宣 告
男女の仲《なか》というのは微《び》妙《みよう》なものである。
特に女性たちには、どんなにうまく隠したつもりでいても、男女の間の、ちょっとした目配り一つが、目につくものらしい。
次の日、わざわざ少し時間をずらして出社したものの、私と妙子の仲はあっさりと見破られていたらしい。
「平田さん、おめでとう」
と、女の子たちには声をかけられ、
「おい、やるじゃないか」
と、男の同僚たちにはからかわれた。
とうてい、とぼけていられる雰《ふん》囲《い》気《き》ではなかった。
コピー室にいると、妙子がやって来た。
「みんなに知れ渡《わた》っちゃったみたいだな」
と私は言った。「しゃべったんだろう」
「あら、私、何も言わないわよ」
と、妙子は澄《す》まして、「ただ、訊《き》かれて否定しなかっただけ」
「それじゃ同じことだ」
と私は笑った。
「いいんでしょ? 私はともかくはっきりさせちゃいたいわ」
「ここまで来ちゃ、仕方ないじゃないか」
と私は苦笑したが、実際、内心では悪くないと思い始めていたのだ。
もちろん、「あ《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》」からの電話を忘《わす》れたわけではない。それに、この会社を、事実上クビになっていることも。
しかし、それでもなお、目の前に立っている妙子の存在感は大きかった。
「ここを辞《や》める話、どうするの?」
と妙子が訊く。
「考えてるけど……。言われる通りにする他ないだろう」
「そうね。そんなに頑《がん》張《ば》ってまで、いる所じゃないわよ」
「次の就職先を見付けるまでは、待ってもらわないとね」
「いいじゃないの。私のほうで当ってあげる」
「君はどうするんだ?」
「ここはいやね。——私もどこか、探《さが》すことにするわ」
少し間を置いて、私は言った。
「ともかく、今度の一連の事件が片《かた》付《づ》かなくちゃ、何もできないよ」
「それはそうね。小浜さんも行方《ゆくえ》が分らないままだし」
ふと、私の胸《むね》が痛《いた》んだ。小浜一美がどこでどうしているのか——生きているのかすら分らないのに、自分は結《けつ》婚《こん》のことまで考えている。
こんなことでいいのだろうか……。
ドアが開いて、他の課の女の子が顔を出した。
「お邪《じや》魔《ま》かしら?」
と冷やかすように言う。
「ええ、凄《すご》く邪魔よ」
と、妙子が言い返した。
「水をさすようで申し訳ないんですけど、平田さんにお客様」
「僕に?」
「ええ、若くてきれいな女の人——じゃなくて、お巡《まわ》りさん」
「からかうなよ」
と私は笑って言った。
川上刑事が、受付の前に立っていた。
「やあ、どうも昨夜は」
「刑事さん、あの看《かん》護《ご》婦《ふ》と連絡はつきましたか?」
「それがどうもね……」
と川上刑事が渋《しぶ》い顔で首を振る。
「というと?」
「いや、ついに昨夜は帰らず終《じま》いだったようです。一《いつ》緒《しよ》に住んでいる男性にも訊いてみましたが、心当りはないそうで……」
「心配ですね」
「全くです。——実は今朝、依《い》頼《らい》して、病院の中を捜《そう》索《さく》させているんですよ」
「つまり……どこかにいるかもしれない、と?」
「最悪の場合、どこかで殺されているとも考えられますからね」
「まさか!」
「とは思いますがね。まあ、万が一を考えてのことです」
私は、玉川正代が、昨夜電話して来たことを話そうかと思ったが、アパートを留《る》守《す》にしてしまった事情を説明するのに困《こま》るので黙《だま》っていた。——病院にいない、自宅へ戻っていないということになると、玉川正代はどこに行ってしまったのだろう?
「——わざわざ知らせていただいて、どうも」
私は、川上刑事をビルの出口まで送って行った。
もちろん、私としては、あまり警《けい》察《さつ》も縁《えん》がないほうが望ましいのだが、それでも、あの川上という刑事には、何となく憎《にく》めないものを感じる。
もちろん、外見、穏《おだ》やかではあるが、実際には腕《うで》ききなのに違いない。しかも、真《ま》面《じ》目《め》で、労を惜《お》しまない感じである。
しかし、私が一番気に入っているのは、川上刑事が、決して権力をか《ヽ》さ《ヽ》にきないということである。
大体、警察官というものは、市民の権利を守るために任命されているのに、その実態はといえば、権力者に他ならない。
その権力は、自らが持っているものではなく、市民から与えられたものなのに、それを一《いつ》旦《たん》手にしてしまうと、まるで生れつきの権利の如《ごと》くに思い込むのだ。
そうでない、本当の意味での警察官というのは少ないものだが(といって、私自身、そう大勢の警察官を知っているわけではないが)川上刑事は、その珍《めずら》しいほうの部類に属している。
会社へ戻ると、受付の所で、妙子が心配顔で待っていて、
「何かあったの?」
と私の顔を見るなり言った。
「いや、そういうわけじゃないよ」
私の説明でも、妙子はあまり安心した様子ではなかった。
「——その玉川って看護婦も、もしかしたら、殺されたのかしら?」
「まだ何も分ってないんだ。そう心配しても仕方ないよ」
と私は極力気軽に言ったが、自分自身でも信じていないことを、相手に信じさせようとしても、むだらしかった。
「——ともかく、平田さん、気を付けてね」
「君のほうこそ。僕は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》さ」
「そう……」
「何をそんなに、気にしてるんだい?」
「何か起こりそうな気がして、不安なのよ」
「いつも君のほうが僕の心配顔を笑ってるじゃないか」
「そう……。でもね——」
と、妙子は私の顔を見て、「本当に、心配しなきゃいけないときに心配しないのは、やっぱり馬《ば》鹿《か》よ」
「何か具体的に、不安になる理由があるの?」
「別にないわ」
「それなら——」
「口じゃ説明できないのよ」
と、妙子は、もどかしげに言った。「何かこう……頭の芯《しん》のほうで、モゾモゾ動いてるものがあるのよ」
「モゾモゾ?」
「そう。地《じ》震《しん》を起こすのが大ナマズだとすると、それが動き始めたら、こんな気がするんじゃないかしら」
妙子のた《ヽ》と《ヽ》え《ヽ》は、実にユニークである。
「まあ心配するなよ。ともかく、会社の中は安全さ」
私は、妙子の肩をポンと叩《たた》いた。
いつもは彼女のほうが私を励《はげ》ましてくれるのに、今度ばかりは、逆になってしまっていた……。
私はトイレへ入って、顔を洗《あら》った。——このところ妙子がいるので寝《ね》不足のせいか、昼間、頭がボーッとしていることがある。だから、こうしてときどき顔を洗って、目を一時的にでも覚ますのである。
顔を洗っていると、ドアが開いて、また閉《と》じる音がした。ハンカチを出して顔を拭《ぬぐ》って見回すと、誰も入って来てはいない。
トイレを出ようとして、その貼《はり》紙《がみ》に気がついた。
〈今夜、あなたを殺す。切り裂きジャック〉
と、赤いマジックで、白紙に書かれてある。
それが、トイレのドアの内側に、セロテープで貼《は》りつけてあったのである。
私は誰か来ない内に、急いでそれをはがして、握り潰《つぶ》しながら、廊《ろう》下《か》へ出た。
もちろん、左右を見回しても、人っ子一人いない。——何ということだろう!
私は、その紙をくずかごへ放り込み、席に戻った。いつの間にか、鼓《こ》動《どう》が早まっている。
あのとき、やろうと思えばやれたはずだ。私は顔を洗っていて、何も見えなかったのだから。
しかし、相手は、予告だけを残して、姿を消した。何という大《だい》胆《たん》さだろう。
会社へ連絡するといっていたが、当然電話がかかるものと思っていた私のほうが甘《あま》かったのだ。
相手は、会社までやって来た。
もちろん、トイレは廊下にあるのだから、外部から来た人間でも、入ることはできる。しかし、年中会社の人間が出入りしているというのに……。
全く何という女だ!
あの女の狙いは何だろう? ただ私を殺すことでないのは確かだ。それなら、さっきやっていただろうから。
すると他に何か目的があるということになる……。
「——どうしたの?」
昼食のとき、妙子が言った。
「え?」
「何だか変よ。考え込んで」
私たちは、会社の近くの喫茶店で、サンドイッチの昼食の最中だった。
「そうかい? 君の心配がうつったんじゃないかな」
わざと冗《じよう》談《だん》めかして言ってみるが、我ながら、役者にはなれない、と思った。
しかし、妙子は特にそれ以上、訊いては来なかった。自分のほうの考え事に気を取られていたのかもしれない。
「お二人さん!」
と、会社の女の子たちが冷やかしの声をかけて行く。「熱そうね!」
「おかげさまでね!」
と、妙子が笑って言い返した。
これで少し、二人の気分がほぐれて来たようだ。
「少し希望のあることを考えましょうか」
と、妙子は言った。「結婚のこととか、新居のこととか……」
「新居?」
「そう、今のアパート、特別気に入ってるの?」
「全然。行く所がないから、あそこにいるのさ」
「じゃあ、どこかへ引っ越しましょうよ」
「どこへ?」
妙子の気軽な言い方に、私はびっくりさせられた。
「捜《さが》すわ」
「そう簡《かん》単《たん》に見付かるかい?」
「マンションなら、今、あちこち売れ残ってるわ」
「安くないぜ」
「それに、あなたはクビだったわね」
「そうさ。あのアパートからだって追い出されるかもしれない」
「まさか」
と妙子は笑って、「ちゃんと仕事、捜して来るわよ」
「楽で、休みが多くて、給料のいい会社がいいね」
「そんな所があったら、私のほうが行っちゃうわ」
と妙子は言った。「——でも、本当に構わない?」
「何が?」
「私が見付けて来た仕事でも」
「いいとも。そんな無茶苦茶な仕事は押しつけないと信じてるよ」
「じゃ、任せて」
と妙子は肯《うなず》いた。
その様子では、どうやら、もう心当りがあるようだった。
「ついでにマンションも捜してみるからね」
「買えやしないのに」
「分らないわよ、そんなこと」
妙子はニヤニヤ笑っている。
「おい、まさか……もう用意してあるっていうんじゃないだろうな」
「いい場所よ。値段も手《て》頃《ごろ》。いかがですか、ご主人は?」
と、妙子は楽しげに言った。
「しかし……払《はら》う金がないよ」
「払わなくてい《ヽ》い《ヽ》の」
「——どういうことだい?」
「うちで買ってくれるんですって」
「ねえ、君——」
「待って。買わせたわけじゃないの。でも、どうしても買いたいって言うんだもの」
大分無理な言い方に聞こえた。
「ねえ、気にしなくたっていいのよ。これも親孝行だわ」
都《つ》合《ごう》のいいことを言って、妙子は、自分でも照れくさそうに笑った。
「しかしねえ……」
私はためらっていた。
別に、男の体面がどう、とか言うわけではない。
ただ、それが私に何かの意味で負《ふ》担《たん》になるのを避《さ》けたかったのである。
しかし、妙子のほうは、もうすっかり決めている様子で、
「今日の帰りに、見に行きましょうよ、ね?」
と言い出した。
「これか」
まだ建設中のマンションは、外側が八割《わり》方出来上がって、おおよその姿《すがた》を見せていた。
なかなか高級感のある造りだ。
〈モデルルーム〉という矢《やじ》印《るし》が目に入った。
「あっちよ。——ね、中を見てみましょ」
妙子に引っ張られるようにして、工事現場の一《いち》隅《ぐう》に造られているモデルルームへと足を運んだ。
中は3LDKの造り。
今までのアパートから見れば、宮《きゆう》殿《でん》のような——というのは、オーバーかもしれないが、確かに広々として見えた。
細かく区切った3LDKでなく、一部《へ》屋《や》がかなり広いので、もったいないような気がした。
「いいじゃないの」
と妙子は言った。「子供が生れたら、部屋がいるわ」
子供が……。
そんなことは、考えてもみなかった。——私の子供。
改めて、妙子を見ると、不思議な想《おも》いが浮《う》かんで来た。
今まで、妙子は、およそ妻や母のイメージとはほど遠い存在に思えた。
しかし、今——こうして見ると、妙子が赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いている姿が、ごく自然に浮かんで来るのだ。
そんなものなのかもしれない。——女というのは。
モデルルームには、他に客がいなかった。不動産会社の社員も退《たい》屈《くつ》そうで、欠伸《あくび》をくり返している。
「——ここの部屋が、ちょっとね」
と妙子は、畳《たたみ》の八畳《じよう》間を覗《のぞ》いて、言った。「もちろん、色々なタイプがあるから、いいけど」
「どうして気に入らないんだ?」
「窓がないのよ」
と妙子は言った。
なるほど、南北を部屋に挟《はさ》まれて、この部屋は窓が一つもないのだ。
しかし、私は、どちらかといえば、こういう、暗い部屋のほうが好きである。
暗がりの中にいると、まるで古い故《こ》郷《きよう》へ帰ったような安心感があるのだ。
私はその畳の間の中央に座ってみた。
「何してるの?」
「座ってるのさ」
「そりゃ分るけど」
「ちょっと落ち着いて考えてみたいことがあるんだ」
「モデルルームで?」
と妙子は笑った。
「いいじゃないか」
「じゃ、私、表にいるわよ」
「ああ、すぐ行く」
「どうぞごゆっくり」
妙子が行くと、私は、畳の上に座って、ゆっくりと部屋を眺《なが》め回した。
自分の家を持つ……。
そんなことを考えたのは、初めてであった。
——そう。何もかも夢《ゆめ》だったのかもしれない。
〈切り裂きジャック〉のことも。
私は、妙子と二人の生活を考えている自分に気が付いたのだった……。
——いつの間にか、五分近く、その部屋に座り込んでいた。
急いで表に出てみると、妙子の姿が見えなかった。
「——失礼」
と、入口の所の椅《い》子《す》でウトウトしている不動産会社の社員に声をかける。
「はあ?」
と顔を上げ、目をショボショボさせながら、「ご用ですか?」
「ここから連れの女性が出て行ったでしょう?」
「ああ、さっきのね」
「どこへ行ったか知りませんか?」
「さあ……」
と首をひねる。「その辺にいませんか?」
「見当らないんです」
「そう言われてもねえ……」
「おかしいな。勝手にどこかへ行くはずはないんだけど」
「じゃ、その辺をぶらついてるんじゃないですか」
と男は、また欠伸した。
「工事現場でですか?」
「人は色々ですからね」
男はやけに哲《てつ》学《がく》的なことを言い出した。
私は表をぐるぐると歩き回った。しかし、どこにも妙子はいない。
一体どこへ行ったのだろう?
「——何だね」
と、工事の男が一人、ヘルメットをかぶってやって来た。
「実は連れを捜してて……」
私が説明すると、
「ああ、若い女かね」
と肯く。
「そうです」
「それなら、車に乗って行ったよ」
「車に?」
「そう」
「タクシーですか?」
「いや、自家用車らしかったよ」
どうなってるんだ?
私は、呆《ぼう》然《ぜん》として、その場に突っ立っていた……。