1 研 修
列車が、いかにも「息切れ」するような揺れ方をして、停った。
体が前のめりになり、入江はあやうく座席から落っこちそうになって、目を覚ました。ブルブルッと頭を振って、
「びっくりした!」
と、思わず口走る。
クスクス笑う声がして、顔を上げると、目の前の座席で、柴田依《より》子《こ》が笑っている。
「何だ、おい! 人が悪いな。起こしてくれりゃいいじゃないか」
と、入江は顔をしかめて、文句を言った。
「だって——」
と、柴田依子はまだ笑っている。「あんまりよく眠ってらっしゃるんですもの。起こすのも気の毒で」
「こんな固い椅《い》子《す》で、よく眠れたもんだ。我ながら感心するよ」
と、入江は座り直した。「どうして停ったんだ? 駅じゃないようだけどな」
窓の外は、ほとんど黄昏れて、木立ちの輪郭さえ定かではなくなっていたが、どう見てもプラットホームらしきものは見えない。
「単線の区間ですから」
と、柴田依子は言った。「すれ違う列車をここで待つんですわ」
「——なるほど」
と、入江は肯《うなず》いた。「単線か」
「十五分ぐらい停るんだそうです」
と、依子は、ガイドブックらしいものを取り出して見ながら言った。「呑《のん》気《き》ですね」
「全くだ。——何だ、いつの間にか、俺《おれ》たちだけか」
もともと、他には四、五人の客しかいなかったのだが、今や、その客車には、入江たち以外誰も乗っていなかった。
「大内は?」
と、入江は訊《き》いた。
「デッキに。——腰が痛くなった、って、出て行きました」
「若いくせに」
と、入江は眉《まゆ》を寄せて、「運動不足だぞ、全く。——刑事が運動不足じゃ、困ったもんだ」
「私のほうが、よっぽど運動してますわ、きっと」
と、依子は笑顔になって、「毎週、泳いでるし、ゴルフにも行くし……。でも、今度は係長も大内さんも、充分、運動の時間がありますよ」
「それもそうだな」
と、入江は笑った。「——俺も腰を伸ばして来るか」
と、立ち上る。
「どうぞ。荷物は見てますから」
と、依子は言って、どこの駅で買ったのか、女性週刊誌を広げて、読み始めた。
入江は、通路を歩いて行くと、扉を開けようとした。——扉の、白くまだらに汚れたガラス窓に、自分の姿が映っている。
ガラスそのもののように、くすんで、くたびれた姿が。
入江は、ふと思い出した。
今日は俺の誕生日だ。——五十歳。
昔なら、「人生五十年」で、もう大往生してもいい年齢《とし》だったのだ。
しかし——半分以上白くなった髪は、年齢以上に、入江を老けて見せている。
入江鉄郎という名の通り、小柄に見える体は、頑健で、何十人、何百人の犯罪者を相手に、殴り合い、取っ組み合いをくり返して来た。
刃物で刺されたことも二回ある。打ち身やかすり傷は、限りない。それでも、入江は、ほとんど休みというものを取ったことがなかった。
——そういえば、誕生日のことを、それが来る前に思い出したことなど、この何十年か、なかったのではないか。いつも、気が付くと、一つ年齢《とし》を取っていたのだ。
それほど、県警での入江の仕事は、忙しかったのである。
しかし、今は……。
ガラッと扉が向うから開いて、入江はびっくりした。
「何だ、警部、起きたんですか」
と、大内が言った。
大内栄二。二十八歳。入江がこの数年、自分の総ての経験と情熱を、伝えようとして来た、一番の部下である。
ヒョロリと長身で、いささか頼りなげな二枚目(自称であるが)だが、頭もいいし、身が軽く、射撃の腕では県警一と言われていた。
「お前がデッキに出てるっていうから……」
「寒いですよ。警部にゃ応《こた》えるんじゃないですか」
と、冷やかすように大内が言う。
「年寄り扱いするな!」
大内と入れかわりに、入江はデッキへ出た。細長い窓が開いていて、確かに、冷たい空気が吹き抜けていく。
まだ何両か車両はつながっていたが、人の姿は見えなかった。
目を覚ますのに、ちょうどいいや。——いささか負け惜しみの感もあったが、入江は、窓から顔を出した。
——静かだ。
異様な、と思うほどの静けさである。騒々しい都会の、それも盛り場を年中駆け回っていたから、そう思うのかもしれない。
世の中には、こんな所もあったのだ、ということに、入江は気付いたのだった。
少し冷えて来た。席へ戻ろうかとも思ったが、大内に冷やかされそうで、もう少し頑張っていよう、と思い直す。
それに……。そう。大内と柴田依子、二人で話したいこともあるだろう。俺のいない所で。
依子は二十七歳。大内と一つしか違わないのだが、職場では先輩だし、見たところも、ずっと落ち着いて見える。
依子は、入江にとって、かけがえのない「女房役」だ。上の機嫌をそこねた時は、適当に取りなしてくれるし、入江が説明のつけようのない出費でも、うまく処理してくれる。
入江にとっては、娘ぐらいの年齢だったが、実際には頭の上らない女房みたいな存在であった。
しかし……。
遠くから、かすかに、地を這《は》うように近付いて来る音があった。
どうやら、反対方向の列車が近付いて来るらしい。それが行ってしまうと、この列車もまたのんびり目を覚まし、動き出すのだろう。
——胸が痛んだ。
俺のせいで……。俺があの二人の「未来」を踏み潰《つぶ》してしまったのだ。
入江は、ほんのわずかの間に、すっかり暗くなってしまった外の空間へ目をやりながら、こみ上げて来る苦いものを、何度もかみしめた。
音が徐々に大きくなり、やがて、黒い塊が目の前をかけ抜けて、風を巻き起こして行った。
入江は目を閉じた。風が、叩《たた》きつけるように顔に当る。
——県警でも、凄《すご》腕《うで》として知られた入江が、そのポストを追われたのは、ある殺人事件の捜査がきっかけだった。
麻薬の売人が殺され、その事件を洗う内、浮かび上って来たのは、黒幕として、資金源になっていた、ある大物政治家だった。
県知事の親《しん》戚《せき》であり、東京の警察庁にも有力な知人を持つ、その政治家は、入江が捜査の手を伸ばそうとしていることを知って、圧力をかけて来た。
入江はもちろん、上司の勧告を一切無視して突っ走った。——そして、罠《わな》にはまってしまったのだ。
密告屋からの呼び出しに、一人で出かけて行った入江は、誰かに殴られ、発見された時には、そのポケットに、ヘロインが入れられていた。
入江の住むアパートの、戸棚の奥からもヘロインが出て来た。もちろん、入江は罠だ、と上司にかみついた。
県警の上層部は、入江に、〈特別研修〉の講師を命じた。小さな田舎町の警察署へ出向いて、そこの警官たちに、捜査の方法を教えろという……。
しかも、その期限は、「無期限」だった。つまり、停年まで、あっちの町、こっちの町と渡り歩いて、戻らせない、ということなのだ。
県警内で孤立した入江の味方は、大内と、柴田依子の二人だけで——結局、その二人にまで、「入江と同行して、補佐すること」という命令が出されたのだった。
——入江自身に悔いはない。
いや、結局こんなはめに陥ってしまったことは、悔しかったが、だからといって、圧力に負けて、捜査を打ち切っていたら、もっと悔んでいただろう。
自分のことはいい。ただ、——大内と、柴田依子のことは……。
俺《おれ》があの二人の将来を閉ざしてしまったようなものだ。そう思うと、入江の胸は痛むのだった。
扉が開いて、柴田依子が顔を出した。
「係長。——風邪引きますよ」
そうだ。いつの間にか、また列車は動き出していたのである。
「うん……」
入江は、肯《うなず》いて、「なに、目が覚めて、良かったよ」
「風邪でも引かせたら、咲江さんに私が叱《しか》られるんですからね。さ、席へ戻って下さいな」
と依子は、入江の腕をつかんで、強引に引張った。
「分った。——行くよ」
と、入江は両手を上げて見せ、「連行される側になったか」
「観念するんですね」
と、依子は、真面目くさった顔で言った。
「いや、大内と君の邪魔をしたくなかったんだ」
「それ、ジョークのつもりですか?」
と、依子は入江をにらんだ。「私にも選ぶ権利はあります」
入江は通路を歩きながら、笑い出していた。
——咲江は、入江の娘である。一人っ子で、今、東京の大学に通っている。二十一歳。
入江の妻は、咲江が中学生のころ、ガンで亡くなっていた。咲江は、家事の一切をこなして、父親の面倒を見ていたのである。
その咲江を、大学入学と同時に東京へ送り出して、入江は独り暮しになっていた。
もちろん寂しかったが、表には、そんな気配も見せなかった……。
「弁当を食べましょう」
と、大内が言った。「あと三十分で着きますよ、警部」
「警部と呼ぶのはよせ」
と、入江は席に落ちついて、言った。「小さな町で、『警部』なんて肩書きをしょって歩いたら、誰も近寄って来ない」
「じゃ、どう呼びます?」
「何でもいい。『入江さん』でもいいさ」
「感じでないなあ。——父さんも変だし」
「俺はお前の親父じゃないぞ」
「じゃ、パパは?」
と、依子がからかって言った。
「好きにしろ」
と、入江は苦笑した。
——大内と、柴田依子の二人が、何一つ不平も言わず、楽しげにしているのを見ていると、入江はますます辛くなって来る。
おそらく、半年や一年は、上層部も考えを変えるまい。しかし、せめてこの二人だけでも、再び第一線に戻れるように、話してみよう。——時機を見て、必ず。
二人には何も言っていなかったが、入江はそう決めていた。
——冷たくなった弁当を三人で食べている内に、目的地は近付いていた。
ガクン、と揺れて、列車は急にスピードを落とした。
「そろそろですね」
と、大内が立って、「やれやれ、日本も広いや」
「オーバーね」
と、依子が笑って、「さ、大内さん、重い荷物は全部持ってよ」
「おい、俺だって荷物ぐらい持てる」
と、入江が抗議した。「君の荷物を持ってやろうか」
「結構ですわ」
と、依子は言った。「女の荷物には、色々男性には見せられないものが入っておりますので」
「彼氏とか?」
と、大内が冷やかす。
——全く、と入江は思う。この二人も、奇妙なもんだ。
年齢的にも、ぴったりだと思うのだが、仲は良くても、「恋人」という関係には一向にならない。
柴田依子も、化粧っ気こそないが、美人である。ただ、いかにも有能な印象で、少々近寄りがたいのかもしれない。
まあ——みんなこれまで忙し過ぎたのだ。
凶悪犯とばっかり「お見合」していては、恋を語る気分にもなれない。
これからは、いくらでも時間がありそうだ。——大内と柴田依子も、変るかもしれない。
どっちにしろ、俺のような「老兵」の口を出すことではない。色恋の話など、一番苦手なところである。
「——着きましたわ」
と、依子が言った。
ガタン、ガタン、と二、三度大きく揺れて列車は停った。
「行こう」
と、入江はコートをはおって、スーツケースを手に、言った。
——ホームは、殺風景だった。
屋根もない。ただ、中央の、改札口の辺りが、山小屋みたいな駅舎になっているだけである。
「その内、消えるな、こんな駅」
と、大内が言った。
「係長、誰か……」
と、依子が言った。
「——俺たちを迎えに来たんじゃなさそうだ」
と、入江は言った。
ホームに、たった一人、立っていたのは、十二、三歳と思える少女だった。
「何だろう?」
と、大内が言った。
この寒い中で、その少女は、ブラウスとスカートという格好だった。
そして、停っている列車の中を覗《のぞ》き込むようにしながら、ホームを歩いている。
「——誰かを探してる、って感じね」
と、依子が言った。
「そうらしいな。しかし——」
と、入江が言いかけて、言葉を切った。
少女が、三人に目を止めて、ハッとしたように足を止めたのだ。
それから——少女は、こわごわと、一歩一歩に大変な努力を要するような足取りで、三人の方へ近付いて来た。
「何かご用?」
と、依子が声をかけたが、少女の耳には入らなかったようだ。
少女は真直ぐに、入江の方へ向って歩み寄った。——入江のすぐ前に来て、立ち止ると、まじまじと入江の顔を見つめる。
ホームの真中に、ポツンと立った電柱から、電球の光が少女の顔に当っていた。
——少女は、普通ではなかった。
髪は、もう何か月もブラシを通したことがないようにボサボサだったし、ブラウスのボタンも、二つ三つは取れてしまっている。
大きく見開いた目は、ある希望をこめて、入江を見つめているようだった。
「——お父さん」
と、少女が、呟《つぶや》くように言った。
「何だって?」
「お父さん……」
と、少女はくり返した。
すると、
「だめだよ」
と、声がして、入江たちはそっちへ顔を向けた。
ホームをやって来たのは、背広姿の初老の男で、その歩き方や姿勢には、どこか入江と似たところがあった。
「入江さんですか」
と、その男は言った。
「そうです」
「署長の水島です」
と、その男は手を差し出し、入江の手を握った。「お迎えに上りました」
「どうも。——部下の大内と、柴田君です」
入江は、チラッと少女の方を見た。
少女は、どこか物哀しい目で、入江を見つめている。
「だめだ。——この人は、お前のお父さんじゃないんだ」
と、水島が、少女に言った。「さあ、行って。早く、帰るんだ!」
強い口調で、水島が言うと、少女はびくっとしたように身を縮め、一気に、駆け出して行ってしまった。
「すみません、どうも」
と、水島は笑って、「——お荷物は?」
「これだけですから。いや、大丈夫、運びます」
「では、どうぞ。宿へご案内します」
水島は改札口の方へと歩き出した。「——小さな町です。明日になれば、一目で町のことはお分りになるでしょう」
依子が、
「今の女の子は、どうしたんですの?」
と訊《き》いた。
「ああ、気にせんで下さい。父親を捜しとるんです。——少しこっちの方がね」
と、頭を指して見せる。「退屈かもしれませんな、こんな田舎町では」
改札口には人がいない。四人とも、素通りである。
暗い、町の通りを歩いて行きながら、依子は、ふと駅の方を振り向いた。
あの少女が、四人を見送っている。そのシルエットは、なぜか依子の目を捉えて、離さなかった……。