二度光る刃
もの凄《すご》い霧《きり》だった。
いや、白い海の中を泳いでいる、と言ったほうが近いかもしれない。ともかく、どこをどう歩いているのか、見当もつかないのだ。
ともかく足の向くままに歩いて行くと、突《とつ》然《ぜん》、古びた小路に足を踏《ふ》み入れていた。そこだけは、霧も晴れて、濡《ぬ》れた石《いし》畳《だたみ》がつややかに光っている。
誰《だれ》かが倒れていた。近寄ってみると、小浜一美だ。胸《むね》をはだけて、深い傷《きず》がえぐっていた。
「畜《ちく》生《しよう》」
と私は呟《つぶや》いた。「畜生」
誰がやったんだ? 俺《ヽ》が《ヽ》切り裂《さ》きジャックなのに。一体誰が俺《おれ》の邪《じや》魔《ま》をするんだ?
気が付くと、女の後ろ姿が、少し先に立ち止っている。黒いコート、長い髪《かみ》。——あの女だろうか?
私はコートのポケットからナイフを取り出した。——急ぐことはない。
向うは逃《に》げっこないのだ。私には分っている。一対一で、ここで勝負をつけてやる!
歩み寄って、
「おい」
と声をかける。
女は、ゆっくりと振り向いた。——私は息を呑《の》んだ。
それは小浜一美だった。あそこに倒れていたときと同じように、胸をはだけ、深い傷から血が流れ出ている。
それでいて、彼女はニヤッと笑った。青ざめた顔は、とても生きている人間のそれではない。
私は恐《きよう》怖《ふ》に震えた。もう、ナイフで勝負しようという気もなくなっていた。逃げ出そうと思ったが、遅《おそ》かった。
小浜一美の手にしたナイフが、私の腹《はら》を切り裂いている。——なぜか苦《く》痛《つう》はなかった。むしろ、一種の快感、陶《とう》酔《すい》がある。
「死」はこんなに美しい、快いものだったのか。ゆっくりと路上に崩《くず》れ落ちながら、私はそう考えていた……。
「キャーッ!」
鋭《するど》い悲鳴、そして何かが壊《こわ》れる音。——私はハッと目覚めた。
夢《ゆめ》か。夢で、小浜一美に切り殺されていた。ここは……そう、あの、メグという娘が入院している病院で、待合室で長椅《い》子《す》にかけていて、いつしか眠《ねむ》ってしまったらしい。
「誰か! 誰か来て!」
叫び声に私は立ち上がった。あの悲鳴は夢ではなかったのだ!
廊下へ飛び出すと、看《かん》護《ご》婦《ふ》が、よろめきながら、あちこちへ向って、
「誰か来て!」
と叫んでいる。
しかし、真夜中である。まだ誰もかけつけて来ない。
「どうしたんです!」
と私が声をかけると、看護婦は安心したのか、その場に座《すわ》り込《こ》んでしまった。
「そ、そこの——そこの——」
と指さしたのは、ドアの半分開いている病室だった。
メグがいる部《へ》屋《や》だ! 私は不吉な予感で青くなりながら、そのドアを大きく開けた。
明りが点《つ》いていて、ベッドの上に、赤く血が広がっていた。メグはもう息絶えていた。
「——可哀《かわい》そうに」
私は呟《つぶや》いた。毛布の上から、突《つ》き刺《さ》している。何ということをするんだ!
しかし、メグの顔は、至って穏《おだ》やかだった。眠っているように目を閉じて、およそ苦痛など感じなかったようだ。
そう考えても、少しも慰《なぐさ》めにはならない。居眠りしていて、何も知らなかった自分に腹が立つばかりだった。
「そうだ——」
私は病室の中を見回した。確か川上刑事が、ここに警《けい》官《かん》を置いておくと言っていたのだ。
警官は病室の奥《おく》の椅子に腰《こし》かけ、頭を垂《た》れて眠っている様《よう》子《す》だった。私は腹が立って、
「何をしてるんだ!」
と警官の方へ歩み寄った。「——ちょっと! 起きて下さいよ!」
ぐい、と肩《かた》をつかんで揺《ゆ》さぶる。
警官の頭が、ガクン、と上を向いた。喉《のど》が鮮《あざ》やかに切り裂かれている。
私は後ずさりした。
「何だ……何だ、これは……」
驚《おどろ》きの余り、わけの分らない言葉が洩《も》れていた。
「どうしました?」
大して急ぐ様子もなく入って来たのは、当直の医師らしかった。「何か、変ったことでも?」
「警察へ——」
「は?」
「警察へ知らせて下さい」
「警察ですか。何と言います?」
私は苛《いら》立《だ》って、
「人が殺されたんだ!」
と怒《ど》鳴《な》った。
「そ、そうですか……」
若《わか》い医師も、やっと室内の様子に気付いたらしい。ギョッと目をむいて、
「ど、どうなってるんです?」
「分りませんよ。ともかく早く一一〇番して下さい」
「そ、そうですね……」
医師は、青ざめて、フラつきながら病室を出て行った。——私は、廊下に出て、まだ看護婦が座り込んでいるのを見て、不意に笑いたくなって来た。
笑いの発作を押《おさ》えようと、私も壁《かべ》によりかかって、その場にしゃがみこんだ。
誰が——誰がやったんだ? 人知れずやって来て、ナイフを振《ふ》るって行った……。
私の中に、煮《に》えたぎるような怒《いか》りが湧《わ》き上がって来た。
あの女……。あの女を生かしてはおけない! あの女を、この手で殺してやらなくては……。
正義とか、人道的な怒りとか、そんなものではなかった。むしろ、近親憎《ぞう》悪《お》に近いものだったかもしれない。
ともかく、あの女を殺せるのは私しかいない。その確信が、私をつかんでいた。
あの女の行動を予測できるのは、私一人である。
あの女と同じ夢を抱《いだ》いている、私一人なのだ……。
「——全く面《めん》目《ぼく》ありません」
と川上刑事は言った。
朝が近い。駆《か》けつけて来た川上は、寝《ね》不足らしい目をショボつかせた。
「私こそ、近くにいながら」
と私は言った。
「いや、警官の怠《たい》慢《まん》です。あの様子からみて、居眠りしていたのでしょう。弁解の余地はありません」
川上の表情は沈《ちん》痛《つう》だった。
川上も、内心は警官の死を悲しんでいるのだろうが、それを口にしないのが、却《かえ》って立派に見えた。
病院は大《おお》騒《さわ》ぎになっていた。報道陣《じん》が詰《つ》めかけ、患《かん》者《じや》たちは目をさまさせられて、苦情を言っている。
川上と私は、TVカメラの追《つい》及《きゆう》を逃《のが》れて、病院の事務室に入りこんでいた。
「——ともかく、この騒ぎが落ち着いてから、病院に出入りした人間を調べてみましょう。そこで手がかりを残すような犯人じゃないと思いますが」
「むだでしょうね」
と私は肯《うなず》いた。
「しかし、なぜ犯人はそんなにしつこく、あの女を殺したがったんでしょうね」
と川上は首をひねった。「警官を殺してまで。——そうでしょう? 警官を殺せば、ただでは済みませんよ」
「犯人にとっては、殺すつもりだった相手が生きているのが、堪《た》えられなかったんでしょうね」
と私は言った。
「なるほど。つまり、完《ヽ》璧《ヽ》を求めているというわけだ」
「そう思いますね。——どんな危《き》険《けん》を犯しても、自分の仕事を完成させたい……」
私には、あの女の気持が、よく分ったのだ。
「犯人は——ジャックですか」
「そう思わないんですか?」
「いや、そうじゃありません」
川上は手近な椅子に腰を下ろした。
「では……」
「これで、桜田、山口に続いて三人も殺されてしまった。——いや、それにホテルのフロントの男もあるが、これは今度の警官と同じように、直接の動機はなかったでしょう」
「そうですね」
「私が考えているのは……被《ひ》害《がい》者たちに、なぜ関連があ《ヽ》る《ヽ》のかということです」
川上の言うことは、よく分った。
妙子が言ったように、犯人は、何か具体的な目標があるのかもしれない。
「これは無差別殺人ではありませんよ」
と川上は言った。
「つまり、私《ヽ》の《ヽ》周囲で、殺人が起きている、と——」
「そのように見えます」
「つまり、私が犯人だ、と?」
「いや、そうじゃありません」
と川上は首を振った。
「しかし、被害者はみんな私の周辺の人物ですね」
私は、どうしてわざわざ疑《うたが》ってくれと言わんばかりのことを言うのか、自分でも分らなかった。
「お忘《わす》れですか」
と、川上は言った。「桜田と山口を殺したのは小浜一美ですよ」
私はハッとした。そうだった。——色々な事件が続いて、小浜一美が指名手配されていることを、いつの間にか忘れてしまっていたのだ。
「私にはそう思えません」
と、私は言った。「彼女がどうしてあの罪もない娘を殺すんですか?」
「小浜一美があなたに恋《こい》していたとしたら?」
と川上は言って、それから、「いや、これは単なる推測ですから」
と付け加えた。
「川上さん」
と、若い刑事が顔を出した。
「何だ?」
「記者たちが、うるさくて仕方ないんです。何か話せと……」
「そうか。放《ほう》っとくわけにもいかないな」
川上は立ち上がって、「じゃ、平田さん、ちょっと失礼しますよ」
と出て行きかけ、「ああ、もしお仕事に出られるんでしたら、構いませんよ。もう必要なことは大体うかがってありますしね」
「そうですか。——いや、ちょっと神経が参りました。今日は帰って少し寝ます」
「それがいい。では、今日はご連《れん》絡《らく》しません。明日でも、会社のほうへお電話を入れます」
「よろしく」
と私は頭を下げた。
川上の心づかいが、ありがたかった。実際、私は疲《つか》れていた。
肉体もだが、気持が重く沈《しず》んでいた。
それが、ただ、メグという一人の娘の死のせいなのかどうか、自分でも良く分らなかった。
——しかし、すぐには立ってアパートへ帰る元気もなく、しばらくそのまま事務室にいて、それから重い足を引きずるように病院を出た。
何もかもが、厄《やつ》介《かい》で、面《めん》倒《どう》くさかった。いっそ車にでもはねられて死んでしまいたいとさえ思った。
だが、そう都《つ》合《ごう》よく人をはねてくれる車もない。すっかり朝になっていて、そろそろ出勤して行くサラリーマンたちの姿《すがた》が目につく。
本来なら、私もその一員のはずだが、今朝《けさ》ばかりは、なぜか、その人々が、まるで遠い別の世界の人間たちのように思えてならなかった。
——はてしなく遠く感じられた距《きよ》離《り》をようやく克《こく》服《ふく》して、アパートへ辿《たど》り着く。部屋に上がると、何をする元気もなく、座り込んでいた。
すぐにドアをノックする音がした。私は無視していた。誰にも会いたくない。
ドアが開いて、大場妙子が入って来た。私は、鍵《かぎ》もかけていなかったようだ。
「——帰って来るのを見てたの」
と彼女は言った。
「というと……」
「表で待ってたの、三十分くらい」
「そうか」
「TVでニュースを見て……」
と、妙子は言った。「上がっていい?」
「うん」
と私は言った。
妙子は上がって来ると、しばらく何を言おうかとためらっているようだったが、私のわきへ来て座った。
「私にできることがあったら……」
彼女の気持はありがたかった。それに、あの子が可哀そうだったとか、犯人が憎らしいとか、当り前のことをくどくど言わなかったのも、救われる思いだった。
私は彼女を見た。——次の瞬《しゆん》間《かん》には、私は妙子をかき抱き、畳の上に押し倒していた。彼女のほうも、そうなるのを待っていたかのように、自分から私の唇《くちびる》へと唇を合わせて来るのだった……。