回 想
妙子はどこに行ったのだろう?
アパートへ帰り着くまで、私の胸は不安でふくれ上がりそうな様《よう》子《す》だった。
自分からマンションのモデルルームへ連れて行っておいて、姿を消してしまう。——わけが分らない。
いや、自分で姿を消したのなら、私もそう心配はしないのである。時が時だけに、またどこかへ連れ去られたのじゃないかと、気が気ではなかったのだ。
案の定、アパートには帰っていなかった。
「やれやれ……」
もう何が何やら分らなくなって来た。
私は、部屋の真ん中にペタンと座り込んで、しばらく動けなかった。
こうも奇《き》妙《みよう》なことが、なぜ続くのだろう? もちろん、私自身も奇妙な存在には違《ちが》いないが。
切り裂《さ》きジャックが、謎《なぞ》に振《ふ》り回されているのでは、ジョークにもならない、と私は苦《にが》笑《わら》いした。
——思い返してみると、この一連の事件は、初めから奇妙な滑《すべ》り出しであった。
桜田にしろ、山口課長にしろ、私《ヽ》が《ヽ》殺してやりたいと思った相手が殺されている。
そして小浜一美、大場妙子、殺されたメグ……。
三人の女が絡《から》んで来た。いや、あの〈謎の女〉を含《ふく》めれば四人になる。
私は考え込んだ。複雑に考えてはいけないのだ。細かいところは気にしないことだ。
大《おお》筋《すじ》を見て行こう。——桜田が殺されたのが偶《ぐう》然《ぜん》だったのかどうか、というのが、まず第一点である。
桜田を憎んでいたのは、もちろん私や小浜一美だけではあるまい。
しかし、あの殺し方。——女が声をかけ、桜田がその女を抱いた後で殺されたことを考えると、女が、桜田の顔見知りだったとは考えにくい。
すると、桜田は行きずりの相手として選ばれたことになる。
それはそれでいい。——問題は次の犯行である。
山口が殺されたのはなぜか? 同じ犯人だとすれば、なぜ山口を殺したのか。
つまり、桜田を偶然に殺した犯人が、私のことを知って、興味を持ち、私の周辺につきまとい始めたのではないか。
そう考えれば、それ以後の事件にも、納《なつ》得《とく》が行く。
犯人は、私のことを知っている。私の秘《ひ》密《みつ》——私が二十世紀の切り裂きジャックになろうとしていることを、なぜか、知っているのだ。
つまり、私の身近にいるか、でなければ、そこまで調べることのできる人間だということになる。
それにもう一つの問題がある。あの謎の女が、果して本当に犯人なのか、ということである。
これは今まで思い付かなかったことなのだが、桜田が殺されたとき、私は、あの女が桜田を殺すのを見たわけではな《ヽ》い《ヽ》。
つまり女が桜田を誘《さそ》い、そこを他の誰《だれ》かが襲《おそ》ったと考えられなくもないのだ。
その場合は、あの女も共犯ということになるだろう。——つまり、女は、電話をかけたり、現場近くに出《しゆつ》没《ぼつ》するだけで、犯行は他の誰かがやっているとも考えられる。
しかし、それが誰なのか、見当もつかない……。
大体、あの女は、桜田が殺された次《ヽ》の《ヽ》日《ヽ》に電話をして来た。あの素早さ。——あれが不思議だ。
一体どこで、どうやって私のことを知ったのだろう?
インスピレーションだの、怪《かい》奇《き》物めいたことは抜《ぬ》きにしよう。問題は、具体的に、あのたった一日で、私のことを、あの女がなぜ知り得たのか、にかかっている。
アパートを知られたのは、尾《び》行《こう》されたとすれば分らぬでもない。
だが、私が切り裂きジャックたるべく、ナイフなどを隠《かく》し持っていることを、なぜ知ったのか、ということである。
私は部屋の中を見回した。——ここへ入ったのだ!
それしか考えられない。ここへ入って、中を調べ、ナイフなどを見付けたのに違いない。
そして犯人は、私が殺したいと願うような相手を殺して行った。
山口課長についてもそうだ。——小浜一美との関係を、なぜあの女が知っていたのか?
どうも、犯人は、ただの通り魔《ま》ではない、行動力のある、頭のいい人間のようだ。
そして、松尾刑《けい》事《じ》のことがある。
私は、ふと考え込んだ。——あんまり色々と事件が起こって、大して気にもしなかったのだが、あの一件にしても奇妙である。
いや、松尾を殺したのは、あのチンピラであることは、私自身が目《もく》撃《げき》しているのだから確かだ。
奇妙なのは、次の日に、やはりあの女から電話があったことである。——考えてみれば妙な話だ。
女は、
「あの憎い刑事さんが死んで、おめでとう」
と言った……。
ということは、松尾が私を責め立てたことを、あ《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》は知《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》ことになる!
どうして今まで、そのことを考えなかったのだろうか?
私は頭を振った。
「しっかりしろ!」
と自分に言い聞かせる。
あの女が、〈謎の女〉だということで、何を知っていても、不思議はない、と思い込んでしまったのだ。だから、大して気にもとめていなかった……。
実際、なぜあの女は、松尾刑事と私のことを知っていたのか?——松尾が私を責め立てたのは、あくまで警察の中だけのことである。
私も、松尾を殺す決心はしたものの、あの出来事を、他の人間にはしゃべっていない。妙子にも話していない。それなのに、あの女はそれを知っていたのだ。——なぜか?
私は立ち上がると、狭《せま》い部屋の中を、グルグルと歩き回った。落ち着かなかった。
何か、とんでもない考えが浮かぶと、人間はそれを受けいれるのに、時間がかかるものである。
「そんな馬《ば》鹿《か》な!——そんなことがあるはずがない!」
と私は言った。
しかし、否定しようもない。他に誰《だれ》が考えられるだろう?
松尾が私を責めているのを見ていた人間は一《ヽ》人《ヽ》し《ヽ》か《ヽ》いないではないか。——川《ヽ》上《ヽ》刑《ヽ》事《ヽ》一人しか……。
川上刑事が犯人?
そんなことがあり得るだろうか?
だが、川上を犯人とすると、色々な疑《ぎ》問《もん》は解《と》けて来る。
まず、桜田が殺された次の日、彼は私のところへやって来た。そしてその夜には、あの女から最初の電話がかかっている。
その間に、私の部屋へ入り、中を調べる——それも私が気付かないように調べるのも、ベテラン刑事なら容易なことだろう。
私の行動を監《かん》視《し》し、ホテルへ後をつけて、私と小浜一美の話を立ち聞きすることもできたはずだ。
山口を、先回りして殺すことも容易だった……。
一美と妙子が姿《すがた》を消したこと、妙子が、あの妙なクラブで見つかったこと。——それも理由は分らないが、ああいう場所と、奥《おく》で、ヤクを扱《あつか》っていることなど、刑事の身なら分るはずである。
そしてメグを殺したのは……。なぜ殺したのだろう?
分らない。——しかし、妙子が言っていたように、メグが何かの理由で川上に雇《やと》われて私に近づいて来たのだとすれば、それを裏《うら》切《ぎ》って殺されたとも思える。
そして——看護婦だ!
玉川正代は? どうなったのだろう?
彼女が話そうとしてためらったこと。それは、川上がメグの病室へ入って行ったか、出て行ったことではないか。
そうだ。——それなら、玉川正代が、警《けい》察《さつ》にでなく、私に、その事実を話そうとしたのも分る。
刑事を見かけたと警官に話しても取り合ってはもらえまい。
そうなると、玉川正代の身も心配である。
何しろ相手はベテラン刑事だ。どうにでも網《あみ》を広げることができるだろう。
「——大変なことになった」
と私は呟《つぶや》いた。
考えれば考えるほど、川上が犯人に違いないと思えて来る。そして共犯に、あの女と……。
なぜ、こんなことをするのか、それは分らない。
しかし、警察の中に〈切り裂きジャック〉がいたって、おかしくはあるまい。
——少し落ち着いて来ると、大きな問題にぶつかった。
本当に川上が犯人だとして、私に何ができるかということである。
警察へ行って、このことを話すか?——とんでもない!
私は小浜一美をかばったり、ナイフを手に人をつけ回したりした男である。一体誰《だれ》がそんな人間の言うことを信じてくれるだろうか?
それに、川上のほうだって、私が気付いたときに備えて、私の弱味をあれこれとつかんでいるに違いない。
このまま、手も足も出せずに終るのか。
いや——このまま終って、忘れてしまえばいいのなら、それでもいい。
だが、現に妙子が行方《ゆくえ》不明になり、一美もあの女の手中にあるらしい。
私が忘れたいと言っても、向こうがそうさせてくれないだろう。
考えあぐねていると、電話が鳴り出した。
「はい」
「平田さん?」
妙子の声だった。
「君か!」
私はホッと息をついた。「心配してたんだよ。どうしていなくなっちゃったんだ! 今どこだい?」
「そんなこと、どうだっていいわ」
妙子の声は、いやによそよそしかった。
「何だって?」
「どうでもいいのよ」
「どういうこと?」
「——聞いたわ」
と妙子は言った。
「何を?」
「あなたの秘密よ」
私は受話器を握《にぎ》りしめた。
「何のことだい?」
「とぼけないで」
と妙子は突《つ》き放すように言った。「あなたが切り裂《さ》きジャックなんですってね」
「おい……」
「もう何も言わないで」
「しかし、待ってくれよ——」
「ご心配なく。誰にも言わないから」
「そうじゃない! 僕《ぼく》は——」
「もう二度と会いたくないわ」
「待ってくれ! 僕の話も聞いてくれよ」
「必要ないでしょ」
「君はそれを誰から聞いたんだ?」
「さよなら、ジャックさん」
「待て!——おい!」
電話は切れていた。
私は、受話器を手にしたまま、ぼんやりと座り込んでいた。
川上が話したのだ。他に考えられない。
彼女は去って行った……。
正直なところ、私は、これほど、妙子に去られてショックを受けるとは、自分でも思っていなかったのである。
私は彼女と夢見た、新しい人生のことを考えた。——生れ変って、やり直そうと、本気で考えていたのだ。だが、それも終りだ。
受話器を置くと、すぐにまた鳴り出した。相手は分っている。
「もしもし」
あの女の声だった。
「君か」
「どう、ご機《き》嫌《げん》は?」
「良くないのは知ってるくせに」
「まあ、冷たい返事ね」
と女は笑った。
「ケリをつけよう」
「そうね」
「小浜君は無事か」
「ええ」
「よし。場所を言え」
「公園にしましょう」
「公園?」
「今夜も霧《きり》が出るそうよ。——霧の中で決《けつ》闘《とう》なんて、ムードがあるじゃない?」
「なるほどね」
私はちょっと笑った。「むざむざやられはしないよ」
「分ってるわ。どっちかが死ぬまで続けるのよ」
「いいだろう」
「霧が深くなるのは九時ごろってことだわ。——十時に、S公園の中で」
「十時だな」
「待ってるわ」
「公園へ足を踏《ふ》み入れたときからが勝負だ」
「楽しみね」
「——待て」
「なあに?」
「君は僕を知ってるが、僕は君を知らない。不公平じゃないか」
「じゃ、私は目立つように赤いコートを着ていくわ。それでいい?」
「OK。それで互《ご》角《かく》だ」
「じゃ、幸運を祈《いの》るわ」
女は電話を切った。