消えた看護婦
「ねえ、病院へ行ってみましょうよ」
と、妙子はくり返した。「あの玉川正代っていう人、看護婦さんなんでしょ?」
「自分ではそう言ってるが……」
「いかにもそんな印象だったわね」
「うん。だけど何も言わずに飛び出して行っちまうなんて……」
「病院へ行けば、住所や電話も分るんじゃない?」
「そうか。それもそうだ。——よし、じゃタクシーを停めよう」
「あそこへ来たわ」
都《つ》合《ごう》良く目についた空車を停め、私と妙子は、あのメグが殺された病院へと向ったのである。
病院というのは、やたらに食事の早いところで、夕食も五時頃《ごろ》には出されることが多い。これは、たぶん、片《かた》付《づ》けの手間などのことを考えて、そうなっているのだろう。
私たちが病院へ着いたのは、まだ七時半ぐらいだったが、それでも静かで、入口のあたりは薄《うす》暗《ぐら》くて、もう何となく夜中にでもなっているような、そんな雰《ふん》囲《い》気《き》であった。
「——やあ、あなたは……」
と、私のほうへやって来たのは、メグが殺されたとき、警察へ通報した若《わか》い医師だ。
TVドラマの医師は、洗《あら》いたてのパリパリ音をたてそうな白衣を着ているが、本物の医師でそんなのはまずいない。
この若い医師も、例外ではなく、洗《せん》濯《たく》ですり切れかけた白衣の袖《そで》をまくり上げ、ボサボサの髪《かみ》は、およそスマートさとは縁《えん》遠《どお》い。
「何かご用でも?」
「実は、こちらの看護婦さんのことでうかがいたいんですが……」
「看護婦がどうかしましたか」
私は、玉川正代という看護婦が、あの事件のことで話があると言って来たことを説明し、ここまで来た事情を話した。
「——玉川さんがね。分りました。しかし、何か見たというのなら、警察へ話をすればいいのに」
「そこがちょっと不思議なんですがね」
と私は肯《うなず》いて、「玉川さんという人は、確かにいるんですね?」
「ええ、いますよ。かなりのベテランでしてね。今日はええと……ちょっと待って下さい」
と、その医師は受付にいた看護婦のほうへと歩いて行った。
「——何だか、陰《いん》気《き》ね、夜の病院って」
と、妙子は言った。
「そりゃ、あんまり楽しい場所じゃないからね」
と私は微笑んだ。「それにあんな事件があったから、余計にそう思えるんだろう」
「そうかもしれないわ」
医師が戻って来た。
「——お待たせしました。今日は休みを取っているそうですよ」
「自宅は分りますか?」
「ええ。寮《りよう》に入ってるんだと思いましたが……」
「違《ちが》いますよ、先生」
と、若い看護婦が声をかけて来る。
「違ったかい?」
「アパート借りてるんです。もう半年ぐらい前からですよ」
「そうか。しかし、どうせ一人でいるのに、もったいないじゃないか」
「何も知らないんだから」
と看護婦はクスクス笑って、「玉川さん、男の人と住んでいるんですよ」
「玉川さんが? 本当かい?」
「ええ。みんな知ってます。先生ぐらいだわ、きっと、知らないのは」
「そりゃ初耳だ。——どこのアパートか分る?」
「ええ。住所変《へん》更《こう》の届も出てますもの」
私は、その看護婦のメモしてくれた住所を見た。
「大分、ここから遠いですね」
「わざとそうしたんでしょ。だって、近かったら、みんなが冷やかしに行くもの」
「なるほど。電話してみましょう」
「かけましょうか」
気のいい看護婦で、手もとの電話で、さっさとダイヤルを回してくれた。しばらく耳を傾《かたむ》けていたが、
「出ませんわ」
と肩《かた》をすくめる。
「行ってみる?」
と、妙子が私の顔を見た。
「そうだなあ……。場所、分りますか?」
「さあ。——遠いから、私も行ったことないし、それに割《わり》と親しい友だちのいない人なんですよ」
行くとなれば住所を頼《たよ》りに行く他はないわけだが、大体の見当でも、二時間近くかかるとみておかなくてはならなかった。
明日まで待つか。しかし、一刻《こく》を争うようなことにならないとも限らない。すでに何人もの人命が失われているのだから、用心しすぎるということはないのだ。
そのとき、看護婦が、
「あ、ちょっと待って。——ねえ谷《たに》村《むら》さん」
と、通りかかった同《どう》僚《りよう》を呼んだ。「玉川さんと一番親しい人なんです」
「なあに?」
玉川正代と同年《ねん》輩《ぱい》のその看護婦は、私たちのほうを、ちょっとけげんな目つきでながめて、言った。
「ねえ、谷村さん、玉川さんのアパートに遊びに行ったことある?」
「ないわ。だって彼女、呼びたがらないんだもの」
「あなたでもやっぱり?」
「そうよ。彼氏のこと、見られたくないんじゃない?」
「じゃ、行き方は分らないわね」
「玉川さんに会うの? だったら、さっき上の階へ上って行ったけど」
私と妙子は顔を見合わせた。
「それは確かですか?」
「もちろん。さっきエレベーターに乗るところを見たの。私服でいるから、あれ、と思ったんだけど、考えてみると、今日は彼女、休みなのね」
「どこへ行けば会えますかね」
「さあ……。何階で降《お》りたのかも分らないから。——放送してもらったらどうなんですか?」
「今、やってあげますね」
と、若い看護婦が奥《おく》へ入って行った。
少し間を置いて、
「玉川さん。玉川正代さん。受付においで下さい」
というアナウンスが廊《ろう》下《か》に響《ひび》いた。
「すぐ来ると思いますよ」
「どうもありがとう」
私たちは、若い医師に礼を言って、受付から少し入った所で、玉川正代が現れるのを待った。
しかし、たっぷり五分近く待っても、玉川正代は現れない。——受付の看護婦が気にして、
「変ですねえ」
と出て来た。
「捜すといっても、私たちじゃ勝手にあちこち覗《のぞ》き回るわけにもいかないし……」
と妙子が、落ち着かない様子で言った。「何でもなければいいんですけど」
単なる取り越《こ》し苦労に過ぎないのなら、それでも構わないのだが、何しろメグが殺されたばかりである。ついつい、不《ふ》吉《きつ》な予感が先に立つのだった。
「上だとすると、たぶん、おしゃべり室だと思いますよ」
と若い看護婦は言った。
「おしゃべり室?」
「ああ、そういうあだ名なんです。看護婦の仮《か》眠《みん》室なんですけど、色々おしゃべりするのに使われることが、一番多いもんですから……」
と看護婦は言って笑った。「行ってみますか?」
「そうですね」
私たちは、その看護婦について、エレベーターのほうへ歩き出した。
四階に上ると、静かな廊下を奥《おく》へと辿《たど》って行く。なるほど、一つの部《へ》屋《や》の中から、にぎやかなおしゃべりの声がしていた。
「——ねえ、ちょっと」
と、若い看護婦が声をかけた。「ここに玉川さん来なかった?」
「来たわよ」
と一人が答える。
「奥にいるんじゃない?」
「いないわよ。今、出てったもの」
「あらほんと? 気が付かなかった」
「出てったって、いつ?」
「たった今。二、三分前かな」
「アナウンスで呼んだのに……」
「聞こえるわけないじゃないの」
確かに、このにぎやかな女声合唱(?)にあっては、アナウンスの声など、とてもかなうまい。
「——何だかえらくあわてて出てったわよ」
と、一人が言った。「声をかけたんだけど、全然気が付かなくってさ」
「そう。——ありがとう」
受付の看護婦は私たちのほうへ向いて、「ごめんなさい。入れ違っちゃったみたいですね」
「じゃ、下へ戻ってみましょう」
と妙子が私の腕《うで》を取る。
しかし、結局むだ足だった。どうやら、玉川正代は病院から出てしまったらしい。
「でも何だか変ねえ」
と妙子は言った。「何か話があると言っておいて、そのくせ姿《すがた》を消したり、わざわざ病院へ寄ってみたり……」
「何か理由があるんだ、きっと」
と私は至って当り前のことを言った。「——仕方ない。今日は引き上げよう。明日でも、また玉川っていう看護婦に連絡を取ってみればいいさ」
「でも、何だか気になるわ」
実のところ、私も妙子と同様、何となく割り切れない不安を覚えていた。しかし、だからといって、どうなるものでもあるまい。
今から玉川正代のアパートを捜しに行っても、見つかるかどうか……。
「やあ、平田さんじゃありませんか」
と声がして、川上刑《けい》事《じ》が廊下を歩いて来た。
「刑事さん……。何をしてるんです?」
「手がかりを求めて、さすらっている、というところですよ」
と川上刑事はちょっと笑った。「あなた方は?」
「実は、ここの看護婦から電話がありましてね——」
私が玉川正代のことを説明すると、川上刑事は興味を持ったようだった。
「すると、アパートへ帰ったんですかね。——待って下さい」
川上刑事は二、三本電話をかけた。
「——アパートの近くの派出所から、一人警官をやって見張らせておきます。帰り着き次第、何か連絡があるはずです」
なるほど、さすがに警察で、わざわざ足を運ぶまでのこともないわけだ。
「しかし、どうして警察へ話そうとしなかったのかなあ」
と、川上刑事は首をひねった。
「自信がなかったのかもしれませんね」
「そうですね。不確かな証言をして、大《おお》騒《さわ》ぎにでもなったらどうしようと心配なのかもしれません。どうも信用されていないところがありますねえ」
川上刑事は苦笑した。
「——家へ帰らなくていいのかい?」
食事をしながら、私は妙子に言った。
そうそう毎日高級レストランというわけにもいかないので、駅の近くのトンカツ屋に入っていた。
「そうね。着《き》替《が》えもいるし、一《いつ》旦《たん》帰ろうかしら」
「それがいいよ」
「あら、私がいると邪《じや》魔《ま》なの?」
と、妙子が私をにらんだ。
「いや——そうじゃないけど」
「居座ってやろうっと」
妙子は楽しげに、「押しかけ女《によう》房《ぼう》、っていうのも、ちょっと昔風で楽しいじゃない?」
「そうかね」
「じゃ、今から帰って、荷物を持ってアパートへ行くわ」
「今夜?」
私は目を丸《まる》くした。
「そうよ。一晩《ばん》だって放っとかないから」
妙子はて《ヽ》こ《ヽ》でもその意志を変えそうになかった……。
——やれやれ。
妙子と別れて、アパートへ戻る途《と》中《ちゆう》、私は考えていた。
妙子はこのまま私のアパートに住みつく気らしい。
どうも、そのまま結婚というコースを辿りそうな気配である。しかし、それでいいのだろうか?
私はためらいながらも、結局は妙子を受け容《い》れてしまいそうな気がしていた。
しかし——いずれにしても、今度の一連の殺人事件のけりをつけてしまわなければ、どうにもならない。あの、謎《なぞ》の女の正体を暴《あば》いてやらなければ。
もちろん、それは警察の仕事だが、任せておくわけにはいかない。これは私がやらねばならない仕事なのだから……。
アパートへ戻り、寛《くつろ》ぐ間もなく、電話が鳴った。出てみると、
「あの——」
と女の声。「先ほどはすみません」
「玉川さんですね」
「はい」
「一体どうなさったんですか?」
「申し訳ありません。急にちょっと……」
と言葉を濁《にご》し、「今から、そちらのアパートへうかがってもよろしいですか?」
「ここへですか? そりゃ……まあ、構いませんが」
私はアパートへの道順を教えた。
「その辺なら分ります」
と、玉川正代は言った。「たぶんここから三十分くらいで行くと思います」
「分りました」
電話は切れた。——来ると言ったり、姿を消したり、どうもすっきりしない。一体何を知っているというのだろう?
どうにも宙《ちゆう》ぶらりんな気持だった。不安、というのではないのだが、相手に振り回されている苛《いら》立《だ》ちに近いものだった。
ともかく三十分はあるわけだ。
着替えでもしようか、と立ち上がったとき、また電話が鳴った。
「平田です」
向うはしばらく沈《ちん》黙《もく》していた。——一《いつ》瞬《しゆん》、私は緊《きん》張《ちよう》した。「あ《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》」か、と思ったのである。
「もしもし。平田ですが」
とくり返すと、
「平田さん……小浜一美です」
と、消え入りそうな、か細い声がして、私は息を呑《の》んだ。
「小浜君! どこにいるんだ! 大丈夫なのか?」
私は受話器を握《にぎ》りしめていた。
「今……駅の近くまで来たんですけど……」
声は弱々しく、途切れがちだった。
「どうした? けがでもしてるの?」
「いいえ……。ただ……もう力がなくなってしまって」
「どこだ? 行ってあげる」
「公衆電話の……ボックス」
と言ったきり、電話は切れた。
「小浜君!」
返事のあるはずがないのを承知で、私は呼びかけていた。受話器を置いて、急いで玄《げん》関《かん》へ行き、靴《くつ》をはいた。
しかし、玉川正代がやって来るのだ。——私はちょっと迷ったが、鍵《かぎ》をかけずに出て行くことにした。
帰らない内に玉川正代がやって来ても、鍵が開いていれば、入って待っているだろうし、こんな所へ泥《どろ》棒《ぼう》も入るまい。
私は急いでアパートを出て、駅へと向った。