追い詰められて
起き上がった私は、かぶさったまま、ぐったりしている体を横へ転がした。
小浜一美だった。
「やりましたね」
という声にハッとして振り向く。
川上刑事が立っている。
「殺したんじゃない。彼女のほうが飛びかかって来て——」
「信じますかね、それを?」
川上は、ニヤリと笑った。ゾッとするような冷ややかな笑いだった。
相変らず、礼《れい》儀《ぎ》正しいが、しかし、その底には、こっちへ突き刺さるような敵意があった。
「分ってるんだ」
と私は言った。「あんたが〈切り裂きジャック〉なんだ!」
「あなたが分っていても、誰も信じはしないでしょうね」
「——なぜだ? なぜ桜田や山口を殺した!」
「一美はずっと私の恋人だったのです」
と川上は言った。
私は唖《あ》然《ぜん》とした。
「しかし、彼女は山口課長の——」
「馬《ば》鹿《か》なことをしたものですよ。私のもとから逃《に》げようとして、山口のような、クズのような奴と……。あげくが妊《にん》娠《しん》して、山口は冷たくなった。一美は、私のところへ戻《もど》って来たのです。——山口に思い知らせてやりたい、と」
「じゃ、山口を殺すのが目的だったのか?」
「彼女は殺してくれとは言わなかった。ただ少し油を絞《しぼ》ってくれれば、というつもりだったんですよ。しかし——」
と言いかけて、川上は言葉を切った。「私はね、犯罪の話が大好きでした。特に、切り裂きジャックには憧《あこが》れに近いものを抱《いだ》いていました。——彼は、売春婦を殺すことで、社会の害悪を取り除きたかったのですよ」
「そんなことは——」
「いや、私には分ります。彼《ヽ》の《ヽ》気《ヽ》持《ヽ》がね。——あなたにも、分るでしょう。私も、いつかやってみたいと思っていました」
「あんたはどうかしてるんだ!」
「そうかもしれませんね。しかし……今の法律は万全ではない。人殺しにだって、救うに足る立派な男はいますよ。しかし、ただ女を妊娠させただけでも、殺していいような下らない奴がいる。そんな人間は、また何かやらかします。妊娠した女が自殺でもすれば、これは立派な殺人罪だ。しかし、法律上は何ら罪になりません」
川上は、淡《たん》々《たん》としゃべっている。それが恐《おそ》ろしかった。
「私は、一美の話を聞いたとき、私がやるべきことを悟《さと》ったのです。——現代のジャックとして、正義を行わなくてはならない、と……」
「人殺しが正義?」
「ともかく、桜田のことはテストケースでした。あの日、一美から、あの話を聞かされました。一美は悔《くや》し泣きをしていましたよ。——外は霧があった。私は、あの夜、やってみようと決心したのです」
「一美も承知で?」
「殺すなどとは知りませんよ。ただ、服《ふく》装《そう》や髪《かみ》を変えて、桜田を誘っただけです。だが、私が彼を殺すのを見て、一美は震《ふる》え出して、裏道から逃げてしまいました。逃げるのを私に知られまい、と靴《くつ》を脱ぎ、コートとカツラを捨《す》ててね」
「じゃ、あのとき、出て来た女は——」
「私ですよ。あなたがいることに気付きましてね。顔を見られてはまずいと思ったのです。あの辺には顔見知りが結構いますからね」
「そして、僕の後をつけた」
「そうです。——あなたのスタイルに興味を持ったのですよ。正《まさ》に、切り裂きジャックのイメージだった」
「僕の部《へ》屋《や》でナイフやコートを見付けたんだな」
「そうです」
と川上は肯《うなず》いた。「正に好都合でしたよ。これで安心して、仕《ヽ》事《ヽ》にかかれる。いつでもその罪を引き受けてくれる人間がいるわけですからね」
「それで放っておいたんだな」
「その通りです。あなたがいつやるかと興味津《しん》々《しん》でしたよ。残念ながら、見られませんでしたが。松尾のときは、もう一歩でしたが、妙《みよう》な邪《じや》魔《ま》が入った……」
「あの電話をかけて来た女は何者なんだ?」
「私は、色々な知り合いがいるんですよ。こういう商売をしていますとね。——私が言えば、黙って電話ぐらいかける女はいくらでもいます。あれは役者くずれの麻《ま》薬《やく》中毒の女でね。私が目をかけてやっているんです。何でも言うことを聞きますよ」
「麻薬?——すると、あのメグも——」
「あれもその一人です。ところが、あの女、本当にあなたに惚《ほ》れてしまった。——あなたのどこがいいんでしょうかね」
と川上は皮肉に笑った。
「そして、山口を殺した。——やっぱり私の後を尾《つ》けて、あのホテルに一美がいることを知っていたんだな」
「そうです。——一美は私のことを訴《うつた》え出ることもできません。桜田殺しの共犯ですからね。私が山口を殺すために部屋に残り、一美は逃げて行きました。しかし、逃げられやしません。しょせんは私の手の中で駆《か》け回っているだけです」
「二人がホテルから消えたのは?」
「あれは、例の麻薬組織の男たちにやらせたんです。あなたの恋人については、少々、うるさく首を突っ込みすぎました。あれだけやれば、怯《おび》えて手を引くと思ったんですが、残念ながら、なかなか強情な女でしたね」
「一美は?」
「少しヒステリックになっていました。一美もあなたに好《こう》意《い》を持っていた。だから、私のことを、いつあなたにしゃべるかもしれなかったんです。あなたでなく、一美の話となると、警《けい》察《さつ》にとっても、無視できない。一美と私の関係を知っている人間も、いますからね」
「それじゃ——」
「一美は中毒にしてやったのです。逃げ出せないようにね」
「あんたは、何という奴だ!」
私は怒《いか》りに声を震わせた。
「一美をホテルから連れ出すために、裸《はだか》にして、持って行った服を着せ、恋人同士のようなふりをして出たわけです。——むろん私ではありませんよ」
「だが、あんたの頼《たの》みでやったんだろう!」
「その代り、手入れの時間を教えて、逃がしてやっているんです。前からね。だから、頼めばたいていのことはしてくれますよ」
「メグは? なぜあんな風に僕について来たんだ?」
「あなたの部屋へ入り込んで、あなたと一緒に寝る。そして、あなたが眠《ねむ》っている間に、桜田と山口を殺したのが、あなただという証《しよう》拠《こ》品を、部屋の中へ隠《かく》して来るはずだったのです。ところが……」
川上は首を振った。「あの女はいやだと言い出した。薬から抜け出すんだ、とね。そうなれば殺すしかありませんよ」
「病院へ忍《しの》び込んで、止《とど》めを刺すなんて……むごいことをしたな」
「しゃべられては困《こま》りますからね」
「ところが、それをあの看護婦に見られてしまった」
「あれは計算違いでした」
「あの看護婦は? 殺したのか?」
「いや。——まだ見付けていません。しかし、必ず見付けて始末しますよ」
「そう巧《うま》く行くもんか!」
「どうですかね。私には自信があります」
「僕をトラックで狙《ねら》ったのは?」
「あれは、例の麻薬の連中がやったことです。一美に電話をかけさせて、あなたをおびき出し、殺す。——私のご機《き》嫌《げん》を取る気だったのですよ」
「しくじったか」
「それで良かったのです」
と、川上は、真《しん》剣《けん》な口調になって、言った。「あなたは、私の手で殺さなくては、つまりません」
「一美はどうしてここに?」
「あなたに刺される役ですよ。私が、ジャックの犯行現場を見つけて射《しや》殺《さつ》する、というわけで、被《ひ》害《がい》者が必要ですからね」
「ひどい奴だな、あんたは……」
「一つ、安心させてあげましょう。一美を殺したのはあなたではない。私です。私は、その死体をあなたの上に投げたのですよ。しかし、傷口が二つあっても、刺したのが別の人間だとは思わないでしょう」
「そうか……死んでいたのか」
私は、一美のほうへ向いた。
「さて。——そろそろけ《ヽ》り《ヽ》をつけますか」
川上が拳《けん》銃《じゆう》を取り出すのが、気配で分った。私は素早く一美の死体の上にかがみ込むと、刺さっていたナイフをつかんで、抜いた。
そして霧の中へと走った。
鋭《するど》い銃声。左《さ》腕《わん》に焼けつくような痛みがあった。しかし、私は走り続けた。
もう、川上からは見えないはずだ。
足を緩《ゆる》めて、霧の中を静かに進んだ。
追って来る川上の足音が近づいて来る。
「——どこだ! 逃げられやしないぞ」
川上は、ゆっくりと歩いて来た。
まずいことに、霧は少し晴れて来ていたのだ。
川上に飛びかかったところで、見つけられて撃《う》たれるだろう。——よほどうまく機会を狙わなくては。
「さあ……。出て来るんだ。——近くにいるのは分ってる」
川上は、立ち上がって、あたりを見回していた。——私は、左腕の痛みに、顔をしかめた。
一気に飛びかかるしかない。
しかし、勝算はなかった。向うが拳銃では、相討ちになる可能性も低かった。
風が、霧を払った。——そのとき、私がいるのと反対側で、ザザッと茂みが揺《ゆ》れた。
川上がそこへ向けて拳銃の引金を引いた。
今だ!
私は飛び出した。ナイフが真直ぐに川上の背中へ。が、向うも素早く振り向いた。
ナイフが、川上の右の腕を貫《つらぬ》いた。狙ったわけではないが、幸運だったのだ。
川上が拳銃を落として呻《うめ》いた。——そして、地面に這《は》って、呻き声を上げた。
私は、大きく息を吐《は》いた。
「——大丈夫?」
茂みから出て来たのは、さっきの少女だった。
「君か!」
「財布ごともらって、何もしないんじゃ悪いもの」
私は微《ほほ》笑《え》んだ。
「助かったよ」
「この人が、切り裂きジャックなの?」
「ああ」
「何だずいぶんトシなのね。もっと若くてカッコいいのかと思ってたのに。がっかりだわ……」
足音が近付いて来る。——一人ではない。
「君は行け。どうやら警察らしい」
「そう。じゃ、バイバイ」
と行きかけて、少女は戻って来ると、私の上《うわ》衣《ぎ》の内ポケットへ財布を戻した。
「一枚だけもらっといたわ。死んじゃだめよ。しっかりしなさい!」
私は呆《あつ》気《け》に取られて、少女の後ろ姿を見送った。——何だか、愉《ゆ》快《かい》な気分になっていた。
やって来たのは、やはり刑事たちだった。
「——川上さんだぞ。おい、救急車だ」
私は、黙って立っていた。川上を殺さなかった以上、ジャックの罪は私がかぶることになるだろう。
「おい……」
川上が、苦しげに言った。「そいつを……捕《つか》まえろ。そいつが〈切り裂きジャック〉だ!」
刑事が私のほうへやって来た。
「平田さんですな」
「そうです」
「けがしてますね」
「大したことはありません」
「救急車が来ますから。——実は、川上さんを逮《たい》捕《ほ》するために来たのです」
私は耳を疑《うたが》った。——つまり、あの麻薬グループの男たちが捕まって、川上との関係をしゃべってしまったのだということだった。
「あなたからも事情をうかがいますが、まず傷の手当ですね」
私は、何とも言うべき言葉がなかった。
「ああ、それから——」
と刑事は付け加えた。「あの病院の看護婦が、警察へ来て話してくれたんですよ。——いや、全く、尊敬する大先《せん》輩《ぱい》がね……。いやになりますよ。さあ、傷の手当を。病院へ送りますよ」