5 読めない日記
「おい、おかわり」
と、入江が空の茶《ちや》碗《わん》を差し出す。
柴田依子は呆れて、
「係長、大丈夫なんですか? もうご飯、四杯目ですよ」
「もうないのか?」
「ありますけど……」
「じゃ、入れてくれ」
と、入江は言った。
旅館での夕食。——入江の食欲は、依子や大内の目をみはらせるものがあった。
「警部は、本当に事件があると人が変ったみたいに、元気になるんだから」
と、大内は笑って言った。
まあ、入江としては否定もできない。
人が死んだのだから、あんまり嬉《うれ》しがるべきことではないのだが。
「確かに自殺なんですか、その女の人?」
と依子が訊くと、大内が、
「だめだよ、ますます嬉しがらせるようなことを訊いちゃあ」
と、からかった。
「そこだ」
入江は、ご飯を一杯によそった茶碗を受け取りながら、「あの郵便局の娘の話じゃ、一人暮しとはいえ、とても明るくて元気な人で、とても自殺するなんて思えないというんだ」
「詳しい検死は——」
「どうかな。県警まで乗り出しちゃ来ないだろう」
と、大内は言った。「どう思います?」
「同感だな」
と、入江は言って肯いた。「あの水島ってのは、ともかく厄介事になってほしくない、とだけ願ってる。わざわざ、事を荒立てるようなことはしないさ」
「じゃ、殺人かもしれない、と?」
「分らん」
と、入江は首を振った。「しかし、詳しく調べれば、何か出て来るだろう。それだけは確かだ」
「妙ですね。大内さんの話だと、水島さんは何かを隠そうとしてる」
「うん。——あの笠矢という男のことに、触れてほしくないんじゃないのかな」
「あの書留は、どういうことでしょうね」
「永井かね子って名で、この町の二十人近い人たちあてに……。中身がいくらか知りませんけど、ちょっと普通じゃ、考えられないことですわね」
「この、永井かね子って人物を当ると、面白いことが分るかもしれない」
と、入江は言った。
「誰かにやらせますか」
と、大内が言った。
「誰に? 県警の人じゃまずいわ」
「東京か……」
ふと入江が思い付いたように、「そうか。咲江の奴《やつ》がいる」
「咲江さん?」
「もちろん、調べるったって、大したことはできないだろうが。少なくとも、この女が実在の人物かどうかは分る」
「そうですね、でも——」
「何だ?」
「危険はないでしょうか。もし、この出来事の裏に、何か隠されているとしたら」
大内が面喰らったように、
「隠されてるって、何が? まさか、世界的な陰謀が?」
「そんなにオーバーじゃなくても……」
と、依子は苦笑して、「でも、これを見て下さい」
依子が、バッグから取り出したのは——。
「日記帳か?」
「ええ。笠矢光夫。あの女の子の、行方不明になっている父親が置いて行った日記帳なんです」
当惑する入江と大内に、依子は今日の午後の、笠矢祥子との出会いを話してやった。
「——驚いたな」
と、入江は言った。「するとあの子は、おかしくなったふりをしてただけなのか」
「でも、どうしてそんな妙な所に家を建てたんでしょうね」
と、大内が言った。「土地が安かったのかな」
「まさか」
と、依子は笑った。「人目をさけて生活する必要があったんですよ」
「なぜ?」
「分りません。あの女の子も、父から、その点は聞かされていないんです」
「なるほど」
大内が肯《うなず》いて、「すると、この日記帳に、何か秘密が——」
と、めくって見て、目をパチクリさせた。
「何です、これ?」
「見せろ。暗号か?」
受け取って見た入江は、「——何語だ? ドイツ語じゃないな。フランス語……でもないか」
「ラテン語だと思いますわ」
「何だって?」
「ラテン語。——私も、分るわけじゃありませんけど、たぶん間違いないと思います」
「ラテン語ね」
と、大内は首を振って、「そんなものがあるってことは知ってるけど」
「つまり笠矢光夫は、かなり教養のある人間だってことです」
と、依子は言った。「今、よほど何か特別の必要がない限り、ラテン語を勉強することはないでしょう」
「その娘は、中身がどんなものか、知らないのか?」
「ええ。ただ、あの子の話では、父親は政府関係の研究所に勤めていたんだそうです」
「政府の?」
「父親がそう言っていた、と。——でも、どんなことを研究しているのか、教えてくれなかったということでした」
「ふーん」
入江は考え込んだ。「しかし、その研究者が、なぜこんな所に?」
「ある日、突然だったそうです」
と、依子は言った。
激しく玄関のドアを叩《たた》く音がした。
笠矢祥子は、ぐっすり眠っていたが、その音で飛び起きてしまった。
何事かしら?——祥子は、ベッドに起き上ったまま、じっとしていた。
もちろん、お父さんがいる。大丈夫。何が来たって大丈夫……。
祥子は、自分へそう言い聞かせていた。
ドアが開くと、父が顔を出した。
「お父さん。——何?」
「心配するな。ここにいなさい」
父親の声は、落ちついていた。
祥子は少しホッとしたが、それでも心配しない、というわけにはいかなかった。
何しろ、玄関ではまだドアをドンドン叩いていたのだから。
父は、祥子の部屋のドアを少し開けて行った。祥子は、ベッドから出ると、そっと廊下を覗《のぞ》いた。
父が階段を下りて行く。——祥子は、階段の下り口まで行って、下の様子をうかがった。
「——何だね」
と、父の声が聞こえて来る。
「笠矢光夫さんですね」
と、相手の声。
しゃべり方は、まるで警官か何かのようだった。
「これをお読み下さい」
——少し間があった。父が手紙のようなものを読んでいるらしい。
「分った」
と、父が言った。「娘と二人だが」
「承知しております」
と、相手が言った。
「支度する。十分ほど待ってくれ」
「分りました」
父が上って来る。——祥子が不安げに立っているのを見て、
「大丈夫だよ」
と、肯く。
「誰?」
「うん。役所の人だ」
「役所の?」
「すぐ出かける。——必要なものだけ持つんだよ」
「出かける?」
祥子はびっくりした。「どこに行くの?」
「それは分らない。——さあ、急いで、時間がない」
祥子は、わけが分らなかった。こんな夜中に、しかも突然、どこへ行こうというんだろう?
でも——父はもう自分の物をボストンバッグに詰め始めていた。仕方なしに、祥子も、部屋へ戻って、明りをつけた。
まず、着替え。そして、バッグを引張り出す。
必要な物といっても——どんな物だろう?
迷っていると、
「どうした?」
と、父が顔を出す。
「お父さん、勉強道具とかは?」
「うん。入れておけ」
「分った」
——祥子はあわてて、ノートだの教科書、ラジオカセット、好きな歌手のテープなんかを、バッグへ詰めた。
「——着る物は?」
「そうだな。気に入ってる服だけ」
「何日ぐらい、出かけてるの?」
「分らない。当分、だな」
祥子は、びっくりした。
「でも——学校は?」
「後で考える。さ、行くぞ」
「待って! あのぬいぐるみ!」
祥子は、いつもベッドの枕の所に置いているテディベアをバッグへ入れた。それが最後だった。
玄関へ行くと、
「急いで下さい」
と、その男が言った。
兵隊だ!——祥子はギクリとした。
外へ出て、もっと驚いた。
自衛隊のジープが停っている。その周囲を、銃を手にした隊員が、十人近くも、囲んでいた。
「お父さん……」
祥子は、父にすがりついた。
「怖がることはないよ。危害を加えたりしない」
父は、微笑んでいた。
二人はジープに乗り込んだ。——すぐにジープは走り出した。
重苦しい無言のドライブが、三十分ほど続いただろうか。急に、ジープは停った。
「降りて下さい」
と、声がかかった。
外へ出ると、そこは林の中だった。ポカッと空いた、空地。
直径十メートルくらいの、白い円が地面にかかれていて、その線の上にライトが上を向いて並べてあった。
「お父さん……」
と、祥子は言った。
「何だ?」
「私たち——収容所に入れられるの?」
祥子は、TVでナチスドイツが、ユダヤ人を収容所へ送り込む場面を見たことがあったのだ。
「そんなことじゃない。大丈夫だよ」
父は、祥子の肩を抱いて、言った。
低い唸《うな》りが聞こえて来た。——まるでTVか映画のワンシーンのようだ。
ヘリコプターが、二人のいる空地へと、近付いて来たのだった。
凄《すご》い風が巻き起こって、祥子は目をつぶっていた。
「行くぞ」
父が大声で言った。ヘリコプターのローターの音で、声はかき消されそうだった。
二人が乗り込むと、ヘリコプターはすぐにフワリと浮き上った。
「——ベルトだ」
父が、ベルトをしめてくれる。
どんどん上昇して、ヘリコプターはやがて一揺れして、真直ぐに飛び始めた。
夜の町の灯が、はるか下に見える。
祥子は、自分の運命の不安とは別に、この初めての飛行を、楽しむこともできた。
「どこへ行くの?」
と、祥子は、また父に訊《き》いた。
「遠くだ。——仕事なんだよ」
と、父は言って、祥子の頭を、軽く撫でてやった。
「仕事……」
「そうだ。すまないな」
「いいけど……」
と、祥子は言った。
「何だい?」
「ヘリコプターって、トイレはないんだよね?」
と、祥子は訊いていた。
「——自衛隊のヘリでね」
と、大内が言った。「そりゃただごとじゃないな」
「見当もつかん」
と、入江は首を振った。
「そして着いたのが、この向うの山の辺りだったようです」
と、依子は言った。「そこに車が待っていて、あの家へ二人を運んで行ったということですわ」
「なるほど。——で、その家は……」
「どう見ても、二人のために、新しく建てたものです」
と、依子は言った。「あの子も、夢かと思った、と言っていました。着いてみると、前の家で、自分が使っていたのとそっくりなベッドがあり、机も、ほとんど同じもの。同じぬいぐるみまで置いてあったそうです」
「どういうことだろう?」
「そこで二人は生活を始めました。そして——もう一年以上にもなるんです」
「ふむ……」
「ところが、父親が突然消えてしまった、というわけか」
と、大内が肯《うなず》く。「こりゃ、かなり裏の深い事件ですね」
「今日は、あまり時間がなくて、それ以上の詳しいことは聞けませんでした。でも、あの子の話は、嘘《うそ》とは思えません」
依子はそう言った。——入江も、同感だった。
「しかし……」
と、大内が首を振って、「こいつは、どうも、我々のような刑事が、口を出せる事件じゃないですね。何かこう、政治がらみの……」
「俺《おれ》たちには、そんなことは関係ない」
と、入江が言った。「しかし、郵便局の女が首を吊《つ》ったことと、何かつながりがあれば、それが国家の重要機密だろうが、口出ししなきゃならん」
入江らしい言い方に、依子は微笑んだ。
「——じゃ、どうします、係長?」
と、依子は言った。「この日記帳は?」
「そうだな」
入江は腕組みして考え込んだ……。