再び、霧の夜に
「——東京地方には濃《のう》霧《む》注意報が出されています」
私はTVを消した。
何となく気の重い午後だった。
休みを取って、平日の午後、所在なく部《へ》屋《や》で寝《ね》そべってTVを見る気分というのも、悪くはない。しかし……よりによって、こんな日に霧が出るのか。
霧が出れば、大場妙子の命は危《あぶな》い。あ《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》が、彼女の帰り道を待ち受けているかもしれないのだ。
私は苛《いら》立《だ》っていた。この重苦しい天候のせいだろうか。
もちろん、それだけではない。小浜一美がどこでどうしているのか、全く分らないこと、そしてあの謎《なぞ》の女が、大場妙子を狙《ねら》っていると分っていながら、それをどうすることもできないという腹立たしさ……。
私は押入れを開けると、奥《おく》から包みを取り出した。〈切り裂きジャック〉になるための総《すべ》てがまとめてある。
今夜は霧が出そうだ。あの女が妙子を殺しに来るというのなら、私も〈切り裂きジャック〉になって、妙子を護《まも》ってやる。
私はナイフを取り出して、銀色の刃に、自分の眼を映《うつ》してみた。——そこにあるのは何だろう? 狂《きよう》気《き》か。それとも道《どう》化《け》の眼か……。
電話が鳴って、私はギクリとした。一美かそれともあの女だろうか。
「平田です」
「あ、私よ」
妙子の、屈《くつ》託《たく》のない声が伝わって来て、少し気分が軽くなったようだ。
「どうしたの? 風邪《かぜ》でもひいた?」
「いや、ただ怠《なま》けてるだけさ」
「そうなの? お見《み》舞《ま》いにでも行こうかと思ったのに」
「いや、大丈夫だよ」
「あの人から電話は?」
「あの人? ああ、小浜君か。いや、今のところないよ」
「会うことになったら、ぜひ知らせてね。お願いよ」
「ああ、分った」
私はそう言ってから、「今日は真直ぐ帰るのかい?」
と訊《き》いた。
「どこかで会う?」
「いや——やめたほうがいい。今夜は霧が出てるから」
「あ、そうか。ジャックが出て来るってわけね」
と声が笑っている。呑《のん》気《き》なものだ。刃物で体を切り裂かれるときになって、もう少し用心しておけば良かったと思っても遅《おそ》いのである。
「じゃ、明日は出て来るのね?」
「そのつもりだよ」
「それじゃ、ゆっくり休んで」
私は苦笑しながら受話器を戻した。とたんにまた電話が鳴り出す。
「平田さん?」
「小浜君か!——心配してたよ」
「ごめんなさい、この間は」
と、一美は言った。
「どうしたんだい?」
「あの店へ入りかけたんだけど……中にいた二人連れが、刑《けい》事《じ》みたいに見えたの。たぶん気のせいだと思うけど……。それで、つい逃げちゃったのよ」
「そうか。いや、それくらい用心したほうがいいよ」
「ありがとう。——今日はお休みなのね」
「会社へかけたの?」
「いいえ。だって声を知ってる人がいるもの。もしかしたらと思って、アパートのほうへ、ときどきかけるのよ」
「今……どうやって暮《くら》してるんだい?」
「色々と雑役をやって。毎日毎日仕事を変わるの。日給をもらって。その気になれば、何とかなるものよ」
一美の声は割《わり》合《あい》に明るくて、私は安心した。
「今日はレストランの皿《さら》洗《あら》いでね。今、休《きゆう》憩《けい》時間なの」
「会いに行けば、時間は取れる?」
「ええ、四時までの仕事だから、その後なら」
「場所を教えてくれよ」
「でも……いいの? 彼女と会わないの?」
「冷やかすなよ」
私は、一美の言う店の場所をメモした。
「四時までだね。今、二時過ぎか。——じゃ、少ししたら出るよ」
「会えれば嬉《うれ》しいわ」
「必ず行くよ」
私はそっと受話器を戻した。
「サンドイッチとコーヒー」
早目に着いてしまって、そのレストランに入った私は、仕方なく、食べたくもないものを注文した。
割合と広い店で、中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》な時間なのに、ずいぶんにぎわっている。
私は入口に近い側の隅《すみ》の席に座《すわ》って、出入りする客の顔を、のんびりと眺《なが》めていた。
——よく、「気配を感じる」という言い方をするが、そのときの私が、ちょうどそれだった。
気配といっても、それはやはり、目に見えたり、耳に聞こえたりする、何か具体的なことがあるわけで、その場合には、店の支配人らしい男が、いやに急いだ足取りで、店を突っ切って、歩いて行くのに気付いたせいであった。
私の視線は、何となくその支配人を追って、店の入口のほうへ動いた。
——そこに三、四人の男たちが立っていて、その中の一つの顔に見《み》憶《おぼ》えがあった。一美のことを調べに、社へ来ていた川上という刑事である。
川上と支配人が何やら低い声で話をしている。
私の席は入口に近いが、わきのほうなので、ちょうど死角に入っていて、川上刑事は一向に私には気付いていなかった。
「裏口……」
「客の迷《めい》惑《わく》……もちろん……」
といった言葉が、耳にやっと届いて来る。
誰かが一美に気付いて通報したのだ。私は手を固く握《にぎ》りしめた。
支配人が、刑事たちと一緒に店を出て行った。何とかしなくては。しかし——どうすればいいだろう?
考えもまとまらない内に、私は立ち上がっていた。店の中を、トイレに行くような顔で横切る。
幸い、調理場へ通じるドアは、衝《つい》立《たて》で隠れていた。ウェイターたちが忙《いそが》しく出入りしている。
私は思い切ってそのドアを押した。
中にカウンターがあり、出来上がった料理が並《なら》べられる。私はカウンターに沿《そ》って進んで行った。
「七番、ハンバーグまだですか」
「十二番、セットのコーヒー!」
声が飛び交《か》う。何人もの人間が動き回っているが、誰も私を見ようとしない。
下げて来た食器が並んだカウンターがある。その向う側に、女性が五人並んで、ひっきりなしに積まれる皿を洗っていた。その一番端《はし》が一美だった。
私がその前で立ち止ると、一美は顔を上げて目を見張った。
私の表情で、一美はただごとでないと察したらしかった。手早く水で手についた洗《せん》剤《ざい》の泡《あわ》を落とすと、カウンターの端を回って出て来た。
「警察だ」
と私は低い声で言った。「裏から来るぞ」
「じゃ……」
「表から客のような顔で出るんだ。そのエプロンを外して」
一美がエプロンを外して床《ゆか》へ放り出す。私は、彼女を促《うなが》して歩き出した。
調理場を出ると、
「荷物がロッカーに」
と、一美は言った。
「仕方ない。戻る暇《ひま》はないよ」
「そうね。お金の他には惜《お》しいものはないわ」
「トイレから戻ったような顔をして! 普《ふ》通《つう》に歩くんだ」
席へ戻ると、サンドイッチとコーヒーが来ていた。私は伝票をつかんで、「もったいないけど、仕方ないな」
と言った。
どうしてこんなに落ち着いていられるのか、自分でも不思議であった。
レジへ行って、金を払《はら》うと、私は一美の腕《うで》を取って、表に出た。
刑事らしい男が二人、立っていたが、私が一美を抱くようにして出て行くと、目もくれようとはしなかった。二人連れなどには注意も向けないのだ。
私は通りを歩きながら、タクシーを捜した。——少し霧が出ている。
空車が来た。手を上げて、目の前に停《とま》ったタクシーへ一美を先に乗せる。レストランのほうで、何か叫《さけ》び声がした。
私はタクシーに乗り込んで、適当な行き先を告げた。タクシーが走り出す。
振り向くと、レストランから、男たちが数人、飛び出して来るのが、霧の中にかすんで見えた。
私も彼女も、今になって、汗《あせ》がどっと吹《ふ》き出して来た。
ふと見ると、彼女は、じっと目を閉じていた。体が震えている。
「——大丈夫かい?」
「ええ……」
不意に、一美が私の手を強く握りしめて来た。
ベッドの中で、一美は死んだように眠《ねむ》っている。
ぐっすりと眠ったことなどなかったのだろう。——私は、傍《そば》の椅《い》子《す》にかけて、一美を見ていた。
前に妙子と来たラブホテルの一室である。ここなら女性が顔を伏《ふ》せて入ってもおかしくない。
もちろん、一美との間に何《ヽ》か《ヽ》あったわけではない。部屋へ入るなり、シャワーも浴《あ》びずに、疲《つか》れ切った様《よう》子《す》で一美はベッドに横になり、そのまま、アッという間に眠り込んでしまったのである。
深い寝息をたてている一美を、私はじっと見つめていた。
何とかして、彼女の疑《うたが》いを晴らしてやりたい。——だが、あの真犯人の女を捜す、どんな手《て》掛《が》かりがあるだろうか?
時計を見た。もうすぐ五時である。
妙子……。
あの女が妙子を殺しに来る。それを待ち伏せることができたら。
他に方法は?——ないことはない。それは私にも分っていた。
しかし、ともかくまずあの女を押《おさ》えることが出来るかどうか。やってみるのだ。それに失敗したら、もう一つの手《しゆ》段《だん》を取るしかない。
急がなくては。妙子が会社を出てしまったら、もう見付けられまい。
私は、一美を残して、ホテルの部屋から出た。
——タクシーを捕《つか》まえ、会社の前まで急ぐ。五時には間に合わないが、幸い女性たちは、化《け》粧《しよう》直しの時間がかかるから、望みはあった。
五時十五分に、会社の前についた。
霧は、桜田が殺された夜ほどではなかったが、それでも大分濃《こ》くなって来ている。
妙子は、もう出てしまっただろうか?
私は、ビルの出入口から少し離《はな》れて、出て来るOLたちを一人一人目で追った。五分ほど待って、妙子の姿が見えた。
よし、ついてるぞ、と思った。
今日は真直ぐ帰るだろうか。——歩き出した妙子の後を、私はつけて行った。
どうやら、真直ぐ帰る気ではないらしい。妙子は、駅への道をそれて、繁《はん》華《か》街《がい》へと足を向けていた。
人通りの多い場所にいる限りは、まず安全だろう。だが、逆に見失う可能性は増すわけである。
私は、少し妙子との間をつめた。
何の武器もない。しかし、あ《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》を放っておくわけにはいかないのだ。
霧が、少し濃くなって来るようだった。