12 罠
自分のマンションに戻って来た松本は、ドアの前で足を止めた。
中で物音がする。人の声も。——しかも一人じゃない。
誰だろう?
友だちが勝手に入ったのかな? いや、そんなことは考えられない。
用心した方がいい、と思った。何しろ、あのベンツに命を狙われた後なのだから。
一旦、外へ出ようと思った時には、もう遅かった。ドアが開いたのだ。
しかし——そこに立っていたのは、警官だった。
「何やってるんですか?」
と、松本は訊いた。
すると、その警官を押しのけて、私服の刑事が顔を出した。
「君は松本重起?」
「そうですけど」
「入ってくれ」
仕方ない。——ま、別に悪いことをした覚えもないしね。
松本は中へ入ってびっくりした。
大学へ入って、父親にこのマンションを買ってもらったのだが、2LDKの、一人にはぜいたくな広さだ。
しかし、今、中には警官が何人も動き回っていた。あらゆる引出しや棚があけられて、中身がぶちまけられている。
「何してるんだ!」
カッとなった松本が怒鳴ると、
「おいおい」
刑事が、松本の肩を叩いて、「そう熱くなるなよ」
と、小馬鹿にしたような調子で、言った。
「一体どういうことですか、これは?」
と、松本は何とか怒りを抑えて、言った。
しかし、刑事の方は答えようともせず、
「ここに一人暮しか。いいご身分だな」
と、不愉快そうに鼻を鳴らした。「いくら女を引張り込んでも、親の目は届かないわけだ。全く、今の親は何を考えているんだろうな」
「そんなことしか考えられないんですか、今の刑事さんは」
と、松本は言ってやった。
「おい、なめた言い方をするじゃないか」
と、まだ二十代らしい若いその刑事は、松本の胸ぐらをつかんだ。
「何のご用でいらしたのか、教えていただけませんか」
松本は却って冷静になれた。相手が、金持ちのどら息子という先入観でものを言っているのが分ると、気の毒になって来てしまう。
「分らなきゃ教えてやるよ」
と、刑事は手をはなした。「善良な市民から通報があったのさ。ここでマリファナパーティをやってるぜ、ってな」
「マリファナ?」
馬鹿らしい、という顔で、「そんなお金があったら、本を買いますよ」
「そうか? ないっていうんだな、そんなものは」
「ええ」
「じゃ、心配しないでおとなしく見物してるんだな」
刑事は、ポンとくずかごをけとばした。中のゴミが飛び散る。
——仕方ない。今はこらえているしかないだろう。
松本は、腕組みをして、リビングの入口のドアにもたれて立っていた。
「いいか! 隅から隅まで捜せ! 叩き壊しても構わん!」
と、あの若い刑事が、ハッパをかけている。
松本は気になった。——一体誰がそんなでたらめの密告電話をしたのだろう?
誰かに恨まれる覚えはない。大体、大学でも松本は「変り者」で通っているのだし、特別に誰かと争ったということもない……。
そうか!
あの日記帳! 誰かが、あれを手に入れようとして……。
松本は日記帳が無事かどうか、確かめたかった。しかし、今、動いたら、それこそあの刑事は、松本がマリファナを隠そうとしたと思うだろう。
松本は苛《いら》立《だ》ちを押えながら、じっと待っていた。
「——あったぞ!」
と、声がした。
警官の一人が、ビニールの袋を手に、台所から出て来た。手は真白になっている。
「どこにあった?」
と、刑事が急いでやって来る。
「台所です。小麦粉の袋の中に」
小麦粉の袋? そんなもの、初めっから置いていない。
そうか。——罠《わな》だ。
誰かがここへ忍び込んで、予《あらかじ》めあれを隠しておいたのだ。それから一一〇番して……。
「なるほどな、隠し場所はあんまり頭のいい奴《やつ》の考えとは思えんな」
と、若い刑事が笑った。
どうしよう?——松本は、一瞬考えた。
今は、咲江を守らなくてはならない。この刑事に引張って行かれたら、当分は釈放してもらえまい。
みすみす、相手の罠にはまってたまるもんか!
松本は、パッと玄関へ向って飛び出して行った。
「おい!」
刑事が、焦って怒鳴った。「そいつを逃がすな!」
松本は、靴を引っかけ、玄関のドアの上にある、電気のブレーカーを、飛び上って切った。部屋の中が真暗になる。
外へ飛び出してドアを閉める。中で、誰かが転ぶ音がした。
「馬鹿! どけ!」
と、あの刑事が騒いでいる。
松本は、エレベーターに向って走り出した。そして、一階のボタンを押しておいて、階段を駆け上った。
足を止めて耳を澄ますと、
「下へ回れ!」
と、刑事の怒鳴る声が聞こえて来た。
松本は階段を上り続けた。——屋上へ出て息をつく。
風が冷たかった。松本は建物の反対側にある、荷物用のエレベーターへと急いだ。
たぶん、あの刑事たちは、この荷物エレベーターのことは知らないだろう。マンション内には会社もいくつか入っているので、別にこのエレベーターを付けてあるのだ。
松本は地階まで下りた。駐車場だ。
人の気配はない。出口の方へ駆け出そうとすると、警官の姿が目に入った。
まずい!——あわてて、車の間へ隠れる。
「よく見張ってろ!」
と、あの刑事が言っている。
そう馬鹿でもないらしいや、と、松本は思った。どこから出よう? もちろん、出入口は固めてしまっているのだろう。
「参ったな……」
と、呟《つぶや》いていると、
「何してんの?」
いきなり女の子の声がして、松本はびっくりした。
真赤な超ミニスカートの女の子が、松本を見下ろしている。
「あら、あんた下の部屋の大学生でしょ」
と、女の子は言った。
「君は……じゃ、上の部屋の? いつもガンガン、ロックをかけてる」
「そうよ。聞こえてる?」
「当り前さ。しかも午前三時や四時に」
「あら、三時四時が、私、一番元気なんだもん」
と、女の子は笑って、「お巡りさんが騒いでるわよ。何かやったの? 婦女暴行?」
「よせよ。マリファナだってさ」
「あら、見かけによらないのね」
と、面白そうに、「この車。私のよ。乗る?」
「——いいのか?」
「見付かりたくなかったら、トランクの中ね」
あんまり気が進むとは言いにくかったけれど、今の場合は仕方ない。
「頼むよ」
と、松本は言った。
「OK。じゃ、中に毛布があるから、それを敷いて。少しは乗り心地がいいかもしれないわよ」
女の子は、真赤なスポーツカーのドアを開けると、トランクのロックを外した。松本は急いで中へ入った。
「私、ルミ。あんたは?」
「松本」
「どこかにそんな場所、あったわね」
と言って、ルミという子は笑った。「じゃ、また後で」
バタン、とトランクの蓋《ふた》が閉じる。松本は、
「えらいことになったな……」
と呟いたが、ここは運を天に任せるしかない、と諦めて、手探りで毛布を広げようとした。
とたんに車が飛び出して、松本はいやというほど頭をぶつけてしまったのだった……。
やっと車は停った。
ドアが開く音がして、足音が後ろへ回って来た。
トランクの蓋が開く。
「——どうだった、乗り心地は?」
ルミが、いたずらっぽく訊《き》く。
「体中の骨がバラバラだよ」
と、松本はやっとの思いで、トランクを出て、腰を叩くと、「ひどい運転だなあ、全く!」
「あら、でも事故は起こしてないわ。人もはねてないし」
「そりゃ当り前……」
と言って、松本は、「——ここ、どこだい?」
「モテル」
「何だって?」
「疲れたでしょ。——入って」
そのまま、部屋へ引張り込まれる。
「結構新しいのよ」
と、ルミは言った。「一度来てみたかったんだ」
「ふーん」
松本は、目がくらみそうな、やたらまぶしい照明や、派手な内装に呆《あつ》気《け》に取られていたが……。
ちょっと咳払いして、
「ともかく助かったよ。マリファナって言ったけど、僕は何も知らないんだ。ぬれぎぬなんだよ」
「あ、そう」
ルミは一向に関心のない様子で、「ねえ、すてきでしょ、四十インチのTV!」
「お礼を言うよ。僕はちょっと急いで行かなきゃいけない所があるんだ」
「まだだめよ」
「だめって?」
「私がタダであなたを乗せてあげると思った?」
「いや……。今はね、ちょっとお金を持ってなくて」
「お金なんかいらないわよ」
とルミは言うと、いきなり服を脱ぎ出したのだ。
松本は仰天した。
「ね、君! 落ちついて!」
「あんたの方がよっぽどあわててる」
確かに、ルミの言う通りだった。
「僕には恋人がいて……」
「関係ないでしょ」
「どうして?」
「これは請求と支払い。——はい、これが請求書」
裸になったルミが、クルッと回って見せる。
スラリとした、いいプロポーションだった。
「あなたは、ちゃんと支払うわよね」
ルミが両手を松本の首にかける。
「だけどね、僕は……」
「真面目なんでしょ」
「うん……。まあね」
「だったら、タダで人のことを利用したりしないわよね」
「そりゃ君の要求はね、当然の権利と……」
「頭のいい人って好きよ。すぐに理解してくれるから」
「あの……」
松本は、何も言えなくなってしまった。口をルミの唇でふさがれてしまったからだ。
二人はそのまま、大きなベッドの上に倒れ込んだ。
——仕方なかった。松本は支払いをすることになったのである。
「何ですって?」
と、咲江は松本の話に息をのんだ。「警察の人が?」
「誰か、僕らを狙《ねら》った連中だよ、きっと」
と、松本は言った。「困った。あのマンションに入れなくなっちまった」
——咲江は、友だちの川田京子のすすめで、京子の親が持っている空室のあるマンションへ入っていた。
ここなら、まず見付かる心配はない、と思ったからである。松本もここへやって来た。
他に行く所もない。
しかし、ちょっと困ったのは……。
「それで、その人は?」
と、咲江が、真赤な超ミニのルミの方を見て、訊いた。
「うん……。僕があのマンションを出る時にね、助けてくれたんだ」
結局、ルミがここまでついて来てしまったのである。
「まあ、良かったわね。——ありがとうございました」
と、咲江が頭を下げると、
「いいのよ。ちゃんとその人から支払いはしてもらったから」
松本はあわてて咳払いすると、
「ともかく、その……。君は忙しいんだろ? 送ってくれてありがとう」
と、ルミを出て行かせようとしたが、
「何言ってるの」
と、咲江の方が松本を止めて、「そんなにお世話になっておいて。——せめてお茶でも」
「そう? 私、お腹空いてるの、ちょっと運動したもんだから」
松本が、また汗を拭《ぬぐ》った。
「じゃ、ちょっと遅いけど、何か作りましょうか、夜食でも」
「あら、嬉《うれ》しいわ」
と、ルミがニッコリ笑って、「自慢じゃないけど、私、カップラーメンもうまく作れないの。三分っていっても、いつも忘れて三十分もたっちゃうのよ」
「休んでらして、何か作るわ。あなたも食べるでしょ?」
松本が、
「うん……。でも——」
と言ったとたん、お腹がグーッと鳴ったのだった……。
咲江が台所に立っている間、松本とルミは居間のソファに座った。
「なあ」
と、松本が低い声で、「彼女には内緒。頼むよ」
「いいわよ。その代り——」
「何だい?」
「追い返そう、とかしないこと。——分った?」
「分った」
松本は、諦めて、肯《うなず》いた。ともかくルミは暇で困っているらしいのだ。松本たちの巻き込まれた事件は、正にルミにとっては、格好の暇つぶしなのだ。
——二十分ほどで、咲江は熱い「ぞうすい」を作って運んで来た。
「さ、熱い内にどうぞ。味が分ると、がっかりされそうだから」
と、咲江は照れたように言った。
「へえ! 器用なのねえ。おいしそう」
と、ルミは、遠慮もなく、さっさと食べ始めた。
「旨《うま》い」
と、松本は言った。「料理を習ったのかい?」
「だって、中学の時、母が亡くなったのよ。ずっとご飯を作って来たんだもの。少しはやれるようになるわ」
と、咲江も食べながら、「ルミさん、お味はいかが?」
ルミは、ものも言わずに食べていたが、やがて顔を上げると、
「——あなたって、すばらしい人ね」
と、言った。
咲江が面喰らって、
「あら、どうも……」
「この味! 作った人の人柄がそのまま出てるわ。すばらしい!」
どうやら感激しやすい体質のようである。
「ね、あんた」
と、松本をつっついて、「この人と、婚約してるの?」
「いや、まだ。だって——」
「馬鹿ね! 早くつかまえないと、こんな人、二度と出会えないわよ。一生悔むことになるわよ」
「そうかな。しかし今は——」
「今は、今は、って言ってちゃ逃げられるの! 明日、彼女はあんたよりもっといい男と会うかもしれないわよ。今すぐ、この人をとっつかまえなきゃ」
「嬉しいわ、でも——」
と、咲江が言いかけると、
「この人と寝たの?」
と、ルミが訊く。
「いいえ……」
「じゃ、今夜、この人と寝るのよ。こんだけ食べりゃ、体力も回復するでしょ」
「おい——」
「やり方知らなきゃ、教えてあげるわよ」
と、ルミは言った。「さ、早く食べよ」
ポカンとしていた咲江は、松本と顔を見合わせ、それから頬《ほお》を赤くして、自分のぞうすいを食べ始めた。