6 本の虫
「ねえ、京子」
と、入江咲江は言った。
「何よ?」
昼休みの学生食堂。——居眠りしていた川田京子は、トロンとした目で、咲江を見上げた。
「何よ。——咲江か、邪魔しないで。今、いい夢を見てるんだから」
「悪いわね。でも、こっちも用事なの」
と、咲江は笑って、「男のこと」
「——男? 男って言ったの?」
パチッと目がさめて、「咲江もついに、男ができたか!」
「よしてよ、大声で」
と、咲江はあわてて言った。「そんなんじゃないの」
「じゃ、何よ?」
——入江咲江は大学の三年生。同じ三年の京子とは、至って仲がいい。
「座っていい?」
「うん。男がいないならどうぞ」
咲江は笑って、
「好きねえ、全く」
「咲江の方が変ってんのよ」
と、京子が言い返す。「それで何なのよ?」
「うん。——ねえ、ラテン語の分る男の子、いたでしょ」
「ラテン語?」
京子は目を丸くして、「ラテン音楽なら分るけど」
「そうじゃなくて。——ほら、いつか、ゼミのコンパで、言ってたじゃない、世の中にゃ、変ったのがいる、って」
「ああ」
と、京子は思い出した様子で、「あの変人か」
「何て名前だっけ。憶《おぼ》えてる?」
「忘れた」
「何よ。あてにして来たんだから」
と、咲江は言った。
「だけどさ。咲江、なんで、そんな奴《やつ》を捜してるわけ?」
「ちょっとね。ラテン語の文を読んでほしいの」
「へぇ。ラテン語のラブレターでももらったの?」
「まさか」
と、咲江は笑った。「ね、思いだしてよ。——京子」
「分った、分った」
欠伸《あくび》をして、京子は立ち上った。「——じゃ、行こう」
「どこへ?」
「そのラテン語の先生のとこへ」
二人は学食を出て、明るい陽射しの下を歩いて行った。
東京といっても、郊外にあるこのキャンパスは、ゆったりと広く作られている。
「——おい、京子! 今夜、パーティ、付合えよ」
と男の子が声をかける。
「先約があるの。またね」
と京子が、手を振って答える。
川田京子は、美人というわけではない。しかしどことなく目立つし、派手なムードがあって、男の子にやたらもてる。
京子のほうも、「デートが趣味」と言っているくらいで、ほとんど毎週、週末は、誰かと出歩いている。
入江咲江は、京子のちょうど裏返しである、と思えばいい。
すべて地味。——顔立ちは、むしろ京子より整っているのに、何となく「華がない」。
まあ、母を亡くして、父親は警官。お金がないせいもあって、服装も地味だから、どうしても、パッとしない。
しかし、「若さ」だけは、溢《あふ》れるほど、持っているのだった。
咲江は、学生アパートで暮している。親の仕送りは一切なし。
すべて、家庭教師と、あれこれ臨時のアルバイトでやっているのだ。
京子は、家が医者で、車だって買ってもらっている。——どうして、この二人が友達同士なのか、誰しも、首をかしげている。
しかも、別にどっちが上、というわけでもなくて、お互い、サラッとした付合いをしているのだった。
「——でもさ、どうして急にラテン語なんか?」
と京子が歩きながら言った。
「ちょっとね。人に頼まれて」
「へぇ。今どきね。——咲江も、たまにはデートぐらいしなさいよ。今度の週末、どう? 誰か、おとなしい子を用意するわよ」
「だめ」
「どうして?」
「ホールの案内嬢のアルバイト」
「また!——じゃ、こうしよ。うちのパーティで、コンパニオン、やって。バイト料払う。どう?」
「いけないわ。私は自分に向いたアルバイトしかやらないの」
「それで三十、四十、と年齢《とし》とっていくつもり?」
「気が早いのねえ」
と、咲江は笑って、「私はまだ二十一歳なのよ」
「十年なんてすぐたつわ」
と京子は言った。
「それより、どこに行くの?」
「そのラテン語屋さんを捜すんじゃないの」
「どこを?」
「図書館。——名前は忘れたけど、確か年中、ここに入りびたっているはず」
「なるほどね」
と咲江は肯《うなず》いた。「さすがは京子!」
図書館へ入りながら、
「久しぶりだなあ」
と、京子は言った。「まだ存在してたんだ!」
咲江は吹き出してしまった。
——二人は、広くて静かな、かつ古くさい匂《にお》いのする書棚の間を、ゆっくりと歩いて行った。
「どの辺にいるもんなのかしら、ラテン虫ってのは」
「西洋古典でしょうね」
「古典か。条件反射ね。眠くなる!」
と、京子は言った。
二人は足を止めた。——京子が、
「あれと違う?」
何だか、明治か大正のころのモノクロ写真から抜け出して来たような、頭がボサボサで、丸ぶちメガネの男が、分厚い本を開いていた。
着ているカーディガンが……元カーディガン、としか言えない古さ。
「あの人、呼吸してる?」
と、京子が言った。「ミイラかもしれないわよ」
「そうね」
咲江ですら、呆《あつ》気《け》にとられる凄さだったのだ!
咲江は、ちょっと咳払いをして、近付いて行った。すると、その男がジロッと咲江を見て、
「静かに」
と、言った。
「え?」
「静かにして下さい」
「す、すみません……」
咲江は、ちょっと出鼻をくじかれてしまった。
京子が、ニヤニヤしながら、眺めている。
「あの——私、入江咲江というんですけど……」
その男は、じっと本のページを眺めているだけ。
「ちょっと——あなたにお願いがあって」
と、咲江は言った。「今、お邪魔かしらね?」
「もう邪魔してます」
と、その男は言って、「——でも、用なら聞きます」
と、本を閉じた。
「どうも。入江咲江です」
「はあ」
「あなた……。三年生ですよね」
「ええ」
「じゃ、同じだわ。よろしく」
「はあ」
「あの——お名前は?」
「僕ですか?」
「他の人の名前、訊いても仕方ないでしょ」
「そうですね」
と、その男は真顔で肯いた。「僕は松本です」
「松本さん。よろしく」
と、咲江はくり返した。「あの——友だちの川田京子」
「ああ、見たことあるな」
「へえ!」
と、京子が大げさに、「あなたも女の子を見ることあるんだ」
「京子!——ね、松本さん。あなた、ラテン語が分るんでしょ」
「ええ。まあ、ラテン語で早口ことばを言え、と言われたら、ちょっと無理ですけどね」
何だか見かけよりは面白い男のようだった。
「あなたに、読んでもらいたいものがあるのよ」
「ラテン語?」
「ええ。——お願いできる?」
「古文書ですか」
「いいえ。新しく書いたもの」
「ラテン語で?」
「そう。読んで、翻訳してほしいの」
「そうですか」
と、松本は肯いた。「いいですよ」
「良かった! 助かるわ」
「いくらです?」
「——え?」
「一ページ当り、どれくらいの分量かな。見てから、見積りを出します」
「見積り?」
「何ページくらい?」
「さあ……。五、六十ページは……」
「じゃ、十万はもらわないと」
「十万……円?」
咲江は目を丸くした。
「タダでやれって言うんですか?」
「そうじゃないけど……。もう少し安くならない?」
「中身次第ですね」
と、松本は肩をすくめた。
「ちょっと、あんた!」
と、京子がやって来ると、「それでも男なの?」
「男はタダ働きしろって言うんですか?」
「京子。いいのよ。ちゃんと、払うべきものは払わなきゃ」
「だけど……」
と、京子はふくれている。
咲江は、少し迷ってから、
「あの……翻訳はね、少し急ぐの。事情があって。でも、お金の方は——」
「本当に払ってくれるのなら、待ってもいいですよ」
「払うわよ! 必ず。だから、先にやってもらえる?」
「いいですよ」
と松本は言った。「今、ここに?」
「いいえ。コピーを取って、持って行く。あなたのお住いは?」
「橋の下でしょ」
と、京子が言った。
「ここへ電話して下さい」
松本が、手帳にメモして破ると、それを咲江へ渡した。「夜中でもいいです」
「分ったわ。じゃ、いつなら?」
「いつでも」
と言うと、松本は、さっさと歩いて行ってしまった。
「——何て奴《やつ》!」
と、京子が怒っている。
「でも、面白いじゃないの」
と、咲江は笑って言った。「十万円か! またバイト捜さなきゃ」
「あいつパーティに引張ってけば?」
「ええ?」
「キスしてやってさ、これで十万円、ってやるの。どう?」
「私のキスじゃ、十万円の値打ないわよ」
「そんなことないって。咲江はね、大体——」
「しっ! 図書館よ」
「そうか……」
二人は図書館を出た。
「——別の世界の人間ね、あれ」
と、京子が言った。「咲江、その十万円、立てかえるわよ、もし何なら」
「ありがとう。でも、大丈夫だと思うわ」
「頑固者!」
京子は笑って、「じゃ、私、午後はさぼるから」
「午後もでしょ」
と、咲江は言ってやった。「ノートは取っとくわ」
「頼むね! じゃ」
京子が急いで歩いて行く。
「帰る時は元気いいんだから」
と、呟《つぶや》いて、咲江は首を振ると、講義棟の方へと、歩き出した。