3 地蔵の谷
「地蔵の谷?」
と、水島署長は、昼食の弁当を食べる手を止めて、「——ええ、ありますよ。しかし、どうしてご存知なんです?」
「旅館の人に聞いて。——私、旅に出ると、よくお地蔵様の写真をとるんです」
と、依子は言った。
「なるほど」
水島は肯いて、「しかし、期待なさってると、がっかりしますよ。ポツリポツリとあるだけで、大したもんじゃありませんからね」
「いいんです。どうせ時間もありますから。どの辺なんですの?」
「町の外れで……。うちの巡査を一人、案内につけましょう」
「とんでもない! 大体教えて下されば、一人で参りますから」
「そうですか」
水島は、メモ用紙に、簡単な地図をかいて、「——これで、たぶんお分りになると思いますよ」
と、差し出した。
「すみません。明日にでも、行ってみますわ」
と、依子は、微笑《ほほえ》んで、言った。
——研修は、至って退屈なものだった。
教える入江の方に、大体熱が入っていないのだから、面白いわけがない。
聞いている、十人ほどの署員も、眠気をこらえるのに苦労している様子だった。
しかし、まあそれは当然のことで、事件の捜査などというものは、現実に事件にぶつかってみないと、教えようがないものなのである。
入江たちは、署の食堂で、用意してくれていた弁当を食べていた。
「——署長、お電話です」
「そうか、では、ちょっと失礼」
水島が行ってしまうと、入江たちはホッと息をついた。
「やれやれ」
と、入江は首を振って、「一日を一か月にも感じるよ」
「初日としては、悪くなかったですよ」
と、大内は言った。
「馬鹿言え。しゃべってる俺《おれ》の方が恥ずかしくて逃げ出したくなったぞ」
と、入江は言った。
「しょうがないですわ、係長。話すのが仕事じゃないんですから」
「そうだな」
と、入江は肯いて、「しかし、こんなことをいつまでも続けてたら、気が狂っちまうぞ、全く」
入江は行動の人間なのだ。研修の講師などには最もふさわしくない性格なのである。
「——午後はどうします」
と、大内は言った。
「俺は、旅館に戻って寝る」
と、入江は即座に言った。
すると、水島署長が急ぎ足で戻って来た。
「恐れ入りますが、入江警部」
「何です?」
と、仏頂面で訊《き》く。
「実は今、この町の郵便局に泥棒が入ったという知らせで。——ちょうどいい機会ですし、実地に、ご指導いただけませんかな」
と、水島が言うと、入江と大内は顔を見合わせた。
「そっちは専門ではないんですが……。結構です。やりましょう」
と、入江は立ち上って、「おい、大内、行くぞ」
「はい」
大内は、あわててお茶を一口飲んで、立ち上った。
「気を付けて」
と、依子が大内に、手を上げて見せる。
食堂を出ながら、入江が、
「で、被害は?」
と、水島に訊いてるのが聞こえて来て、依子は微笑んだ。
実際の犯罪に出くわせば、たちまち元気になってしまうのが、入江なのだ。
大内もついているし、入江の方は大丈夫だろう。
依子は、ゆっくりお茶を飲み干すと、席を立った。
食堂で働いている、近所の奥さんらしい人を捕まえて、
「すみません」
と、依子は、さっき水島のかいたメモを見せた。「地蔵の谷って、この通りですか、場所?」
その女性は、メモを眺めて、
「——ここんとこ、右じゃなくて左へ行くんですよ。間違ってるわ、この地図」
「そうですか」
「ま、右へ行っても、地蔵さんは二つ三つありますよ。でも、地蔵の谷ってのは、左の方です」
「ありがとう」
——依子は、署の古い建物を出た。
郵便局に入った泥棒、というのも、この町では大事件らしい。
依子は、町の短い通りを歩いて行った。
水島は、わざと間違った地図をかいたのだろう。——ここに長く住んでいる人間が、右と左を間違えるわけがない。
なぜか、水島は、地蔵の谷に、依子を行かせたくなかったのだ。
ゆうべ、大内に話した通り、これも何でもないことなのかもしれない。しかし、水島の奇妙な態度を考えると、本当に何か隠された事情があるのかもしれない、と思えて来た。
その笠矢という男が、もし逃亡犯か何かだったら? 水島がなぜそれを隠すのだろうか。
ともかく、地蔵の谷へ行ってみることだ。あの少女が、待っているかもしれない。
依子は少し足を早めて、さりげなく、後ろを見た。
大丈夫。尾《つ》けられていない。
——山《やま》間《あい》の町は、風が冷たかった。
確かに、そこは〈地蔵の谷〉としか、名付けようのない場所だった。
——何百体あるだろう?
谷の両側の斜面に、大小の地蔵が立ち並んでいるさまは、圧倒されるような光景だった。
「——凄《すご》い」
と、依子は思わず呟《つぶや》いた。
カメラを持って来るんだったわ、と思った。
しかし、なぜこの場所を、水島は隠そうとしたのだろう?
谷の底に細く続く道を、依子は歩いて行った。
もちろん、谷といっても、そんなに大きなものではない。深さはせいぜい十メートルぐらいのものだろう。
以前はきっと川が流れていたと思える道だった。小さな、丸い石が多くて、歩きにくい。
あの少女——笠矢祥子は、どこにいるのだろう?
あの手紙は、時間を指定してはいなかったが、夜中に、外から来た人間がここへ来られるわけもなし、おそらく、少女はこれぐらいの時間を、考えていたはずである。
それにしても——この沢山の地蔵は何なのか?
それは、ちょっと見たところでは、まるで墓石が並んでいるかのようで、あまり気持のいい眺めとは言えなかった。
パラパラと……、小石が落ちて来た。
誰かいるのかしら?
依子はそっちへ顔を向けて——目をみはった。
岩が——ひとかかえもある岩が、転がり落ちて来る。しかも、真直ぐ、依子の方へ向って。
立ちすくんでいた依子は、駆け出した。よけられると思った。充分に、タイミングとしては、間に合うはずだ。
だが、丸い石だらけの道を駆けるのは、容易ではなかった。
アッ、と思った時には、足が滑って、転んでいた。——岩が、向って来る!
体を起こすのが、やっとだった。
間に合わない、と思った。——ほんの一秒くらいのものだったろうか、依子は、覚悟した。
しかし——岩は、自分のいびつな形のせいか、それとも、地形の凹凸のせいか、急に向きが変って、依子から二メートルほどの所に落ちて来て、小石をはね飛ばし、止った。
——依子は、息を吐き出した。
今のは、何だろう?
立ち上って、依子は、何度も息をついた。
落ちてきた岩を、そばで見ると、ゾッとした。もし、これがまともに当っていたら……。
たぶん、命はなかっただろう。
偶然落ちて来たとは、とても思えなかった。
ということは……。
石を踏む音がして、依子はギョッとして振り向いた。
あの少女——笠矢祥子が立っていた。
「あなた——」
と、依子が言いかけると、少女はクルッと背を向け、さっさと歩いて行く。
依子は、それについて歩き出した。
もし、今の岩を落とした人間が、上からこの様子を見ていたとしたら、ここで少女と話をしない方が利口である。
少女は、谷を抜けて、林の中へと分け入って行った。
枝に顔をぶつけないように用心しながら、少女について行く。足首を少しねじったので痛みはあったが、今は緊張しているせいか、ほとんど感じない。
道ともいえない道を辿《たど》って、十分ほど行くと、少女は、振り向いた。
「警察の人ね」
と、少女は言った。
その目は、昨日、プラットホームで見た、あのどこか哀しげな、うつろな目ではなかった。
「ええ」
と、依子は肯《うなず》いた。「県警の、柴田依子よ。入江警部って人の部下なの」
「ゆうべ会った人?」
「そう。——あなたが、『お父さん』って呼びかけた人」
少女は、ちょっと照れたように目を伏せると、
「ごめんなさい。びっくりさせちゃって」
と、言った。
「いいえ。また会いたいと思ってたのよ。嬉《うれ》しいわ」
「本当?」
「笠矢さんというのね」
少女は名前を知っていてくれたのが嬉しいらしく、笑顔になって、
「来て」
と、また歩き出した。
道は、入りくんでいた。とても一度では憶《おぼ》えきれそうにない。
「ちゃんと帰りは送るわ」
と、少女は依子の心配を見抜いたように言った。
「どこへ行くの?」
「私の家」
と言って、「お父さんの家よ、もちろん」
と、付け加える。
——目の前に、急に、木造の一軒家が現われて、依子はびっくりした。
二階建で、家族四、五人なら充分に住めそうな大きさに見える。
「ここがあなたの家?」
と、依子は訊《き》いた。
「ええ」
と、少女は言って、「入って。——私のこと、祥子と呼んでいいわ」
大分古い家だわ、と依子は思った。
もちろん、ずっと前からここにあったのを改装して……。
しかし、玄関から入って、依子はびっくりした。外見は古びて見えるが、中はまるで、建ったばかりのように真新しいのだ。
「どうぞ」
と、少女は上って、言った。
「失礼します」
と、つい依子は言っていた。
居間は広々として、ソファや家具も、立派なものだった。
依子は、呆《あつ》気《け》にとられて、居間の中を見回していた。——かなりいい暮しの家庭の居間である。
飾り棚の上に、写真立てがあった。
男と、あの祥子がうつっている。——これが父親なのだろう。
二、三年前のものらしい、と依子は見当をつけた。
男は、あの少女に面影をのこしている。なかなかの好男子で、洒落たツイードを着こなしていた。
一見して、学者というか、研究者タイプだと思った。サラリーマンには見えない。それとも医者か。
「——かけて下さい」
祥子の声に振り向いて、依子はまたびっくりすることになった。
祥子が、セーターにスカート、髪もきちんととかして、いかにも上品な娘になって入ってきたからである。
「——どうぞ」
と、紅茶の盆をテーブルに置く。
「ありがとう」
依子は、ソファに腰をおろした。「あなた、いつもブラウス一つなの、あの町の中では」
「ちゃんと、下に暖かい肌着を着てます」
と、祥子はいたずらっぽく笑った。
「そう。——風邪引かないのかな、と思ってたのよ」
「頭が変になったから、風邪も引かない、と思われてるんです。——面白いですね。一《いつ》旦《たん》そう思いこむと、みんなそう信じて、私が下に何か着てるんじゃないか、とか考えないんですもん」
なかなかしっかりした少女である。
「さっき、岩が落ちて来たわ」
「ええ。でも、途中、出張りのある所へ落ちたんで、大丈夫、と思って、駆けつけなかったんです」
「じゃ——初めから、それると?」
「ええ、きっと、落とした人間も、分ってたと思います」
依子は、ゆっくりと紅茶を飲んだ。
「——不思議な家ね、ここは」
「ええ。お父さんも、ここを魔法の家、と呼んでました」
「お父さんがいなくなったって……」
「そうなんです」
と、祥子は言った。「誰かに助けてもらいたくて、ずっと待ってました。警察の人が話してるのを聞いて……。県警の人が三人、やって来るって」
「じゃ、昨日は分ってて駅に?」
「そうです。何とかして、私のことに注意を向けてほしかったんです」
——奇妙なことだ。
こんな余裕のある生活をしながら、なぜこの少女は、あんな格好をして、町を歩いているのだろう?
「話を聞いてもらえますか」
と、祥子が訊いた。
「そのために来たのよ」
と、依子は言って微笑んだ。「話してちょうだい」
祥子は、立ち上ると、居間を出て行き、少しして、一冊の本のようなものを手に戻って来た。
「これ、お父さんの日記帳なんです」
と、祥子は、テーブルに置いた。
「お父さんは、何をなさってたの?」
「知りません」
と、祥子は首を振った。「——話してくれたこともなかったんです」
「でも——どんな関係の仕事とか……」
祥子は、日記帳のページをめくると、
「元は、お父さん、研究所に勤めていたんです」
と、話し始めた……。