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霧の夜にご用心21
日期:2018-09-28 18:59  点击:277
 ある看護婦からの電話
 
 「平田さん、もういいんですか?」
 会社で女の子に声をかけられて、私は戸《と》惑《まど》った。
 「何が?」
 「あら、だって昨日、具合悪くてお休みしたじゃありませんか」
 「あ、ああ、そうか。うん。いや——もう大丈夫なんだ」
 私はあわてて言った。
 そうだ。まだあれは昨日のことなのだ。妙子と素晴らしい夜を過したのは……。
 「何だか怪《あや》しいわ、平田さん」
 と、女の子は言った。
 「怪しい?」
 「本当は他の理由で休んだんでしょ」
 「そんな——そんなことないよ」
 「あ、そういえば、昨日は大場さんもお休みだった。怪しいな、本当に」
 「僕が女にもてると思うかい?」
 「でも、世の中、物《もの》好《ず》きな人もいますからね」
 「ひどいこと言うなあ」
 と私は笑《わら》った。
 女の子は笑って行ってしまった。
 奇《き》妙《みよう》なものだ。——今まで私は、会社の女の子たちと、そんな風に話をしたことがなかった。
 気軽にしゃべろうと試みることはあっても却《かえ》ってぎこちなく、ギクシャクして、どうにもならなくなってしまうのが常だった。そして結末は自己嫌《けん》悪《お》に終るのである。
 しかし今朝は違っていた。どこが違っているのか分らないが、どこか違うことだけは確かであった。
 コピー室に行き、コピーを取っていると、妙子がやって来た。
 「コピーならやりますけど」
 「いや、たまにはこうして席を立ったほうがいいんだ。座《すわ》りっ放しじゃ、体が重くなるばかりだよ」
 「そう。たまには、いつもと違うことをしてみるのもいいでしょ?」
 と、妙子がいたずらっぽく笑う。
 「たとえば?」
 「結婚、とか」
 「おい——」
 私は、コピー室のドアのほうへ目をやって、「誰《だれ》が聞いてるか分らないんだよ」
 「いいじゃない。却ってみんなに知れ渡《わた》っちゃえば、後へひけなくなるし」
 「それで君はいいの?」
 「昨日から何度も言ったわ。——私に何回結婚の申し込《こ》みをさせる気?」
 とにらまれて、私は頭をかいた。
 「いや、それは——」
 「いいのよ。そこがあなたのいい所」
 「そうかい?」
 「いい所だと思ってる内に結婚しないと、機会を逃《にが》すわよ」
 と、妙子は、ちょっとウィンクして出て行った。
 私は、コピーの機械をじっと見ながら、妙子と結婚する可能性を、考えていた。
 いや、結婚そのものは、彼女自身の決心が変らない限り実現しよう。しかし、結婚式は終っても、その先には何十年もの生活があるのだ。
 その長い長い日々、私は「平田正也」でいられるだろうか?
 ナイフを手に、女の白い肌《はだ》を切り裂《さ》きたいという欲望に逆らい切れるだろうか?
 私には分らなかった……。
 「——平田さん」
 ドアが開いて、妙子が顔を出した。
 「電話よ。川上さんから」
 「すぐ行く」
 私は、コピーの機械を一《いつ》旦《たん》止めて、机《つくえ》に戻《もど》った。
 「——どうですか?」
 と受話器を取るなり、私は言った。「何か分りましたか」
 「どうも……。まだはっきりした手がかりはないんですよ」
 川上刑事の声は、眠《ねむ》そうだった。疲《つか》れているのだろう。
 「何かお役に立てることがあれば——」
 と私は言った。
 「恐《おそ》れ入ります、お元気そうですね、ちょっと心配していたんですよ」
 「それはどうも」
 「ともかく一度ご連《れん》絡《らく》を、と思いましてね。お仕事の邪《じや》魔《ま》をして申し訳ありませんでした」
 「いや、構いませんよ」
 「では、何か分ったら連絡します」
 と川上は言って、電話を切った。
 「——まだ、何も?」
 そばにいた妙子が、低い声で言った。
 「まだね。——難しいだろうな」
 私は首を振った。
 そういえば、昨夜はアパートへ戻らなかったが、あの謎《なぞ》の女から、電話がかかったのだろうか?
 あの女から今度かかって来たら、できるだけあれこれ話をしてやろうと私は思った。あの女の正体を知るきっかけを、何とかつかみたい。
 「はい、平田さん」
 妙子が、取り終えたコピーを、私の前に置いた。
 ——昼休みまで、アッという間だった。
 「女の子たち同士で食事して来るわ」
 と妙子が言った。
 「それがいいよ」
 「噂《うわさ》になるのが怖《こわ》いんでしょ。怖がり屋さん!」
 妙子はそうからかって、財《さい》布《ふ》を手に、事務所を出て行った。
 私のほうはどうせ一人だ。さて、行くか、とのんびり立ち上がると、電話が鳴った。やれやれ……。
 十二時にかけて来るとは、全く気のきかない奴《やつ》だ。
 「はい」
 「外線からです」
 つながると、女性の声がした。
 「あの……平田さんは……」
 「私が平田ですが」
 「あ——」
 「もしもし。どなたですか?」
 向うは、しばし黙《だま》っていた。妙な電話だ、と思った。
 「もしもし?」
 「——あの、私、実は看《かん》護《ご》婦《ふ》なんです」
 「はあ」
 「一昨日の夜、女の子が殺されたとき、私当直で——」
 「あなたが? じゃ、何かご覧《らん》になったんですか?」
 「はあ……。その……見たというか、何というか……」
 どうにもはっきりしないのである。
 「何か小さなことでも、警《けい》察《さつ》へ、お話しになったほうがいいですよ」
 と私は言った。
 「その前に、あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》に《ヽ》お話ししたいんですけど」
 「なぜです?」
 「それは——会ってお話ししたいんです」
 私はためらった。どうもおかしな電話である。
 「ええと——お名前は?」
 「玉《たま》川《がわ》正《まさ》代《よ》と申します」
 すぐに名乗った。看護婦というのは、嘘《うそ》でもないらしい。
 「分りました」
 と私は言った。「いつ、お目にかかれますか?」
 「今夜はいかがでしょう?」
 「結構ですよ」
 私は、会社の近くの、目につく喫《きつ》茶《さ》店の名を挙げた。幸い、向うも知っているとのことで、会社の帰りに会うことにした。
 看護婦が、私《ヽ》に《ヽ》何の用があるというのだろう?
 外へ出て、一人で食事を済ませ、コーヒーを飲んでいると、TVでは、メグの殺された事件のことを報道していた。
 しかし、中身は要するに、何の手がかりもないということだけだった。
 私は、ゆっくりと窓《まど》の外を眺《なが》めた。——ずいぶんと大勢の人間が死んだ。
 桜田、山口、松尾、そしてメグ。ホテルのフロントの男、警官……。
 いつになったら終るのだろう?
 「そうだ」
 そして、小浜一美。彼女は、生きているのだろうか?
 ——昼食を終えて戻ると、一時のチャイムが鳴る。
 「平田さん」
 と、受付の子がやって来た。
 「何だい?」
 「笹山課長が、会議室へ来てくれって」
 「課長が?」
 何だかいやな気分だった。大体、笹山という男、およそ課長の器《うつわ》ではない。
 「——平田君。座ってくれ」
 会議室へ入って行くと、笹山が、こわばったような笑《え》顔《がお》で待っていた。
 「ご用でしょうか」
 と私は言った。
 「うん。——色々大変だね」
 と、笹山は言った。
 「といいますと?」
 「つまり——えらい事件に巻《ま》き込まれて、ということさ」
 「仕方ありません。好きでこうなったわけじゃないのですが」
 「そりゃ分ってるよ」
 と笹山は肯《うなず》いた。「実は——」
 「何でしょう?」
 「さっき社長に呼《よ》ばれてね」
 と、笹山は苦い顔になった。「どうも——その——君が事件のことで、新聞や何かに出るのが、気になるとおっしゃってるんだ」
 「出るといっても——」
 「うん。もちろん犯人として出るわけじゃないし、問題はないはずなんだ」
 「それなら何ですか」
 私はイライラして来て、「はっきりおっしゃって下さい!」
 と言った。
 「社長はね、君個人がどうこうとおっしゃってるわけじゃない。ただ、その度に、わが社の名前が出るのがお気に召《め》さないっていうんだ」
 「警察に協力するなとおっしゃるんですか?」
 「いいや、とんでもない! それは市民の義務だからな」
 笹山は咳《せき》払《ばら》いして、「ただ、その際、わが社の名が出ては、イメージダウンになるおそれがある。そこで、一時的に、君に退職してほしいとおっしゃってるんだ」
 私はちょっと言葉がなかった。
 「——つまり、クビ、ということなんですか?」
 「いや、もちろん自主退職の形にして、退職金も払うよ」
 「今、『一時的』とおっしゃいましたね。つまり、この事件が片付いたら、またここへ戻れるということですか?」
 「そこはだね、つまり充《じゆう》分《ぶん》に考《こう》慮《りよ》しようということなんだ」
 「どういう意味です?」
 「だから、そのときには、前向きの姿《し》勢《せい》で検討して——」
 これでは国会答弁だ。
 「はっきり言って下さい。もう一度、ここへ入れると約《やく》束《そく》していただけるんですか?」
 笹山は、渋《しぶ》い顔になった。責任を取ることが嫌《きら》いで、何でもはっきり言おうとしないのである。
 「それは……」
 と言い渋っている。
 「どうです?」
 と私は一押《お》しした。
 「約束は……できない」
 と、笹山は言った。
 「分りました」
 要するに、クビになる前にやめろということである。
 「承知するかね?」
 私は立ち上がって、
 「すぐにはご返事できません。二、三日待って下さい」
 「ああ……。それぐらいはもちろん……」
 まだ口の中でモゴモゴ言っている笹山を残して、私は会議室を出た。
 
 「クビ?」
 「事実上の解《かい》雇《こ》さ」
 ——会社の帰り、玉川正代という看護婦と待ち合わせた喫茶店に、私は、妙子と入っていた。
 「ひどいじゃない、そんな!」
 と、妙子は腹《はら》を立てている。
 「しかし、どうしようもないよ。組合だって頼りにならないしな」
 「おとなしくやめるの?」
 「他にどうしようがある?」
 妙子はちょっと考えて、
 「そうね」
 と肩《かた》をすくめた。「いいじゃないの。やめたら?」
 「どこか就職先を捜《さが》さなきゃ」
 「私が養ってあげる」
 「よせよ」
 と私は苦《く》笑《しよう》した。
 「心配ないわ。父がいくらでも紹《しよう》介《かい》してくれるわよ。娘の亭《てい》主《しゆ》が失業じゃ困《こま》るでしょうからね」
 妙子はすっかり結婚するつもりである。「——その玉川って人、遅《おそ》いわね」
 「そうだな。十五分ぐらいすぎた。しかし、待ってる他ないだろ」
 「何の話かしら?」
 「いや、それより、なぜ僕《ヽ》に《ヽ》話すのかってことさ、分らないのは」
 と私は言った。
 ガラス戸が開いて、三十代の半ばと見える女性が入って来た。落ち着かない様《よう》子《す》で中を見回す。
 「あの人?」
 「らしいね」
 私は立って行って、「玉川さんですか」
 と声をかけた。
 「はあ……」
 「平田です。どうぞ」
 玉川正代は、ためらいがちな様子で、席についた。私は妙子を紹介して、何を話しても心配ないと言った。
 「——お話というのは?」
 「ええ……。実は、あのとき、私は当直で、一階におりました」
 と玉川正代は言った。
 そして——玉川正代は、目を何気なし店の中にさまよわせたのだが、突《とつ》然《ぜん》言葉を切って立ち上がった。
 椅《い》子《す》が後ろへ倒《たお》れるのも気付かない様子だった。
 「どうしました?」
 と私が訊《き》いたが、玉川正代は答えない。
 そしていきなり店を飛び出して行ってしまったのである。
 「待って下さい!」
 私は後を追った。「——君、お金を——」
 「分ってるわ。行って!」
 店を出て見回すと、玉川正代が道の反対側へと上がったところだった。
 「玉川さん!」
 私は声をかけた。
 彼女がタクシーを停《と》めるのが見えた。急いで道を渡ろうとしたが、車がビュンビュンと駆《か》け抜けるので、とても危《あぶな》くて横切れないのだ。
 その間に、玉川正代はタクシーに乗り込み、行ってしまった。
 「——どうしたの?」
 妙子が出て来る。
 「タクシーで行っちまった」
 「まあ……」
 「一体どうしたんだろう?」
 「ねえ」
 と妙子は言った。「今から病院へ行ってみましょう」

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