山のわきに座っていた、女の子が立ち上がって、
「大《おお》場《ば》妙《たえ》子《こ》と申します。あまり仕事の経験がございませんので、色々ご迷惑をかけると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
と、笹山よりよほど落ち着いて挨《あい》拶《さつ》をした。
大場妙子か。——小浜一美の代りといっても、一美はベテラン社員だったのだ。当分は、半人前以下と思わなければなるまい。
年《ねん》齢《れい》はたぶん二十一、二だろう。まあ、見たところは真《ま》面《じ》目《め》そうだ。
しかし、最近の女の子は外見だけでは分らないものだからな……。
「で、課長、大場君はどこの席へ行くわけですか?」
と誰かが訊いた。
「ん? ああ、そりゃもちろん小浜君の席さ。平田君、君が面《めん》倒《どう》をみてやってくれ」
と、私のほうを見て言った。
「はあ」
私は気が重かった。新入社員を一人しょい込むと、仕事は倍にふえる。彼女ができない分だけ、こっちの仕事はふえ、さらに、彼女に教えるという仕事までふえることになるからである。
だが、気が重かったのは、それだけの理由ではない。——小浜一美が、今、どこでどうしているかが気になって仕方なかったのである。
お粗《そ》末《まつ》なパーティが終り、私は、洗《せん》面《めん》所へ行った。鏡の前で、ポケットから、定期入れを出し、中から、折りたたんだ紙を出して広げた。
一美が、私のアパートを出るときに置いて行ったメモである。
〈平田さん。あなたにこれ以上甘《あま》えては、あなた自身まで罪に問われることになります。あなたの親切は決して忘《わす》れません。私のことは、もう心配しないで下さい。一美〉
落ち着いた字で、震えもない。
あれから、もう数日たつ。一美はどこでどうしているのだろうか?
私は無力感に捉《とら》えられて、じっと鏡の中を覗き込んだ。
トイレの表で、ワイワイガヤガヤと声がする。これからどこかで飲み直そうという連中だろう。
私は出て行く気にもなれず、しばらくその場で待っていた。——やっと静かになった。
トイレを出て、事務所のほうへ戻って、びっくりした。大場妙子が、私の隣の席に座っていたのだ。
「どうしたんだい?」
と声をかける。
「お待ちしてたんです」
と、大場妙子はちょっと照れくさそうに言った。
「僕を?」
「はい」
「どうして……。みんなどこかへくり出したんじゃないのかい?」
「誘われましたけど、私、やっぱりこれから一番お世話になる平田さんとご一《いつ》緒《しよ》したくって……」
「そんな気をつかうことはないよ」
と私は苦笑した。「僕は飲まない人間だからね。真直ぐ帰って寝るだけさ」
「もしお約《やく》束《そく》がなければ、夕食をごちそうしたいんですけど」
「君が?」
私は面食らった。「しかし、そんなわけには——」
「いいえ、ぜひお願いします」
彼女の熱心さに負けて、私は肯いた。もちろん、それで夕食代は助かるわけだが、いくら私が変り者でも、それではちょっと惨《みじ》めである。
ともかく、行った調子で、こっちが払《はら》うようにすればいいだろう。
「分った。じゃ、行こうか」
と、私は言った。
だが、私のとんだ計算違いだった。
大場妙子が連れて行ったのは、青山の高級住《じゆう》宅《たく》地の一角、見たところ、どこの邸《てい》宅《たく》かと思うような、古びた洋館だった。
ここがレストランであることを示すような看《かん》板《ばん》の類は一切出ていない。いかにも、食通の好《この》みそうなフランス料理店なのだった。
しかも、驚《おどろ》いたことに、大場妙子はこの店ではかなりのなじみ客らしく、ウェイターや支配人と気軽に言葉を交わしている。
これでは、いくら無理をしても、こっちが払える金額で済みそうもない。私は、彼女にごちそうになることにした。
「凄《すご》い店だね」
と私は言った。
「いいえ、見かけほどじゃないんですよ」
と、大場妙子は言った。「それから、支払いのほうはどうぞご心配なく。私が払うわけじゃありません。父がよくここを使うので、つけておけるんです」
「なるほど」
私は多少、気が楽になった。
食事はすばらしかった。鹿《しか》の肉とか、ウサギの何とかだとか、およそ口にしたことのないような物が出て来るが、確かに高いだけのことはあると思わざるを得なかった。
大場妙子は、こういう雰《ふん》囲《い》気《き》にはよほど慣れているものと見えて、会社で見ていたときには至って地味な娘《むすめ》に見えたのが、ここでは、輝《かがや》き出すように美しく、活《い》き活《い》きとして見えて来るのだった。
デザートに、メロンが出た頃《ころ》には、もうこっちはアルコール抜《ぬ》きで、酔《よ》っ払っているような気分であった。
「——しかし、君だったら、もっといい会社へいくらでも入れるんじゃないの?」
と私は訊いた。
「コネで入ったりするの嫌《きら》いなんです」
「なるほど」
「そんな入社の仕方しても、ちっとも面白くありませんわ」
「しかし、なぜK物産を選んだの?」
「あの事件があったからです」
「あの事件って……例の〈切り裂きジャック〉の?」
「ええ。で、ちょうど女子募《ぼ》集《しゆう》の広告が出ていたので、あ、これならきっと応募する人いないんじゃないか、って思ったんです。倍率は低いほうがいいですものね」
私は思わず笑い出していた。いや、ここまで来れば、立派なものだ!
「で、計画通りになったんだね?」
「でも、私と同じことを考えた人がいるらしくて、三人来てました」
と、妙子は、澄《す》ました顔で言った。
「やれやれ、しかし偉《えら》いなあ今の若い人たちは」
と私は言った。
「あら、平田さんだって、まだお若いわ」
「もう三十六だよ。人生に疲《つか》れる年齢さ」
特に、このところね、と私は心の中で付け加えた。
コーヒーを飲んでいると、店を出ようとした客の一人が、私たちのテーブルのほうへやって来た。
「大場さんのお嬢《じよう》さんでしょう」
妙子はびっくりした様子で、
「あ——どうも」
と、ちょっと落ち着かない口調で、「ちょっと知り合いの方で……」
と私のほうへ目をやる。
「いや、叔父《おじ》さんはお気の毒なことをしましたねえ」
どこかの会社の重役だというタイプのその男は言った。「お葬《そう》式《しき》にも出られず、失礼しました」
「いいえ」
「早く犯人が捕まるといいですね。では、失礼」
その男が行ってしまうと、妙子は、ちょっと照れたような笑顔を向けた。
「君は……」
と私は言いかけた。
「私は、死んだ——というか、殺された桜田の姪《めい》なんです」
「桜田さんの——」
「母が桜田の妹でして。ごめんなさい。騙《だま》すつもり……だったんだわ、はっきり言っちゃえば」
「僕を?」
「というより、会社の人たちを。——私、納《なつ》得《とく》できないの。あの小浜一美って人が犯人とは思えなくて」
意外な言葉に、私は何とも言えなくなってしまった。
「そうでしょう? 小浜一美さんって、ずいぶん長く勤めたって聞きましたけど」
「うん。超《ちよう》ベテランだよ」
「そんな人が、怒《ど》鳴《な》られたくらいで人殺しをするなんて。それもあんな殺し方をするのは、単なる恨みとか、そんなものじゃありませんわ」
思いもよらないところから味方が出て来たものだ。——妙子はウェイターを呼んで、コーヒーをもう一杯頼《たの》んでおいて、
「でも、叔父って本当にいやな人でしたものね。殺したくなるのも分るわ」
と言った。
「凄《すご》いことを言うね」
「母も仲が悪かったんです。私もあんまり付き合いがなくて。ただ、真相が知りたかったんで、入社してみたんです」
「へえ。探《たん》偵《てい》さんか」
「そんなとこです。うんと地味にして、ひそかに真実を探《さぐ》ろうってわけで……」
「怖《こわ》いね」
「平田さんは、小浜さんを良く知ってらっしゃるんでしょ?」
「そんなこともないんじゃないかな。つまり僕は人付き合いの悪い人間で、その意味じゃ小浜君は数少ない友だちの一人だけど、彼女のほうから見れば、僕はその他大勢の一人だったからね」
「でも、犯人は彼女だと思います?」
「いいや、思わないね」
と私は即《そく》座《ざ》に言った。
「どうして?」
「さあ……。直感だな。彼女の人《ひと》柄《がら》からいって、考えられないよ」
妙子は微《ほほ》笑《え》みながら肯いた。
「きっと小浜さんって人も、平田さんになら何でも打ち明けるでしょうね」
「まさか。僕なんか頼りないので有名なんだからね。間違ってもそんなことはないと思うよ」
と私は言った。
「女の見る目は微《び》妙《みよう》なんですよ」
と妙子はゆっくりコーヒーをすすって、「頼れる人と、信じられる人っていうのは違うんですもの。もし——もし、ですよ、小浜一美さんが、平田さんの所へ、かくまってくれとやって来たら、警察へ突き出しますか?」
私はギョッとした。一《いつ》瞬《しゆん》、この娘は何もかも知っているのかもしれないという思いが頭をかすめた。しかし、そんなはずはない!
「そうはしないだろうね」
と私は言った。
「やっぱり」
ほら、ごらんなさい、というように、妙子は肯いて見せた……。
レストランを出ると、いつの間に手配したのか、ハイヤーが待っている。
「送ります。どうぞ」
と、妙子は言った。
「僕のボロアパートに?」
「さあ乗って。一人も二人も料金は同じですもの」
半ば無理に押し込まれて、ハイヤーは静かに滑《すべ》り出した。
「——平田さんって独身ですってね」
と妙子が言い出した。
「一向にもてなくってね」
と私は言った。
「恋《こい》人《びと》は?」
「そんなものいないよ」
「じゃあ、いいわね」
「何が?」
「ねえ、悪いけど」
と、妙子は運転手へ声をかけた。「Bコースのほうにして」
「はい」
ハイヤーはカーブを切って、方向転《てん》換《かん》した。
「何だいBコースって?」
「Aコースは真直ぐあなたのアパートへ行って、そこであなたを降《お》ろし、私の家まで行くっていうコースなの」
「Bコースは?」
妙子は、ちょっといたずらっぽく笑って、
「途中にホテルが入るの」
と言った。