三人の女
その翌《よく》日《じつ》は、仕事が、いやにはかどって気味が悪いほどだった。
理由は分らなかったが、昨夜からの一種の高《こう》揚《よう》感のようなものが、まだ体の中で燃えているようだった。
「ずいぶん張り切ってますね、平田さん」
と女の子に声をかけられたくらいである。
「昨日、ゆっくり休んだせいかな」
と、私はごまかした。
全く馬鹿げた心配ではあるが、それだけで松尾を殺したと疑《うたが》われるのではないかという気がしたのだった。
といって、少しもびくついていたわけではない。むしろ用心深くなった、というほうが正確であろう。
——川上刑事がやって来たのは、昼過ぎのことだった。
私は会議を中《ちゆう》座《ざ》して、川上と二人で喫茶室へ席を移した。
「——松尾さんは気の毒でしたね」
と私は先に言った。
「いや、驚《おどろ》きましたよ」
川上はため息をついた。「私が散々叱《しか》りつけた後でしたから、どうも気になりましてね」
「私は……まあ正直言って、あまり悲しくはありませんがね」
川上は、ちょっと笑《え》みを見せて、
「いや、それは当然です」
と言った。
「そうか。それで私の所へいらしたんですね?」
「というと?」
「私があの恨《うら》みで松尾さんを殺したのじゃないか、と……」
「とんでもない」
川上は即《そく》座《ざ》に打ち消した。「酔《よ》って喧《けん》嘩《か》したのですよ。それらしい声を耳にしたという近所の人の証言もあります」
「そうですか」
「犯人を挙げるのは楽じゃありません。指《し》紋《もん》は登録してなかったし、いわば行きずりの殺人ですからね。向うが黙《だま》っていれば、それきりですよ」
「警官を殺したとなると、びくついて名乗り出ては来ないでしょうね」
「それが厄《やつ》介《かい》です」
と川上は言って、「今日は、ともかく昨日の一件について、お詫《わ》びに上がったのですよ。上役のほうから、この件は何とぞ口外しないでいただきたいと頼《たの》んで来いと言われました」
「そうですか」
「警察も、マスコミに叩かれるのは怖いのですよ」
「二度とあんな目に遭《あ》うのはごめんですよ」
と私は言った。
正《まさ》に本音だった。——川上刑事は、至って愛想良く、何度か頭を下げて帰って行った。
どことなく油断のならない男だ。
松尾のような、直線的なタイプは、まだ何を考えているか分るので、そう神経は使わないが、川上は、「一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》で行かない」というタイプの典型だった……。
部下が殺されたというのに、あんな用事でわざわざ私を訪《たず》ねて来るだろうか? 私の様子を見るつもりだったのではないか。
しかし、いずれにせよ——本当に、私が殺したのではないのだ。残念ながら。
席へ戻ると、やっと気分の鎮《しず》まっているのを感じた。
それにしても、この事件は、ますます分らなくなって来る。——松尾の死は、偶《ぐう》発《はつ》的《てき》なものだから別として、あの謎《なぞ》の女、小浜一美、大場妙子……。
三人の女が、どう絡《から》んでいるのか、私には見当もつかない。
山口の殺されたホテルの部《へ》屋《や》から姿《すがた》を消してしまった大場妙子のことが気になった。もちろん小浜一美のことも、心配でないわけではないが、彼女が姿を消しても、それは理由がないわけでもない。
しかし大場妙子の場合は、全く思い当る理由がないのだ。しかも、姿を消した状《じよう》況《きよう》が、二人ともそっくりだというのは、何を意味しているのか?
——いつの間にか、一日が終った。
今日は霧もない、静かな夕《ゆう》暮《ぐ》れだった。
アパートへ帰ったのは、途《と》中《ちゆう》で夕食を取ったので、七時半頃《ごろ》になっていた。
ぼんやりとTVなどをつけて、見るともなく眺《なが》めていたが、その内眠《ねむ》気《け》がさして来て、畳《たたみ》の上に横になった。やはりまだ松尾に痛めつけられたのが、応《こた》えているのだろう。
ウトウトしていると、電話の音で起こされた。——妙子か、それとも一美だろうか?
受話器を急いで上げると、
「おめでとう」
という女の声。
あの女だ。私は、座《すわ》り直して、
「何の話だい?」
と言った。
「あの憎《にく》い刑事さんが死んで、ってことよ」
「僕《ぼく》がやったんじゃないぞ」
「分ってるわ」
「——見てたのか?」
「私にはちゃんと分るの」
女は、フフ、と軽く笑った。
「君は何者なんだ? なぜそう僕をつけ回す?」
「あら、つけ回しちゃいないわ。私の行く所にたまたまあなたがいる。それだけのこと」
「人をからかうな」
「そうカッカしないの」
「小浜君と大場君のことはどうなんだ。何か知ってるんじゃないのか?」
「私が?」
「君は大場君を狙《ねら》うようなことを言っていたじゃないか」
「ああ、そうね。でも——」
と女は大して気のない様子で、「もう構わないの」
と言った。私は、何となく背《せ》筋《すじ》に冷たいものが走るのを感じた。
「どういう意味だ? まさか君は大場君を……」
「ご心配なく、彼女は生きてるわ」
「知ってるのか。どこにいるんだ!」
「あまり大声出さないで。耳がガンガンするじゃないの」
「教えてくれ。彼女はどこにいる?」
「まあ、教えてあげてもいいわ。メモのご用意を」
女は、ラジオのDJか何かのような口調で言った。
「ふざけるな!」
「本気よ。ややこしい所だから。——いい? 言うわよ」
ドアを開けると、耳をつんざくようなロックの音楽が——これでも音楽だとすればだが——体にぶつかって来た。
確かに、女の言う通り、ややこしい裏《うら》通りで、メモを何度も見直さなくてはならなかった。
青白く淀《よど》んだ煙《けむり》。低いフロアで、ひしめき合うように踊《おど》る若い男女。目がチカチカして頭痛がして来るような照明。
何を好《す》きこのんで、こんな騒《さわ》がしい所へ来るのやら、私にはさっぱり理解できない。
「いらっしゃいませ」
こんな場所には、ちょっとちぐはぐな感じのする、蝶《ちよう》ネクタイの男が、近寄って来た。
三十歳ぐらいか。いやにてかてかと髪を光らせ、人形のような微《び》笑《しよう》を浮《う》かべている。
この男だな、と私は思った。
「席はあるのかい」
と私は、女に教えられた通り、言った。
「ご覧《らん》の通り、一《いつ》杯《ぱい》でして——。カウンターなら奥《おく》に……」
「テーブルがいいんだ。特別席があるんだろう」
男の顔が、ちょっとこわばった。こっちが警察の人間じゃないかと疑っているのだろう。
「どこでお聞きになりました?」
と訊いて来る。
「ジャックだよ」
と私は答えた。——女が、そう言えと指示したのだ。
「そうですか」
男はホッとしたように表情を緩《ゆる》めた。「こっちへどうぞ」
私は、背広にネクタイという、この店にはおよそ似合わないスタイルであった。
その男の後について行くと、奥のカーテンから、暗い廊《ろう》下《か》へと入り、突き当りのドアを開けた。
「中へどうぞ」
異様な匂《にお》いが、鼻をついた。——マリファナとか、その手のタバコの匂いなのだろう。
階《かい》段《だん》を下へと降《お》りると、広い部屋になっていた。
まだ若い男女が、思い思いの格《かつ》好《こう》で、カーペットを敷《し》きつめた床《ゆか》に寝《ね》そべったり、クッションに座り込んだりしている。
一様に黙りこくって、黙《もく》々《もく》とタバコを喫《す》っていた。
何だか、シャーロック・ホームズの小説に出て来たアヘン窟《くつ》、という感じで、ただ、そこに集まっている男女の服《ふく》装《そう》が変っているだけのようだった。
奥にも部屋があるらしく、そこではもっと怪しげなこともやっているのかもしれない。
本当に、ここに大場妙子がいるのだろうか?
私は、広い部屋の中を見回した。
——女が一人、物憂げに立ち上がって、近寄って来た。Tシャツとジーパンというスタイルである。まだ十七、八という顔だった。
「ねえ、私と寝《ね》る?」
間のびした声で訊《き》いて来る。
「いいや。人を捜《さが》してる」
「寝ようよ。お金がいるんだ」
と私の首へ腕をかけて来る。
大場妙子はここにはいない。——しかし、「あの女」は、ここだと言ったのである。
もちろん、あの女が嘘《うそ》をついたのかもしれない。しかし、他に何の手がかりもない以上、ここを調べてみる他ないではないか。
「ねえ、いいでしょう? 私、こう見えても巧《うま》いんだよ」
女は、甘《あま》えるような声を出した。
「よし。場所は?」
「奥よ。——こっち」
女は、奥のドアのほうへ私を引っ張って行った。ドアを開けると、細長い廊下が真直ぐにのびていて、両側にドアが並んでいる。
小部屋に分れているのだろう。使っていない部屋はドアが開けっ放しで、閉《し》まっている所は、いわば〈使用中〉ということのようである。
「ねえ、入ろうよ」
と、女が引っ張るのを、
「待てよ。もっと奥がいい」
と、引きずるようにして進んで行く。
「どこだって同じよ」
「静かにしてろ」
と私は言った。
閉《と》じたドアの一つから、
「やめて! 離してよ!」
と、女の叫び声が洩《も》れて来た。
あの声は——大場妙子だ!
そのドアを開け放つと、安物のベッドの上に、大場妙子が男二人に押《おさ》えつけられていた。一人は手に注射器を持って、その針《はり》を大場妙子の白い腕に突き立てようとしていた。
「——何の用だ?」
まだ十八、九にしか見えない、その男が、険しい目でこっちを見た。
「平田さん!」
妙子が叫んだ。
「その女を迎《むか》えに来たんだ」
と私は言った。「離してやれ」
「とんだ邪魔が入りやがった」
と男は舌打ちした。「お前も見物してな、この薬で、女がいい気分になるのをよ」
と注射器を突き立てようとする。
私は、いつもの平田正也ではなかった。ポケットの中で、手はナイフを握っていたのだ。一歩踏《ふ》み出すと同時に、ナイフの刃が、男の腕をかすめた。血が細く飛んで、注射器が床に落ちる。
「いてえ……。いてえよ……」
男は向って来るどころか、そのかすり傷《きず》をかかえ込むようにして、泣《な》き出しそうな顔でうずくまってしまった。
もう一人の男は、それを見ると、パッと妙子から手を離し、
「お、俺は手伝っただけだよ」
と奥のほうへ逃げる。
だらしのない連中だ。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」
私は妙子に声をかけた。妙子がベッドから飛び起きて来ると、私の胸にすがりつくようにして、
「もう……死ぬかと思った!」
と息をつく。
しかし、泣いてはいないのが偉《えら》いものだ。
「もう大丈夫。さあ行こう」
私は、彼女の肩《かた》を抱《だ》いて歩き出した。
「——ねえ」
と、後ろから声がした。
忘れていた。私と寝ようと言った若い女だ。
「金が欲しいんだろ。これを取っとけ」
私は、一万円札を一枚《まい》、財布から抜いて投げると、妙子を促《うなが》して歩き出した。