2 第一夜
「——いい風呂だった」
と、襖《ふすま》を開けて、入江は言った。「おい、お前も入って来たら——」
部屋の中は真暗だった。
入江は、長年の習慣で、一瞬の内に、頭を低くして、身構えた。暗い部屋の中に、誰かがいる!
これは、普通の状態ではない。ここは大内と入江の部屋なのである。
もしかすると——入江たちを警察から追い出そうとした連中が、ここまで追って来たのかもしれない、という思いが、頭に浮かんだ。
「誰だ!」
と、入江が鋭く声をかけると——。
パッと明りが点《つ》いた。
入江はキョトンとして、目の前の、およそこんな田舎町の旅館に似合わないものを見つけていた。——それは、五本のローソクを立てた、バースデーケーキだった。
「誕生日、おめでとうございます」
と、依子がパチパチと拍手をした。「大内さん、ローソクに火つけて」
「よし」
大内がライターで、五本のローソクに次々に火を点けて行く。
「五十本にしようかと思ったんですけど、一度に消えないといけないので」
と、依子が言った。
「警部にショックを与えちゃいけませんからね」
「おい、よせよ……。五十にもなって、ケーキか?」
「あら、何歳になっても誕生日は誕生日ですもの」
と、依子は入江の背中を押して、「さ、一息にフーッと。——ほら、大内さん、カメラ、カメラ」
「写真まで撮るのか?」
と、入江は、情けない顔になって、「だったら、せめて背広に着替えて——」
「それで充分ですよ! 三脚は?」
「抜かりないさ」
大内は、三脚でカメラを固定し、「さ、セルフタイマーをセットするよ。——いいかい?」
シャッターボタンを押すと、ジーッと音がした。大内が急いで、入江の左側につく。
入江を、依子と大内が左右から挟んだ格好である。
ジーッという間が長過ぎて、少ししらけたが、ストロボが光り、シャッターが切れると、入江もホッと息をついた。
「やれやれ。——これを消すのか?」
「そうです。大内さん! 写真!」
大内がカメラを手に取って、構える。
仕方ない。——とてもじゃないが、咲江の奴《やつ》には見せられないな、と入江は思いつつ、フッと一気にローソクの火を吹き消した。同時にストロボが光る。
「——大内さん、写った?」
「大丈夫、僕の腕を信用しろよ」
「あなたの腕だから、心配なのよ」
と、依子は言った。
——夕食の用意もできていた。
三人は、純和風の夕食と、バースデーケーキという奇妙な取り合わせの食卓に向ったのである。
「しかし、このケーキ、どうしたんだ?」
と、入江は言った。
「係長、いくら小さな町だって、ケーキぐらい売ってますよ」
と、依子が笑って言った。「——さ、ビールでも」
「ああ……」
「柴田さんが、予《あらかじ》め、この町のパン屋の電話を調べておいて、ケーキを注文しておいたんです」
「大内さん」
と、依子が大内をつつく。
「そうか……。面倒をかけたな」
「いいえ。この程度のことで、面倒なんて言ってたら、係長の部下は勤まりません」
依子の言葉に、入江と大内は笑った。
ありがたい、と入江は思った。——もちろん、このケーキを、後で食べることを考えると、それだけで胸やけがしたが、しかし、ありがたいという気持に変りはない。
今さら入江のことに気をつかっても、何の得にもならないのだ。それなのに……。
ふと目頭が熱くなって来て、入江はあわててお茶をガブ飲みして、むせ返った。
「大丈夫ですか?」
と、依子が呆《あき》れたように、「お茶飲んで、死なないで下さいね」
「誰が死ぬか!」
と、入江は言い返した。「ともかく——」
ありがとう、と言いかけて、なまじそんなことを言わない方がいいのだ、と思い返した。
「あの——あの女の子は、妙だったな」
とっさに、言うべき言葉がなくなって、思い付きを口にした。
「警部のことを、『お父さん』と呼んでた子ですか。十二か三、ぐらいでしょうね」
「十四歳。小さく見えるけど、十四ですってよ」
「どうして知ってるんだ?」
「この旅館の人に訊《き》いたの。笠《かさ》矢《や》祥《しよう》子《こ》っていうんですって」
「柴田さんは、素早いなあ」
と、大内が笑って言った。
「気になったのよ」
「何がです? あの水島って署長も言ってたじゃありませんか。少しおかしいんだって」
「私、あの水島って人、好きになれないわ。——あの女の子を怒鳴りつけたりして」
「父親を捜してるのか」
と、入江は言った。
「もともと、少し変った人だったみたいです。——この旅館のご主人にさっき訊いたんですけど、町外れに、あの女の子と二人で住んでた男で、町の人ともほとんど付合いがなかったとか」
「ふーん。何をして暮してたんだ?」
「分りません」
と依子が言うと、入江はちょっと眉《まゆ》を寄せた。
「そりゃ妙だな」
「ね、そう思うでしょ」
大内は、わけの分らない様子で、
「何で妙なんです?」
「こんな小さな町だぞ、隣の猫が妊娠したって話も、すぐに伝わる。それなのに、男一人、何をして暮してたのか分らんというのは、妙だ」
「知ってて隠してるのかも」
「そういう様子じゃなかったわ」
と、依子は首を振った。
「——ちょっと気になるな」
と、入江は言った。
「係長さん、お食事を」
——三人とも、列車で弁当を食べていたわりには、しっかり、旅館の食事もお腹に入れてしまった。
「なかなかいい食事ですね」
「今日の分は特別のようですわ。あの水島って人が、歓迎してくれたつもりなんじゃないでしょうか」
と、依子は、入江にお茶を注いで、「係長、その笠矢という男ですけど……」
「うん。当ってみたくなるな」
と、入江は、お茶を一口飲んだ。「手配中の犯人が、身分を隠して暮してたってことも、考えられる」
「なるほど」
と、大内が肯《うなず》いた。「すると、盗んだ金で?」
「可能性さ、あくまで」
と、入江は言った。「で、どうして姿を消してしまったんだ?」
「そこまでは、訊く時間がなくて」
「——明日、あの水島ってのに訊いてみよう」
「答えてくれないかもしれませんわ。そんな気がしません?」
「うん」
入江は、ゆっくりと肯いた。
何か、疑問に思うことがあると、すぐに調べてみたくなる。これは、長年の刑事暮しから来た習慣なのだろう。
「——さて、寝るか」
と、入江は言った。「二部屋だ。おい、君らで一つ、俺《おれ》で一つにするか?」
と、わざと訊く。
「僕の方は構いませんけどね」
「大内さん、冷たい廊下で寝ることになりますよ」
入江は笑い出した。もちろん、大内と入江で一部屋、柴田依子が一部屋、ということになったのは、言うまでもない……。
コトン。——コトン。
依子は、ふと目を覚ました。
何の音だろう? 枕もとの弱いスタンドの光で、時計を見ると、夜中の一時を少し回っている。
コトン。——窓の方だ。
二階の部屋である。窓の外に誰かいるわけもないが。
コトン。——石だ。
誰かが、窓に向って、石を投げている。
依子は、布団から出ると、そっと窓へ這《は》い寄って、カーテンを少し開けてみた。
暗い庭に、ぼんやり白い物が——。
よく見ると、人間だということが分る。
カーテンが開いたことに気付いたのか、もう石は飛んでこなかった。
あれは……。もしかすると……。
依子は、カーテンを大きく開け、部屋の明りをつけた。
窓から洩《も》れた光が、下の庭に投げかける白い一角に、その人影が移動した。——やっぱり!
あの少女——笠矢祥子だ。じっと、窓の方を見上げている。
依子は、少し迷ったが、少女がこっちを見ているのが分ると、手で、そこにいろ、と合図をした。
少女が首を振る。指で窓の方を指さした。開けろ、と言っているようだ。
確かに、こんな時間に外へ出て行けば、旅館の人が気付くだろう。
依子は、窓を開けた。——凍るような冷気が流れ込んで来る。
少女が、窓の方へと進み出て来た。そして、何か白い物が飛んで来た。
依子が、あわてて頭を下げると、ヒュッと耳もとをかすめて、それは部屋の中へ飛び込んで来た。
もう一度下を見ると、あの少女が、闇の奥へと、逃げるように駆け込んで行くところだった。
——依子は窓を閉めた。
小石を紙でくるんでいる。——手紙である。
依子は、それを開いた。
〈ぜひお話ししたいんです! 地蔵の谷へ来て!〉
少女らしい、丸っこい字だが、「頭のおかしな子」の書くものではない。
「やっぱりね……」
と、依子は呟《つぶや》いた。
あの駅から町へ入る三人を見送っていた少女の様子に、何か必死で訴えかけるようなものを感じていたのである。
笠矢祥子。——あの少女は、何か、わけがあって、「おかしくなった」ふりをしてるのだ。
どんなわけなのか。それはもちろん、見当もつかなかったが。
依子は、その手紙を、ていねいにたたむと、財布の中へしまって、明りを消し、布団へ入った。——すっかり、体が冷えてしまっている。
ほとんど頭まで布団をかぶって、目をつぶっていると、やっと依子は眠りに落ちていった……。
ガタッ、と廊下の側の襖《ふすま》が音をたてて、依子は目を開けた。
寝入ったところで、まだ体の方は完全に眠ってしまっていなかったのだろう。
襖が開く。——誰だろう?
誰かが入って来たのが、気配で分る。
泥棒?——こんな所に、泥棒が?
依子も、一通り、護身術などは身につけている。布団の中で身構えていると……。
布団をはごうとする手を、依子はパッとつかんだ。
「ヤアッ!」
かけ声と共にはね起きて、相手の腕をねじると、
「いてて!」
と、呻《うめ》いて、引っくり返ったのは——。
「大内さん!」
「おい——やめてくれ!」
と、大内は悲鳴を上げている。
依子は手を離した。
「何しに来たの?」
と、依子は腕組みをして、大内をにらみつけた。「係長がああ言ったからって——」
「違うよ!」
大内は、フウッと息をついて、「——トイレに起きて……。寝ぼけてたんだ。てっきりここが僕の部屋だと思って」
「怪しいもんだわ」
「本当だ! 誓うよ」
と、大内は大げさに、胸に手を当てて、言った。
依子は肩をすくめて、
「ま、いいわ。一度だけは信じましょ。その代り、二度やったら……」
「もうやらないよ!」
「その方が、身のためね」
と、依子は言って、「——せっかく来たんだから、話があるの」
「話? お説教かい、また?」
「失礼ね。いつ私がお説教したのよ」
と、依子は顔をしかめた。
「さっき」
「あれは、優しい忠告。お説教じゃありません」
「まあ、そうかな……」
「ね、聞いて」
依子は、チラッと隣の部屋の方へ目をやって、「係長、今度のことで、とてもガックリ来てるわ」
「当然だよ」
「でもね、それ以上に、私たちのことを気にしてるの」
「僕たちのこと?」
「そう。自分のせいで、私たちまで、こうして左遷ってことになったから。——悩んでるのよ」
「こっちは勝手に警部について来たんじゃないか。別に、警部の責任じゃない」
「私だってそうよ。でも、係長、私たちにすまないと思ってるわ。私には、よく分るの」
「なるほど」
「だから、係長の気が紛れるように、何か面白い謎にぶつかって行く必要があるわ。分る?」
「うん」
と、大内は肯《うなず》いた。「何といっても、捜査してる時が、あの人は一番元気がいいからな」
「そうよ。——これを見て」
と、依子は、さっき、あの少女が投げて寄こした手紙を見せてやった。
「——すると、あの女の子、あんな風に装ってるだけなのか」
「そう! どう? 面白そうでしょ」
「なるほど」
と、大内は手紙を眺めて、「〈地蔵の谷〉ね。何となく、わけありじゃないか」
「だからね、この事件を第一の目標にするのよ」
と、依子は熱心に言った。「もちろん、調べてみりゃ、どうってことないのかもしれないわ。父親は、ただ女ができて行っちゃっただけなのかも。——でも、ともかく差し当り、係長の興味はひくと思うのよ」
「そうだな。——じゃ、我ら、特別捜査隊の初仕事ってことにするか」
「なかなか、いい勘してるじゃない」
「そりゃね」
と、大内はとぼけて、「何しろ、しつけが行き届いてるからね、誰かさんの」
「失礼ね」
と、笑いながら言って、依子は、「じゃ、おやすみなさい、心強き同志さん」
と、丁重に、大内を部屋から送り出したのだった。
そして——朝まで、もう依子の眠りは邪魔されることはなかった……。