エピローグ
私の出した辞表は、あっさりと受理された。
ホッとしたような、寂《さび》しいような、妙な気分である。
会社を辞《や》めることに、特別の感《かん》慨《がい》はなかった。——次の仕事も見付けていなかったが、急ぐ気もしない。
公園での事件から、一週間たっていた。腕《うで》の傷《きず》も、大分良くなっている。
川上刑事の逮捕は大変な反《はん》響《きよう》を巻《ま》き起こした。ついに、警《けい》視《し》総《そう》監《かん》は辞任してしまったのだ。
あの一件における私の役《やく》割《わり》などは、全く知られることもなかった。警察としても、この事件は早く忘れたいだろうし、マスコミにもあまり情報を流したがらなかった。
私は、ごく当り前の会社員に戻った。
もう、切り裂きジャックのコートも、帽子も、もちろんナイフもない。
今は、総《すべ》て過去だった。川上の腕にナイフを突き立ててやった、あの一《いつ》瞬《しゆん》だけで、満足だ。
一番気の毒だったのは、小浜一美だった。——彼女のことを考えると、心が重くなる。
彼女のために、もうナイフを弄《もてあそ》ぶのはやめようと思ったのかもしれない。
妙子は、ずっと会社へ来ていない。もう辞表が出ているとも聞いた。
もういい。彼女とのことも過去だ。新しい生活が、私を待っている。
「——平田さん」
と、同じ課の女の子がやって来た。
「やあ、何だい?」
「お辞めになるんですって?」
「うん」
「いつまで?」
「今日さ」
「ずいぶん急なんですね」
「誰にも言わずに辞めようと思ったんだけどね」
「そんな……。送別会ぐらいやらせて下さいよ」
「僕の?——いいよ、いいよ。そんなことでみんなの時間を潰《つぶ》させちゃ、申し訳ないもの」
「あら、だって、ぜひやりたいんですもの、ねえ?」
いつの間にやら、他の女の子たちも五、六人集まって来ている。
私は、すっかり面食らった。
「おい、平田、いつからそんなに、もてるようになったんだ?」
と同《どう》僚《りよう》に冷やかされる。
ともかく、断るわけにもいかず、私は、その日、帰りに、近くのレストランへ引っ張って行かれた。
女の子ばかりが、自主的に集まってくれたのだ。当《とう》惑《わく》したが、ありがたいと思った。
隣《となり》の席が空《あ》いている。
「おい、誰か座《すわ》ってくれよ。——そんなに怖《こわ》がらなくてもいいじゃないか」
と笑いながら言うと、
「そこは指定席」
と、一人の子が言った。
「どういう意味だい?」
私は顔を上げて、びっくりした。
妙子が立っていたのだ。
「——さあ、妙子さん、座って」
妙子は私の隣に座った。
「どうなってるんだい?」
「あなたがいやでなければ、ここにいさせてくれる?」
「いいよ。でも——」
「お二人の前《ぜん》途《と》を祝して乾《かん》杯《ぱい》!」
と、女の子たちが、ワッと拍《はく》手《しゆ》をする。
「でも君は——」
「あの刑事に吹《ふ》き込まれたのよ。——ごめんなさいね」
「そんなことはいいけど……。僕は失業中の身だぜ」
「ちゃんと捜《さが》してあげる」
「いや、やっぱりそれは困る。僕が自分で捜すよ」
「じゃ、好《す》きにして。でも、あのマンションは買うわよ」
「君にはかなわないな」
と私は苦笑した。
「それまでどこに住むの?」
と女の子の一人が訊《き》いた。
「賃《ちん》貸《たい》のマンションよ。もう今夜から」
と、妙子が答える。
「おい、そんな話、聞いてないぜ」
「今、初めて話したんだもの」
「今日から?」
「そう。何もかも済んでるからいいのよ」
「そうはいかないよ」
「どうして?」
「どうして、って……。引っ越《こ》さなきゃ。アパートにある物を運ばなきゃいけないよ」
「もうやったわ」
私は目を白黒させた。
「もうやった?」
「今日、昼間の内に、引っ越しは完《かん》了《りよう》してるのよ」
「僕の知らない内に——」
「いいじゃないの」
と、妙子は言った。「それとも、何か秘《ひ》密《みつ》にしたいことでもあったの?」
私は少し間を置いてから言った。
「——いや、ないね。大した秘密なんて、僕にはないよ」