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消えた男の日記16
日期:2018-09-28 19:34  点击:308
 16 死 線
 
「いてて……」
 と、松本は呻《うめ》いた。
「馬鹿ねえ、全く」
 と、ルミが薬をつけてやりながら、「私が見に行って、連れて来なかったら、今ごろは警察に捕まってたのよ」
「分ってるよ」
 と、松本は、頭をそっとさすって、「畜生!」
「でも、その男、何なのかしら?」
「例の、僕らの命を狙《ねら》った連中さ。日記帳を捜そうとして、見張ってたんだろう。——いてて」
「我慢しなさい」
 と、ルミは言って、「じゃ、こっちが火事騒ぎを起こしたのが、向うにももっけの幸いだったのね」
「そういうことさ……」
 松本は、ため息をついて、「咲江が……。無事かなあ」
「私にも分んないわよ」
 と、ルミは言った。「でも、あんないい人、死なないと思うわ。死んだら、世の中、間違ってる」
 松本は、ルミを見て、
「ありがとう」
 と、言った。「問題は……。連中が何か連絡して来るかもしれない、ってことだ」
「そうか。でも、あんたがここにいることなんか、そいつら、知らないしね」
「うん。といって、下の部屋へ戻るわけにもいかない。——参ったな!」
 松本は頭をかかえた。
「ともかく、ここにも警察が来るかもしれないわ」
 と、ルミは松本の肩を叩いて、「また車であのマンションへ行きましょ」
「うん……」
 と、肯いてから、松本は青くなった。「またトランクに?」
「仕方ないでしょ」
「頭にひびかないように頼むよ」
 と、松本は情ない顔で言ったのだった……。
 
「入れ」
 と、男に促されて、咲江は、そのトラックの中へと、這《は》い上った。
「何なの?」
「入ってろ。着いたら、出してやる」
 咲江は、男が扉を閉め、カンヌキをかける音を聞いた。
 箱形の、大きなトラックである。中は半分ほど、段ボール状の荷物が積んであった。
 仕方ない。——咲江は、段ボールの一つに腰をかけた。
 これでどこへ行くんだろう?
 ガクン、と揺れて、トラックが走り出した。
 ——中は、小さな明りが一つだけ灯《とも》って、ぼんやりと様子は分った。
 どの段ボールにも、何も書いていない。中身は何だろう?
 広い道に出たらしい。トラックはスムーズに走り出して、あまり揺れなくなった。スピードも上っている。
 松本のけがはどうだろう?
 自分のことを心配しなければいけないのに、咲江は、松本のことが気になって仕方がなかった。
 せっかく、松本と結ばれたんだ。死んでたまるか!
 咲江は、必死で自分を励ましていた。
 そして……。ふと、咲江は身震いした。寒い。——気のせいかしら?
 いや……。そうじゃない!
 確実に、トラックの中の温度は下りつつあった。
 保冷車なのだ! トラックそのものに、冷却装置がついている。
 咲江は愕《がく》然《ぜん》とした。——何度まで下るんだろう?
 もし——もし、冷凍車だったら?
 咲江は、今度は、体の内からこみ上げて来る恐怖に、身震いしたのだった……。
 
 依子が、少し身動きした。
「あ——」
 と、敦子が、声を上げると、依子はハッと体を起こした。
「ごめんなさい。起こしちゃった」
 と、敦子は言った。
「いえ、いいの……。今、どこ?」
 パトカーは、広い道を避けて、細い裏道を走っていた。
「大分遠回りだよ」
 と、入江が振り向いて、言った。「仕方ない。——何とか逃げ切らないとな」
「もう、朝ですか」
 と、依子は訊《き》いた。
「うん。もうすぐ十時だ」
「まあ」
 依子は笑って、「こんなに眠ってばっかりいるなんて」
 目の具合は、と訊くまでもない。
 この明るさが分らないのでは、全く、良くなっていないのだろう。
 入江は心が重かった。依子が明るく振舞っているだけに、余計に心が痛む。
「——ここを出ると、大分いい道になると思います」
 と、大内が言った。
「誰かが待ち伏せしてない?」
 と、敦子が言った。
「どうかね」
「また裸になってやる」
「よせ!」
 と、大内がむきになって言ったので、みんなが笑った。
 パトカーは、林の間の道を右へ左へ、ひっきりなしにカーブしながら、走っていた。
「ともかく、町へ出ないとな」
 と、入江が言った。「電話をかけるんだ、まず」
「どこへですか?」
 と、依子が訊く。
「一一〇番じゃだめだな」
 と、入江は言った。「新聞社、TV局、それにあちこちのマスコミさ」
「それはいい方法ですわ」
「知ってる奴《やつ》も、大分いる。俺《おれ》が、でたらめを言う人間かどうか、知ってる人間でないとな」
「その無線は?」
 と、敦子が言った。
「使えるが、こっちの場所も、すぐに分ってしまう。何とか電話のある所に出たいもんだ」
「テレホンカード、ある?」
 と、敦子は心配している。
「やっと広い道だ」
 と、大内が言った。
 そして——急ブレーキがかかって、パトカーは停止した。
「しまった!」
 と、大内は言った。
「どうしたんですか?」
 と、依子は訊いた。「大内さん!」
 ——真直ぐ道の先、百メートルほどの所に、非常線が張られていた。
 パトカーが三台、横に並んで、道をふさいでいる。その向うに、警官が何十人も見えていた。
「——まずい」
 と、入江が言った。「バックもできんな」
「とても……。すみません」
 と、大内が首を振る。
「お前のせいじゃない」
 と、入江が言った。「——見ろ、ライフルだ。こっちを狙《ねら》ってる」
「どうするの?」
 と、敦子は言った。「裸になっても、だめみたいね」
「ああ……。ここは、降参するしかないだろう」
「悔しい!」
 と、敦子は口を尖《とが》らした。
「——でも、殺されるかも」
 と、依子が言った。
「すぐにはやらんさ」
 入江は肩をすくめた。「——大内」
「はあ」
「俺が先に行って話して来る。お前はここにいろ」
「僕が行きます」
「命令だ」
「聞けません」
 入江は、ちょっと息をついて、
「聞け。もし、俺がやられたら、この二人を連れて、林の中へ逃げ込むんだ。俺にはとてもむりだ」
「しかし——」
「俺はお前より長生きした。分ったか」
 しばらく、誰も口をきかなかった。
「——分りました」
 と、大内が絞り出すような声で、言った。
「よし。ともかく、車から出るんだ」
 四人は、パトカーの外へ出た。
「——よく聞け」
 と、拡声器で、呼びかけてくる。「武器を捨てて、四人ともこっちへ来い。抵抗すると射殺する!」
「いいな」
 と、入江は大内へ言った。
「分りました」
 大内が肯《うなず》く。
 依子は、パトカーに手をかけて立っていたが、敦子の方へ、
「ね、道は真直ぐ?」
 と、訊いた。
「ええ」
「今、パトカーは正面向いて、停っているの?」
「そうですよ」
「入江さんは、歩き出した?」
「ゆっくりと……。殺されるかしら?」
「入江さん、どれくらい行った?」
「今……三十メートルくらいまで」
「そう」
 依子は肯いた。
 突然、依子は敦子をパッと突き飛ばした。
「キャッ!」
 敦子が転がる。同時に、依子は、パトカーの前の席のドアを開け、中へ入ってドアを閉めた。
「おい! 何してる!」
 と、大内がドアを開けようとしたが、ロックされてしまっていた。「柴田君! 開けろ!」
 依子が、運転席についた。手探りでエンジンをかける。
「——何をする気だ!」
「依子さん!」
 と、敦子が、窓を叩《たた》いた。
 依子は、見えない目で、きっと正面を見据えると、思い切りクラクションを鳴らした。
「どうした!」
 と、入江が駆け戻って来る。
 パトカーはダッと前へ飛び出した。入江があわてて横へ飛んだ。
「柴田君!——やめろ!」
「依子さん!」
 依子は思い切りアクセルを踏んだのに違いない。もの凄《すご》いスピードで、パトカーは真正面をふさぐ三台のパトカーと警官たちに向って突っ込んで行った。
 警官たちが、あわてて逃げ出す。
 入江は、目を見開いた。依子の運転するパトカーが、正面の二台のパトカーをはね飛ばすような勢いで突っ込んだ。
 激突音と、砕けて舞うガラス、ボンネットが吹っ飛び、車体は折れ曲るようにして横転する。
 警官たちの何人かが、宙へ飛んだ。悲鳴が上る。
「依子さん!」
 と、敦子が叫んだ。
 次の瞬間——爆発が起こった。火の柱が、一瞬、見上げるほどの高さに吹き上る。そして、もう一台のパトカーにも、炎は見る見る広がって、もう一度、爆発が起こった。
 ——三人とも、呆《ぼう》然《ぜん》として、炎と、逃げ惑う警官たちを見ていた。
「——畜生!」
 と、大内が言った。「何てことを!」
「助けに行って! 早く、依子さんを——」
「むだだ!」
 入江が怒鳴った。「即死だよ」
「だって……だって……」
 敦子が泣き出す。
 入江は、青ざめていたが、
「泣くのは後だ。さあ、早くここから逃げよう」
 と、大声で言った。
「警部——」
「分らんのか! 柴田君の気持を、むだにするのか!」
「分りました」
 大内は目の涙を拭《ぬぐ》った。「——行こう」
 敦子は泣きながら、それでも大内の手をしっかりと握って、駆け出した。
 入江もそれに続く。
 おそらく——いや、確実に、三人の中でも一番泣きたかったのが、入江だった。
 どうして、俺《おれ》がやらなかったんだ! 馬鹿め! 何て馬鹿だ、俺は!
 三人は、林の中へと分け入って行った。
 口もきかず、ただ黙々と、進んで行ったのである……。
 
 どれくらい歩いただろう。
「待て」
 と、入江は言った。「休もう」
 大内も敦子も、口をきかなかった。
「休んでろ」
 と、入江は言った。「周囲の様子を見て来る」
「分りました」
 大内は、ハンカチを敷いて、「座れよ」
 と、敦子に言った。
「うん」
 敦子が肯く。「——大内さん」
「何だい?」
「依子さん……。どうしてあんなことを……」
「うん。目が見えなくて、足手まといになると思ってたんだろう」
 大内は声を詰らせた。
「それだけじゃないと思う」
「何だって?」
「あの人——あなたが好きだったのよ」
「おい……」
「でも、私が——私が、あなたをとっちゃったから、自分が犠牲に……」
 大内は、敦子の肩を抱いた。敦子は、すすり泣いて、
「——抱いてよ」
 と、言った。
 大内は、力一杯、敦子を抱きしめてやった……。
 
 ——入江は、一人になりたかったのだ。
 大内たちと、少し離れると、木にもたれて、大きく息をついた。
 そして、泣いた。——声を上げて。
 自分を思い切り殴りつけてやりたかった。
 もし、うまく逃げのびることができたら、自分で自分を殴ってやる。
 柴田君……。何てことをしてくれたんだ!
「——どうしたの?」
 突然、女の声がして、入江は、飛び上るほどびっくりした。
 木々の間から、少女が一人、姿を見せた。
「君は……」
 入江は目をこすった。「君は——笠矢——」
「笠矢祥子です」
 と、その少女は言って、「ああ、東京から来た警部さん!」
「そうだ。君……大丈夫だったのか?」
「家がやられて」
「ああ、見ていたよ。君もてっきり死んだと思ってた」
「地下室に隠れてたんです」
「地下室?」
「ええ」
 入江は、少女の肩を叩いて、
「良かった」
 と、肯《うなず》いた。「生きていて、良かったね……」

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