8 成り行きの二人
「僕だって、いつも身なりに構わないわけじゃないよ」
と、松本は言った。「ああ、僕は松本重《しげ》起《き》っていうんだ。言いにくい名だろう?」
咲江は、ちょっと笑って、
「私はもっとだわ。入江咲江なんて。〈江〉の字が二つも使ってあるの、父のせいなのよ」
「お父さんの?」
「父は忙し過ぎてね。私の名前つけちゃってから、後になって、『言いにくかったかな』と頭かいてたんですって」
——二人で、ドリンクコーナーの椅《い》子《す》にかけていた。松本はサンドイッチとコーヒー、咲江は紅茶を飲んでいる。
前半の曲はもう始まっていた。モニターのテレビがロビーに置かれていて、中の様子が分る。
「損したんじゃない?」
と、咲江が訊くと、
「いや。どうせ、聞きたかったのは、この後の〈カルミナ・ブラーナ〉さ。前半はすぐ終るよ」
「〈カルミナ・ブラーナ〉もラテン語ね」
「そう。——あの日記帳、まだ読んでないんだ。今日がテストでね」
「あら、じゃ、少し値引きしてもらおうかしら」
と、咲江は笑って言った。
——本当に、別人のように松本の格好は垢《あか》抜けていた。
髪もきちんと整っているし、着ているものも渋いが、洒落ている。
「どうしていつも大学に、あんな格好で来てるの?」
と、咲江は訊いた。
「本ばっかりいじってりゃ、埃《ほこり》になるじゃないか。いいもの着てったって、意味ないし」
と、松本は言って、「でも——君も見違えたよ」
咲江は少し照れた。
「お仕事だから。——制服の方がずっと洒落てるってのも、困ったもんね」
「しかし、なかなか似合うよ」
「まあ。制服趣味があるの?」
と、咲江は言ってやった。
「でも、土曜日なのに、バイト?」
「だって、生活費ですもん」
「親の仕送りは?」
「全然。——そういう約束で入ったんだから」
「へえ……」
と松本はびっくりしている様子だった。「だけど、あの子——ほら、川田さんか。あの子と仲いいから、どこかのお嬢様かと思った」
「期待を裏切ってごめんなさい」
と、咲江は言って笑った。
そこへ、同じ制服の娘がやって来た。
「入江さん、お電話よ」
「え? 私?」
びっくりした。——こんなところへ、誰がかけて来るのだろう?
急いで受付のテーブルへと駆けて行った。
「すみません。——もしもし、入江ですけど」
少し間があった。「——もしもし?」
「つまらないことに首を突っこむな」
と、低い声が言った。「分ったか」
「何ですって?」
「けがしてからじゃ、遅いぞ」
「あなたは誰?」
「その年齢《とし》で、死にたくあるまい」
「え?」
——電話は切れた。
松本がそばに来ていた。
「どうしたんだい?」
「いえ——何でもないの」
咲江は、受話器を戻した。「あら、もう前半、終ったみたいね」
ホールの中から、拍手が聞こえて来た。
「いらっしゃいませ、松本様」
レストランのマネージャーが、わざわざ挨《あい》拶《さつ》に来る。
咲江はすっかり戸惑っていた。
「あなた、ここの常連なの?」
と、松本に訊く。
「親父がね。——僕なんか、牛丼ぐらいでいいんだ」
と、松本はワイングラスを手に取って、「少しは飲めるんだろ?」
「ほんの少しね。すぐ寝ちゃうの」
「ともかく、このグラスだけは空にしてくれよ」
「分ったわ」
グラスが軽く触れ合うと、チーン、とハッとするほど軽やかな、いい音がした。
それにしても——想像もしない成り行きだった。
コンサートの後、松本に誘われるまま、食事に付合うことになったのだが、松本の車は可愛《かわい》い外車で、いわゆる「ミニ・クーパー」という車なのだと咲江は知った。
そしてやって来たのが、このイタリアレストラン……。
大学で見る松本との、あまりのイメージの落差に、咲江はすっかり面喰らって居るのだった。
「——お腹空くだろ。何でも食べてくれよ」
と、メニューを見ながら、松本は言った。
「でも……何だか悪いわ」
「どうせ親父の払いなんだ。気にすることはないさ」
「あなたのお父様って、何していらっしゃるの?」
「会社を五つぐらい持ってる」
「へえ」
——じゃ、遠慮することないか。
二、三日、パンと牛乳だけでも栄養不足にならないくらい、しっかりと注文してしまった。
「だけど、気味悪いね、その電話」
と、松本が言った。
あのホールの受付にかかって来た、奇妙な脅迫電話のことを言っているのである。
「そうびっくりもしないけど」
と、咲江は言った。「父と一緒だったときは、脅しの電話なんて年中だったから」
「お父さんが警部さんか。怖いなあ」
「身に覚えでもあるの?」
と、咲江は笑って言った。
そしてふと、思った。——同年代の男の子と、こんな風におしゃべりしたことなんか、一度もなかったのに……。
それに、松本のことなんか、ろくに知りもしなかったのだ。あのラテン語の日記のことで、図書館で会ったのが最初。
それでいて、こんな風に一緒に食事をしている……。
お互い、いつも見ているのと違う相手の姿を見たことで、却《かえ》ってホッとしているのかもしれない。互いに、向うの秘密を、ちょっと覗《のぞ》き見たような照れくささがあって——。
「その〈永井かね子〉とかいう女のことを訊《き》きに行ったのが、脅迫電話の理由なのかなあ」
「それしか考えられないわ」
と、咲江は言った。「だって、それ以外では、平凡な大学生よ。私のこと、脅迫する人なんていないわ」
「うーん……。平凡なと言えるかどうか分らないけどね」
と、松本は言った。
「あら、じゃ、私って変ってる?」
「平凡以上に魅力的だ」
「まあ」
咲江は面喰らって、赤くなったりした。「からかわないでよ……」
「からかってなんかいない。本音を言ってるのさ」
「ともかく——」
と、咲江は思い切ってワインを飲み干すと、「私、自分のことはよく知ってるつもりですからね」
「知ってるつもりでも、結構分ってないってことがあるもんだよ」
最初の料理が運ばれて来て、二人の言い合いは中断された。——といって、後になっても続かなかった。
二人とも、凄《すご》い勢いで食べることに熱中したからである。食事がすむころには、どっちも言い合い(というほどのものでもないが)していたことを忘れてしまっていた。
「——ともかく、君のお父さんも、そんな危いことを君に頼んで来るなんて」
と、コーヒーを飲みながら、松本が言った。
「父は、そんなこと、考えてもいないと思うわ。少しでも危いと思ったら、私に頼んだりしないわよ」
「あのラテン語の日記も?」
「柴田さんの話だと、何か関係あるはずだわ。——柴田さんって、父の部下なの。とてもすてきな女の人よ」
「君だって、すてきだ」
「あら、私なんか——」
と、また始まりそうになったが、
「よし!」
と、松本はコーヒーを飲み干して、「いっちょ、出かけるか」
「どこへ?」
「君を送ってかなきゃ」
「どこかの駅で降ろしてくれたら、一人で帰れるわ」
「いや、途中で寄ってみようじゃないか」
と、松本は立ち上って言った。
「寄るって?」
「その〈永井かね子〉さんのお宅へ、さ」
咲江は目を丸くして、
「だって——いないのよ、そんな人」
「よけいに怪しいじゃないか。君が訪ねて行って、とたんに脅迫電話。そこにいた店番か何か知らないけど、そのおばさんも、何か知ってるんだよ、きっと」
確かに、咲江もそのことは考えた。しかし——。
「だめよ」
「どうして? 遅く帰ると、旦《だん》那《な》に叱《しか》られるのかい?」
「何言ってんのよ!」
と、咲江は赤くなって、松本をにらんでやった……。
「——そんなことじゃないの」
松本の車の中で、咲江は言った。
「何の話?」
「父がいつも言ってたの。事件に無関係の人を巻き込まないようにするのが、まず第一なんだ、って」
「賛成だな」
と、ハンドルを握る松本が肯《うなず》く。
「だから、あなたを巻き込みたくないのよ」
「もう手遅れさ。それに、ラテン語の翻訳は僕がやるんだ。どうせ係り合うことになるだろ」
「そうね……」
と、咲江は考え込んだ。「もし——いやだったら、返してくれてもいいのよ」
「十万円、稼がなきゃな」
「あら、少し値引きしてくれたかと思ったのに」
咲江がちょっと笑って言うと、
「それなら——」
と、松本は、車を道のわきへ寄せて、停めた。
「——どうしたの?」
静かな住宅街の並木道だった。もう夜の十一時を回って、通る人もない。
「いや、ゆっくり考えようと思ってさ」
「何を?——事件のこと? それとも値引きのこと?」
「君のことさ」
そう言って——松本が顔を寄せて来た。
咲江は、まるでそんなこと、予期してもいなかったのに……目を軽く閉じて、松本の唇が自分の唇に触れるのを、ごく自然に受け止めていたのだった。
「——これで半額」
と、松本が言った。
「じゃ——もう一回で、タダ?」
「うん」
「じゃ、タダにさせてあげる」
「恩着せがましいな」
「当然でしょ。——初めてのキスなんですからね」
「本当?」
「疑うの?」
「いや」
咲江は、いきなり松本の腕の中に引き寄せられていた。初めてのキスとは全然違う、圧倒されるようなキスだった。
胸から胸に、互いの鼓動が伝わる。
何だって、こんなことに?——本当に、咲江はキスなんかしたこともなかったのだ。
本気で男に恋したことも。
それが突然、ろくに知りもしない男と……。そうだろうか? 恋とかキスとか、長い時間かけて、考えたり迷ったりするものじゃないのかもしれない。
「——もう、離して」
と、咲江は囁《ささや》くように言った。「お願い」
松本は、腕をゆるめた。咲江は彼の胸を押しやって、息をついた。
——しばらくは、言葉もでない。
じっと正面を見ながら、身じろぎもせずに座っていたが……。
「出かけましょう」
と、咲江が言って、松本はエンジンのスイッチを入れたのだった。