霧の中の対決
「ちょっとできすぎだな」
アパートを出た私は、苦笑して呟いた。
ちょうど、この事件の始まった夜も、こんなひどい霧だった。
偶然が、ちゃんと舞《ぶ》台《たい》を整えて、待っていてくれるのだ。
アパートの下で、顔見知りの近所の人に会った。
「今《こん》晩《ばん》は」
と声をかけると、向うはキョトンとしている。
無理もない。こっちは黒のコートに、帽《ぼう》子《し》を目《ま》深《ぶか》にかぶっているのだ。まさか、いつも冴《さ》えない背《せ》広《びろ》姿で歩いている同じ男とは思うまい。
女は赤いコートで来る、と言った。
しかし、この霧では、よほど近くへ来ないと、コートの色も分るまい。
だが、逆に、向うがこっちの顔を知っているとしても、この霧では、誰か確かめるのに時間がかかる。そうむやみに人を刺《さ》すわけにいかないだろうから、この霧は、こっちにとっても好《こう》都《つ》合《ごう》である。
女か。——いや、女ならばともかく、本当の犯人が川上刑事だったとしたら、どうなる?
刑事を相手に争うのか。——勝ち目があるだろうか?
たとえ川上を倒《たお》したとしても、私が殺人罪で捕《つか》まるのがオチかもしれない。川上が切り裂きジャックだったなんて、警察が信用するはずがあるまい。
こっちは警官殺しで死刑……。
どっちにしても死ぬか、と思うと、却《かえ》って気が楽になった。
それなら、いっそ相手と刺し違えて死ぬのがよほど楽だ。——どうせ、生きていても、大してやることはない。
妙子も去って行った。
私はタクシーを止めた。
公園へ向うように言うと、
「ひどい霧ですね」
と運転手が言った。
「全くだね」
「スピードが出せないんで、ちょっと時間がかかりますよ」
「ああ、構わないよ」
十時には、まだ大分間があった。
タクシーは、本当に低速で、慎《しん》重《ちよう》に走っていた。
「気味が悪いですね」
と運転手が言った。
「そうかい? それもたまにはいいじゃないか」
「何かこう、霧の中から、ワッと出て来そうですね」
「化《ば》け物でも?——切り裂きジャック、なんてのがいたね」
「そうですよ! あんなのがタクシーに乗って来たら、一巻《かん》の終りですからな」
私は黙《だま》って微《び》笑《しよう》した。——ナイフを出して、実は僕がそうなんだよ、と言ってやりたかったが、やめておいた。
こんなところで騒《さわ》ぎになったら、十時までに公園には着けない。
「——もう少しですよ」
と運転手が言った。「すみませんね、遅くて」
「いや、いいんだ。まだ間に合う」
「やあ、こいつは……」
運転手が舌打ちした。「車がつながっちゃってますね」
「何かあったのかね」
「追《つい》突《とつ》でしょう。この霧じゃ当り前ですよ」
「動かないかな」
「——ちょっと大変ですよ、こいつは。もう近いし、歩いたほうが早いと思いますがね」
「分った。そうしよう。——つりはいいよ」
「ああ、どうもすみませんね」
と、運転手は礼を言った。
私は歩き出した。
霧は、確かにひどくなっている。——それほどの距《きよ》離《り》ではないのだが、かなり遠く感じた。
気が付くと、公園の入口に来ていた。噴《ふん》水《すい》が、うっすらと見えている。
街《がい》灯《とう》の光が、白く霧の中ににじんでいた。
ここを一歩入れば、どこから刺されるか分らないのだ。私は、コートのポケットの中でナイフを握りしめた。
ここは正面の入口である。裏へ回ろうかと考えたが、却って向うは裏で待っているかもしれない、という気がして、正面から入ることにした。
どこをどう歩くか。それとも、一か所に潜《ひそ》んで、向うが動くのを待つか。
もしかすると、相手も車が渋《じゆう》滞《たい》して、遅《おく》れて来るのかもしれない。——先に見つけたほうが勝ちである。
噴水のわきを回って、階《かい》段《だん》を上がる。——できるだけ奥のほうがいい。
「すみません」
女の声にギョッとして振り向いた。高校生らしい、制服の女の子だ。
「何だい?」
「あの——公園を横切って帰るんですけど、一《いつ》緒《しよ》に歩いてくれません? 怖《こわ》くって一人では……」
一緒にいたほうがよほど怖いよ、と言いかけて、やめた。——却って、この娘と一緒ならカムフラージュになるかもしれない。
「いいよ。どっちへ行くの?」
「すみません。この道をずっと——」
「よし。じゃ行こう」
「良かった!」
女の子はホッとした様子で、私の腕《うで》に手をかけて歩き出した。
霧《きり》に誘《さそ》われたのか、恋《こい》人《びと》たちのシルエットが、いくつも現れては消える。ご苦労なことだ……。
「ねえ」
と女の子が言った。
「何だい?」
「一枚《まい》でいいけど、どう?」
私はびっくりして、その少女を見た。とてもそんなことをする子に見えないのだ。
「そんな目で見ないで。——お金がいるんだもの」
と少女は顔をしかめた。
「危《あぶな》いね。相手が変質者だったら、どうするんだ?」
「不運と諦《あきら》めるわ。おじさん、そうなの?」
「そうだ、って答える奴《やつ》はいないよ」
「それもそうね。——私はあんまりやんないのよ。でもお金がいるんだもの」
私は、ふと考えついた。
「じゃ、アルバイトをしてくれないか」
「どんな?」
「この公園の中は詳《くわ》しい?」
「うちの庭みたいなもんよ」
「じゃ、中を一回りして来てくれないか」
「どうするの? 新しいゲーム?」
「まあ、そんなところだ」
と私は、ちょっと笑って言った。「赤いコートの女を見付けたら、教えてほしい。どこにいるのか、何をしているか、誰かと一緒かどうか」
「面白そうね」
「さあ、一枚渡《わた》しておくよ」
と私は一万円札《さつ》を財《さい》布《ふ》から抜いて渡した。
「先にもらっていいの?」
「ああ。終ったら、もう一枚だ」
「へえ、気前いいのね」
少女は楽しげに言った。「——OK。じゃ行ってくるわ。ここにいる?」
「ああ」
私は肯《うなず》いた。
少女の姿はすぐに霧に溶《と》けて見えなくなった。私は道を外れて、茂《しげ》みの奥《おく》に身を潜めた。
どれくらい待てばいいのだろう?
私は、帽子を取ると、その茂みの上にそっとのせた。道のほうからよく見れば、ここに隠れているように見えるだろう。
子供だましの手だが、こんなときだ。何にひっかかってくれるか分らない。
私は、茂みの中を、横へと動いた。
——何かにつまずいて、
「いてっ!」
と声がしたので、びっくりした。
若いカップルが起き上がった。
「何だよ、けとばさないでくれよ」
「やあ、失礼」
と私は言った。
「さっきの奴と違うのか。——何だか今日は気分出ねえな」
「おい、待ってくれ」
と私は言った。「さっきの奴って……。他にも誰かいたのかい?」
「変なおじさんね」
と、女のほうがクスクス笑った。
「赤いコートを着ているのよ、いい年齢《とし》したおじさんがさ」
男が赤いコート?——私は緊《きん》張《ちよう》した。
「そいつは、どこへ行った?」
「知らないよ」
「あら、向うへ行ったみたいよ。あの石段を上がってったもの」
「ありがとう。——いつ頃《ごろ》だね、それは?」
「十分前ぐらいじゃない?」
と女のほうは協力的である。「確かこの人がブラジャー外そうとしてたから」
「おい——」
女がクスクス笑った。
「どうもありがとう」
と私は言って、先へ進んだ。
女が言った石段というのは、ちょっとしたベンチの並《なら》ぶ休《きゆう》憩《けい》所《じよ》らしき場所で、今はそこも霧に閉《と》ざされている。
相手はあの上にいるのだろうか?
だが、向うにとっても、あれでは場所が悪いのではないか。こっちが、あんな所へのこのこ入って行くとでも思っているのだろうか?
相手はまずあそこにいない、と私は判断した。——逆にあそこで待ち伏《ぶ》せしてやってもいい。
捜《さが》し回って、疲《つか》れたら、ああいう場所で一息入れることは考えられる。
「——おじさん」
あの少女の声に、ハッと身をかがめる。
「どこ?——おじさん」
少女は私を捜している。
私は、声をかけようとして、また身を沈《しず》めた。少女の向うに、何か赤いものがチラリと動いたような気がしたのである。
あれはもしかすると……。
「おじさん……」
と少女はキョロキョロ辺りを見回している。
赤いもの——赤いコートだ!
それが少女のほうへと近づいていた。放ってはおけなかった。
「危い!」
私は飛び出した。同時に赤いコートは、霧の中へと消えた。
「ああ、びっくりした!」
と少女は目を丸《まる》くしている。「どうしたの?」
「危いぞ。君はもう、帰れ」
「あ、そう。もう一枚の約《やく》束《そく》よ」
「そうか」
私は財布を出すと、そのまま少女へ渡して、
「もういらないんだ。持って行っていいよ」
と言った。
「ええ? だって——入ってるよ、まだ」
「いいんだ。どうせ使うことはない」
私はナイフを握った。少女が身をすくめて、
「殺さないで!」
「違うよ。大丈夫だ。奴がいるんだ」
「奴って?」
「切り裂きジャックさ」
「まさか!——だって——」
「君はどこかへいってろ。けがするぞ」
「あのね、赤いコートの女が、噴水の所に立ってたわ」
「女か。——こっちが捜しているのは男なんだ」
「え? どういうことなの?」
「いいから行けよ」
と私は言った。
「キャーッ!」
と、悲鳴が耳を打った。
茂《しげ》みの中だ。——さっきの女が、転がるように飛び出して来た。
「助けて!」
ブラウスの前がはだけて、血だらけだ。しかし、傷《きず》は負っていないようだった。
「彼がやられたの!」
あの帽子のせいか? 私がいると思い込んで突っ込んで行って、アベックたちのほうまで行ってしまったのかもしれない。
私はナイフを手に、茂みの中へと飛び込んで行った。
赤いコートが、霧の中へと翻《ひるがえ》って消えた。私はその方向へと走った。
もう、恐《きよう》怖《ふ》も何もない。これ以上、あ《ヽ》い《ヽ》つ《ヽ》が、血を流すのを止めなければならない。
靴《くつ》の音が、公園の中に響《ひび》いた。霧の中に薄《うす》れる〈赤〉を追って、私は走った。
——フッとその赤が消えた。
足を止め、あたりをうかがう。
息が荒《あら》くなっていた。——向うも同様だろう。
目と耳に、神経を集中する。
しかし、思いがけないことが起こった。——背《はい》後《ご》に足音が近づいた。
いつの間に後ろへ回ったのか。私は振り向こうとした。駆《か》け寄って来る足音。——間に合わない!
私は身を地面に投げ出すようにした。赤いコートが広がって、私の上にかぶさって来る。私はそれを払《はら》いのけた。
ナイフを持った手が、真上に向いた。誰かの体がかぶさって来た。
ナイフの刃《は》はその体へと呑《の》み込《こ》まれていた。