15 女友だち
「どうだった?」
と、コーヒーの香りをかいだルミは、「——いい匂《にお》い! 私、インスタントしか作れないの」
インスタントのコーヒーじゃ、「作る」ってほどのこともない。
「どうって……コーヒーのこと?」
と、咲江は訊いた。
「とぼけちゃって! あの子——何てったっけ? 松本?」
「ええ。何とかね」
と、咲江は、目を伏せて、肯《うなず》いた。
「じゃ、無事に終ったわけだ。おめでとう」
「ありがとう」
と、咲江は微笑んだ。「でも——ルミさん」
「何?」
「あなたは構わないの?」
「私が?」
「だって——松本君と寝たんでしょ」
「しゃべったの、あの馬鹿?」
ルミの言い方に、咲江はふき出してしまった。
「そうじゃないの、私の勘でね」
「そう。気にしないで。確かに、いい子だけど、長いお付合いをするには、私と世界が違いすぎる」
と、ルミは言った。「あなた、ぴったりよ、彼に」
「そうかしら」
「私の目は確か。——人間ってのはね、自分のテンポがあるじゃない。それがずれてても、たまにゃ、ピタリと来ることがある。そんな時、私も、あんな子と寝ることがあるけど、でも、少したつと、段々、テンポがずれて来るのよ」
ルミは、何だか哲学者めいたセリフを吐いた。
「あなたって、不思議な人ね」
「そう?——だけど、あなたたち、何だか変ったことに巻き込まれてるんでしょ」
「ええ。何だかわけが分らない」
と、咲江は首を振った。
「よかったら聞かせてよ。どうせ、あの子は昼ごろまで、起きやしないわ」
ルミという、この奇妙な娘に、咲江は友情を感じ始めていた。
何といっても、松本を救ってくれたのだし。
それも、お金とか、主義主張のせいだったのではない。
ただ「気が向いたから」なのである。それが却《かえ》って、信じてもいい、という気にさせたのだった。
「実は——」
と、咲江は口を開いた。「私の父は警官なの。警部でね、一応……」
咲江は、父から送られて来た、あのラテン語の日記のことも含めて、すべてを、ルミに話してやった。
ルミが目を輝かせて聞き入る。——確かに、我が身の安全さえ保証されていれば、こんな面白い話はない。
「そりゃ凄《すご》いわ!」
と、ルミは言った。「何か、スケールの大きな陰謀が絡んでいるのよ、きっと」
「でも、当面、八方ふさがり」
と、咲江はため息をついた。「ラテン語の日記は、松本君のマンションだし、松本君は罠《わな》にかかって、警察に追われてるし……」
「そりゃ任せてよ」
と、ルミが胸を叩《たた》いた。
「あなたに?」
「私のことは、警察もまるで、注目してないわ。何でも言って! 力になるわよ」
「でも……」
と、咲江はためらった。
「心配しないで。松本君には手を出さないわよ」
「いえ、そのことじゃないの」
と、咲江は急いで言った。「これはかなり危いことなの。何しろ、私たちも危うく殺されるところだったのよ。あなたに万一のことがあったりしたら……」
「そんなこと! 私ね、こう見えても、自分で承知の上でやったことの責任は自分で取るわ。それくらいの常識は持ち合わせてるつもり」
と、ルミは言った。
咲江は、ちょっと笑って、
「分ったわ」
と、肯いた。「あなたの力を借りることにする」
「そう来なくっちゃ! で、最初は何をするの?」
と、ルミはもう今にも飛び出しそうな元気である。
「あのラテン語の日記よ。あれを、ともかく彼のマンションから、何とかして持ち出さないと」
「OK。それなら、私の出番ね」
「でも、あの部屋は、きっと刑事が見張っていると思うわ」
「そうか……。刑事が持っていった、ってことは?」
咲江は少し考えて、
「それはないと思うわ。あそこを調べに来た刑事は、日記のことなんか聞いてないはずよ」
「じゃ、まだ日記はあの部屋に?」
「まず間違いなく」
そう。刑事が当然、松本が戻らないかと見張っているだろうが、それは同時に、もし日記を手に入れたい人間がいたとして、その人間も松本のマンションに入れない、ということでもある。
「じゃ、行って見ましょうよ」
と、ルミは言った。
「マンションへ?」
「そうよ。だって、私はあそこに住んでるんだから」
「でも、松本君の部屋は——」
「そこは、途中で考えましょう」
ルミは呑《のん》気《き》なものである。「なんとかなるわよ」
ルミがそう言うと、本当に何とかなりそうな気がして来る。——咲江は、不思議に楽しい気分になっていた。
「松本君、まだ寝てるわ」
「起こしちゃおうよ」
と、ルミが言って、咲江はふき出してしまった。
「いいわね。——やる?」
「OK!」
二人は、寝室へそっと入って行くと、毛布を引っかぶって寝ている松本のそばへ寄って、
「起きろ!」
と大声で怒鳴った。
「ワァッ!」
松本が仰天して飛び起きる。
起きたはいいが、ちょっとその勢いが良すぎて、かけていた毛布がベッドから下へ落ちてしまった。
松本も裸のまま眠っていたので、当然……。
「ワッ! おい、出ててくれよ!——おい!」
焦りまくって、毛布を拾い上げようとした松本は、逆にベッドから逆さに落っこちてしまった。
ルミと咲江は、腹をかかえて笑い転げたのだった……。
「こんなに朝早く起きてる人もいるのね」
と、ルミが感心したように言った。
「朝の九時過ぎだぜ」
と、松本が呆《あき》れたように、「当然だろ、起きてても」
「そう?」
ルミがしきりに首をかしげて、「どうして人間って、明るい時に働くの?」
なんて訊《き》いている。
松本は欠伸《あくび》をした。
三人で、マンションの近くのレストランで朝食をとった後である。
ここから、ルミの車で、松本とルミのマンションの近くへ。
「——この辺から、用心した方がいいわ」
と、咲江が言った。「どこか、人目のない所に」
「そうね。じゃ、その細い道へ入りましょ」
と、ルミはハンドルを切った。
「やれやれ、またかい?」
と、松本がため息をつく。
「留置所より、居心地はいいはずよ」
と、咲江は言った。「——さ、降りましょう」
二人は、車を降りると、後ろのトランクへ入った。
「苦しいけど、ほんの少しだから」
と、ルミが言った。
「ぶつけるなよ、ガレージに入れる時」
と、松本は言った。
「ぜいたく言わないの」
ルミは、バタン、と音をたてて、トランクのふたを閉じた。
——何しろ、松本一人だって窮屈だったのに、今度は二人だ。
「大丈夫?」
真暗な中で、咲江が訊いた。
「うん……。君となら、悪くない」
「馬鹿!」
——ルミの車は、マンションの地下へと入って行った。
ルミは、駐車場の中を、ちょっと見回してから、トランクを開けた。
「OK。出て。——腰でも痛めた?」
「なんとか……大丈夫」
と、松本は息をついた。「空気がなくなって死ぬかと思った!」
「そういう時は、あんたが息をするのをやめなきゃ」
「無茶言うない」
「しっ!」
と、咲江が言った。「刑事がいるかもしれないわ」
「上の玄関に、それらしいのが一人いたわね」
と、ルミが言った。
「さて、ここからだな、問題は」
「一旦、私の部屋へ上りましょ」
と、ルミが促した。
三人はエレベーターで、ルミの部屋へ向った。
ルミの部屋は、松本の部屋の真上である。
「——さ、入って。散らかってるけどね」
と、ルミがドアを開けた。
「お邪魔します……」
と、上って、咲江は、確かに「散らかってる」というのが、事実であることを知った。
「そう何分も時間はないと思うわ」
と、ルミは言った。「準備は?」
「ええ、大丈夫。——鍵は持ってるわね?」
「もちろんさ」
「じゃ、作戦開始!」
ルミはすっかりゲーム気分である。
ルミが、廊下へ出ると、〈火災報知機〉の前に立つ。咲江と松本は、階段のところで、待機していた。
「行くわよ」
と、ルミが言って、「エイッ!」
力任せに、プラスチックの板を割って、中のボタンを押す。
マンション中に、けたたましいベルが鳴り渡った。
「行こう」
松本と咲江は、階段を一つ降りて、そこの廊下をそっと覗《のぞ》いた。
松本の部屋のドアが開いて、中から刑事が出て来る。
ベルがなりつづいているのを聞いて、どうしていいか分らず、おろおろしているのである。
他のドアも次々に開いて、
「火事よ!」
「どこだ?」
「煙は?」
と、口々に怒鳴る。
しかし、妙なもので、人間、なかなか警報の類を信じないものらしい。
お互い、
「どうします?」
「さあ……」
「間違いじゃないの?」
などと、同意を求め合っているのだ。
あの刑事も、動物園のクマみたいに、ドアの前を行ったり来たり。
「——何やってんだ」
と、松本が苛《いら》々《いら》して呟《つぶや》く。
「ね、聞いて」
と、咲江が松本の腕をつかむと、「——サイレンよ」
確かに、消防車のサイレンが、遠くから近付いて来た。
廊下へ顔を出していた住人たちも、サイレンが聞こえて来ると、
「火事だ!」
「本当の火事だ!」
と、騒ぎ出した。
一旦騒ぎ出すと、今度は大変だ。たちまち廊下には住人たちが飛び出して来る。
「エレベーターは危い!」
「階段だ!」
と、次々に駆け出した。
「刑事が逃げ出したわ」
と、咲江が言った。
「よし。やりすごしてから、行こう」
二人は、壁にぴったりとくっついて、階段へと殺到する人たちをやりすごした。
「——OK、行こう」
二人は駆け出した。
刑事は、松本の部屋のドアを、開けたままにしていたので、二人はすぐに中へ入った。
「どこに置いたの?」
「待ってろ! 持って来る」
と、松本が部屋へ上る。
「急いでね!」
玄関に立った咲江は気が気ではない。今にも刑事が戻って来そうな気がする。
「早く、早く……」
ほんの一、二分のことなのだろうが、十分にも感じられた。
「よし、あったぞ」
と、松本が日記帳を手に、戻って来た。
「急いで」
「刑事が引っかき回してたんで、手間取ったんだ。行こう」
二人は廊下へ出た。そして——。
目の前に、男が一人、立っていた。
黒っぽいコートを着たその男は、二人が出て来るのを待っていたらしい。
「捜す手間が省けたぜ」
と、言って、「それを渡せ」
「冗談じゃない!」
と、松本が言い返すと、男は笑って、
「こっちも冗談じゃないんだ」
男の手に拳《けん》銃《じゆう》があった。——二人は、息を呑《の》んだ。
「さて、どうする? 時間がないぜ」
と、その男は言った。
中年の、ごく当り前の男で、どう見ても、どこかのセールスマンという様子だ。それだけに、怖い。
「先に女を撃つぞ」
と、その男は言った。
「分った」
と、松本は言った。「こいつがほしいんだろ!」
松本が日記帳を放り投げる。男の目が一瞬それを追った。松本が飛びかかる。
しかし、相手はプロだった。
松本が殴りかかって来るのを素早くかわして、銃把で、松本の頭を殴った。
「やめて!」
と、咲江が叫んだ。
松本は、そのまま倒れて、気を失ってしまった。
「手間のかかる奴《やつ》だ」
男は日記帳を拾い上げると、咲江の方に銃口を向けた。
「——殺すの?」
「いや。一緒に来い」
「いやよ」
「それなら、こいつを殺すぞ」
銃口が、松本の方に向いた。——咲江は青ざめて、
「待って」
と、言った。「分ったわ」
「ついて来るか」
「ええ」
「よし。——みんな階段を利用しているらしいな。我々はのんびりと、エレベーターで降りよう」
男は拳銃を握った手をコートのポケットに入れると、「いいか。妙なまねをすると、一発だぜ」
「分ったわ」
と、咲江は肯《うなず》いた。
「じゃ、ちょっと散歩としゃれこもう」
男はニヤリと笑って、言った……。