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霧の夜にご用心16
日期:2018-09-28 18:54  点击:297
 三人の女
 
 その翌《よく》日《じつ》は、仕事が、いやにはかどって気味が悪いほどだった。
 理由は分らなかったが、昨夜からの一種の高《こう》揚《よう》感のようなものが、まだ体の中で燃えているようだった。
 「ずいぶん張り切ってますね、平田さん」
 と女の子に声をかけられたくらいである。
 「昨日、ゆっくり休んだせいかな」
 と、私はごまかした。
 全く馬鹿げた心配ではあるが、それだけで松尾を殺したと疑《うたが》われるのではないかという気がしたのだった。
 といって、少しもびくついていたわけではない。むしろ用心深くなった、というほうが正確であろう。
 ——川上刑事がやって来たのは、昼過ぎのことだった。
 私は会議を中《ちゆう》座《ざ》して、川上と二人で喫茶室へ席を移した。
 「——松尾さんは気の毒でしたね」
 と私は先に言った。
 「いや、驚《おどろ》きましたよ」
 川上はため息をついた。「私が散々叱《しか》りつけた後でしたから、どうも気になりましてね」
 「私は……まあ正直言って、あまり悲しくはありませんがね」
 川上は、ちょっと笑《え》みを見せて、
 「いや、それは当然です」
 と言った。
 「そうか。それで私の所へいらしたんですね?」
 「というと?」
 「私があの恨《うら》みで松尾さんを殺したのじゃないか、と……」
 「とんでもない」
 川上は即《そく》座《ざ》に打ち消した。「酔《よ》って喧《けん》嘩《か》したのですよ。それらしい声を耳にしたという近所の人の証言もあります」
 「そうですか」
 「犯人を挙げるのは楽じゃありません。指《し》紋《もん》は登録してなかったし、いわば行きずりの殺人ですからね。向うが黙《だま》っていれば、それきりですよ」
 「警官を殺したとなると、びくついて名乗り出ては来ないでしょうね」
 「それが厄《やつ》介《かい》です」
 と川上は言って、「今日は、ともかく昨日の一件について、お詫《わ》びに上がったのですよ。上役のほうから、この件は何とぞ口外しないでいただきたいと頼《たの》んで来いと言われました」
 「そうですか」
 「警察も、マスコミに叩かれるのは怖いのですよ」
 「二度とあんな目に遭《あ》うのはごめんですよ」
 と私は言った。
 正《まさ》に本音だった。——川上刑事は、至って愛想良く、何度か頭を下げて帰って行った。
 どことなく油断のならない男だ。
 松尾のような、直線的なタイプは、まだ何を考えているか分るので、そう神経は使わないが、川上は、「一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》で行かない」というタイプの典型だった……。
 部下が殺されたというのに、あんな用事でわざわざ私を訪《たず》ねて来るだろうか? 私の様子を見るつもりだったのではないか。
 しかし、いずれにせよ——本当に、私が殺したのではないのだ。残念ながら。
 席へ戻ると、やっと気分の鎮《しず》まっているのを感じた。
 それにしても、この事件は、ますます分らなくなって来る。——松尾の死は、偶《ぐう》発《はつ》的《てき》なものだから別として、あの謎《なぞ》の女、小浜一美、大場妙子……。
 三人の女が、どう絡《から》んでいるのか、私には見当もつかない。
 山口の殺されたホテルの部《へ》屋《や》から姿《すがた》を消してしまった大場妙子のことが気になった。もちろん小浜一美のことも、心配でないわけではないが、彼女が姿を消しても、それは理由がないわけでもない。
 しかし大場妙子の場合は、全く思い当る理由がないのだ。しかも、姿を消した状《じよう》況《きよう》が、二人ともそっくりだというのは、何を意味しているのか?
 ——いつの間にか、一日が終った。
 今日は霧もない、静かな夕《ゆう》暮《ぐ》れだった。
 アパートへ帰ったのは、途《と》中《ちゆう》で夕食を取ったので、七時半頃《ごろ》になっていた。
 ぼんやりとTVなどをつけて、見るともなく眺《なが》めていたが、その内眠《ねむ》気《け》がさして来て、畳《たたみ》の上に横になった。やはりまだ松尾に痛めつけられたのが、応《こた》えているのだろう。
 ウトウトしていると、電話の音で起こされた。——妙子か、それとも一美だろうか?
 受話器を急いで上げると、
 「おめでとう」
 という女の声。
 あの女だ。私は、座《すわ》り直して、
 「何の話だい?」
 と言った。
 「あの憎《にく》い刑事さんが死んで、ってことよ」
 「僕《ぼく》がやったんじゃないぞ」
 「分ってるわ」
 「——見てたのか?」
 「私にはちゃんと分るの」
 女は、フフ、と軽く笑った。
 「君は何者なんだ? なぜそう僕をつけ回す?」
 「あら、つけ回しちゃいないわ。私の行く所にたまたまあなたがいる。それだけのこと」
 「人をからかうな」
 「そうカッカしないの」
 「小浜君と大場君のことはどうなんだ。何か知ってるんじゃないのか?」
 「私が?」
 「君は大場君を狙《ねら》うようなことを言っていたじゃないか」
 「ああ、そうね。でも——」
 と女は大して気のない様子で、「もう構わないの」
 と言った。私は、何となく背《せ》筋《すじ》に冷たいものが走るのを感じた。
 「どういう意味だ? まさか君は大場君を……」
 「ご心配なく、彼女は生きてるわ」
 「知ってるのか。どこにいるんだ!」
 「あまり大声出さないで。耳がガンガンするじゃないの」
 「教えてくれ。彼女はどこにいる?」
 「まあ、教えてあげてもいいわ。メモのご用意を」
 女は、ラジオのDJか何かのような口調で言った。
 「ふざけるな!」
 「本気よ。ややこしい所だから。——いい? 言うわよ」
 
 ドアを開けると、耳をつんざくようなロックの音楽が——これでも音楽だとすればだが——体にぶつかって来た。
 確かに、女の言う通り、ややこしい裏《うら》通りで、メモを何度も見直さなくてはならなかった。
 青白く淀《よど》んだ煙《けむり》。低いフロアで、ひしめき合うように踊《おど》る若い男女。目がチカチカして頭痛がして来るような照明。
 何を好《す》きこのんで、こんな騒《さわ》がしい所へ来るのやら、私にはさっぱり理解できない。
 「いらっしゃいませ」
 こんな場所には、ちょっとちぐはぐな感じのする、蝶《ちよう》ネクタイの男が、近寄って来た。
 三十歳ぐらいか。いやにてかてかと髪を光らせ、人形のような微《び》笑《しよう》を浮《う》かべている。
 この男だな、と私は思った。
 「席はあるのかい」
 と私は、女に教えられた通り、言った。
 「ご覧《らん》の通り、一《いつ》杯《ぱい》でして——。カウンターなら奥《おく》に……」
 「テーブルがいいんだ。特別席があるんだろう」
 男の顔が、ちょっとこわばった。こっちが警察の人間じゃないかと疑っているのだろう。
 「どこでお聞きになりました?」
 と訊いて来る。
 「ジャックだよ」
 と私は答えた。——女が、そう言えと指示したのだ。
 「そうですか」
 男はホッとしたように表情を緩《ゆる》めた。「こっちへどうぞ」
 私は、背広にネクタイという、この店にはおよそ似合わないスタイルであった。
 その男の後について行くと、奥のカーテンから、暗い廊《ろう》下《か》へと入り、突き当りのドアを開けた。
 「中へどうぞ」
 異様な匂《にお》いが、鼻をついた。——マリファナとか、その手のタバコの匂いなのだろう。
 階《かい》段《だん》を下へと降《お》りると、広い部屋になっていた。
 まだ若い男女が、思い思いの格《かつ》好《こう》で、カーペットを敷《し》きつめた床《ゆか》に寝《ね》そべったり、クッションに座り込んだりしている。
 一様に黙りこくって、黙《もく》々《もく》とタバコを喫《す》っていた。
 何だか、シャーロック・ホームズの小説に出て来たアヘン窟《くつ》、という感じで、ただ、そこに集まっている男女の服《ふく》装《そう》が変っているだけのようだった。
 奥にも部屋があるらしく、そこではもっと怪しげなこともやっているのかもしれない。
 本当に、ここに大場妙子がいるのだろうか?
 私は、広い部屋の中を見回した。
 ——女が一人、物憂げに立ち上がって、近寄って来た。Tシャツとジーパンというスタイルである。まだ十七、八という顔だった。
 「ねえ、私と寝《ね》る?」
 間のびした声で訊《き》いて来る。
 「いいや。人を捜《さが》してる」
 「寝ようよ。お金がいるんだ」
 と私の首へ腕をかけて来る。
 大場妙子はここにはいない。——しかし、「あの女」は、ここだと言ったのである。
 もちろん、あの女が嘘《うそ》をついたのかもしれない。しかし、他に何の手がかりもない以上、ここを調べてみる他ないではないか。
 「ねえ、いいでしょう? 私、こう見えても巧《うま》いんだよ」
 女は、甘《あま》えるような声を出した。
 「よし。場所は?」
 「奥よ。——こっち」
 女は、奥のドアのほうへ私を引っ張って行った。ドアを開けると、細長い廊下が真直ぐにのびていて、両側にドアが並んでいる。
 小部屋に分れているのだろう。使っていない部屋はドアが開けっ放しで、閉《し》まっている所は、いわば〈使用中〉ということのようである。
 「ねえ、入ろうよ」
 と、女が引っ張るのを、
 「待てよ。もっと奥がいい」
 と、引きずるようにして進んで行く。
 「どこだって同じよ」
 「静かにしてろ」
 と私は言った。
 閉《と》じたドアの一つから、
 「やめて! 離してよ!」
 と、女の叫び声が洩《も》れて来た。
 あの声は——大場妙子だ!
 そのドアを開け放つと、安物のベッドの上に、大場妙子が男二人に押《おさ》えつけられていた。一人は手に注射器を持って、その針《はり》を大場妙子の白い腕に突き立てようとしていた。
 「——何の用だ?」
 まだ十八、九にしか見えない、その男が、険しい目でこっちを見た。
 「平田さん!」
 妙子が叫んだ。
 「その女を迎《むか》えに来たんだ」
 と私は言った。「離してやれ」
 「とんだ邪魔が入りやがった」
 と男は舌打ちした。「お前も見物してな、この薬で、女がいい気分になるのをよ」
 と注射器を突き立てようとする。
 私は、いつもの平田正也ではなかった。ポケットの中で、手はナイフを握っていたのだ。一歩踏《ふ》み出すと同時に、ナイフの刃が、男の腕をかすめた。血が細く飛んで、注射器が床に落ちる。
 「いてえ……。いてえよ……」
 男は向って来るどころか、そのかすり傷《きず》をかかえ込むようにして、泣《な》き出しそうな顔でうずくまってしまった。
 もう一人の男は、それを見ると、パッと妙子から手を離し、
 「お、俺は手伝っただけだよ」
 と奥のほうへ逃げる。
 だらしのない連中だ。
 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」
 私は妙子に声をかけた。妙子がベッドから飛び起きて来ると、私の胸にすがりつくようにして、
 「もう……死ぬかと思った!」
 と息をつく。
 しかし、泣いてはいないのが偉《えら》いものだ。
 「もう大丈夫。さあ行こう」
 私は、彼女の肩《かた》を抱《だ》いて歩き出した。
 「——ねえ」
 と、後ろから声がした。
 忘れていた。私と寝ようと言った若い女だ。
 「金が欲しいんだろ。これを取っとけ」
 私は、一万円札を一枚《まい》、財布から抜いて投げると、妙子を促《うなが》して歩き出した。
 

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