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消えた男の日記17
日期:2018-09-28 19:35  点击:350
 17 囚われの咲江
 
 ここは……。
 ここはどこだろう?——寒い。
 咲江は身を震わせた。肌の外側で、何か波打つ感覚がある。
 水の中? 私は水の中にいるのかしら?
 目を開くと——何かぼんやりと明るく、白っぽいものが動いているのが見えた。
「——目を開いたわ」
 と、女の声。
「大丈夫か」
「たぶん。あと少しすれば……」
 何人かが、自分の方を覗《のぞ》き込んでいる、と咲江は感じた。はっきりは見えないけれど、たぶん白衣を着て。お医者さん? 私、入院しているんだろうか?
「どう、気分は?」
 と、女の顔が覗き込んできた。
 やっと、視界のピントが合って来る。
 体が、浴槽のようなものにつけられているのだと、分った。
「感じる? 暖かい?」
 お湯。——そう、お風呂に入ってるんだわ、私……。
 咲江は、かすかに肯いた。
「良かった!」
 と、その女がホッとしたように言った。「どうなるかと思ったわ」
 咲江は、自分が裸にされて、浴槽に身を浸し、周囲を四、五人の男たちが取り囲んでいるのに気付いて、ゾッとした。
「やめて! 何してるんですか!」
 舌がよく回らなかったが、精一杯声を上げた。
「もう出て下さい」
 と、女医らしい、白衣を着た女が、男たちに言った。「後は任せて。もうこの娘は大丈夫」
「服を着せたら、連れて来てくれ」
 と、男の一人が言って、「よし、みんな出よう」
 と促した。
 女医らしい女が一人、残った。もう五十歳ぐらいかと思えるが、体つきはがっちりとして、屈強な感じだった。
「もう大丈夫。安心して」
 と、その女が言った。「私はね、黒田とも子。みんな『とも子』とだけ呼んでるわ」
 みんな? みんなって、誰のことだろう?
「さ、あったまってね。危うく、冷凍されちゃうとこだったのよ。全く、馬鹿な連中なんだから」
 冷凍……。冷凍車……。
 そうか。——咲江は、やっと思い出した。
 松本を殴った男が、自分を冷凍車のトラックに入れたのだ。猛烈な寒さの中で、咲江はやがて意識を失った。——このまま死ぬのか、とも思ったのだが……。
 どうやら助かったらしい。
「——さ、立てる?」
「とも子」と名乗ったその女は、咲江の腕を取って、立たせた。裸なので、恥ずかしかったが、咲江は、今はそんなことを言っている時じゃない、と思った。
「ほら、しっかり! 転ぶわよ」
 とも子という女が、浴槽から咲江を出し、タオルで体を拭《ふ》いてくれる。——咲江は、もう足にも力が入れられるようになっていたけど、わざとふらついて、とも子という女に支えてもらうようにした。
 その方が、向うも油断するだろう、と思ったのである。
「あなたの服は全部破れちゃったの。これを着て」
 下着をつけて、それに頭からスッポリとかぶる、寝衣。——入院患者、という格好である。
「ここ……病院なんですか」
 と、咲江はぼんやりした口調で、訊《き》いた。
「そんなものよ」
 と、とも子という女は言った。「さ、こっちへ来て」
「どこなんですか、ここ……」
 咲江の問いには、返事をしてくれなかった。
 廊下は、どこか冷え冷えとして、薄暗い。窓が一つもないので、地下なのかもしれない、と咲江は思った。
 腕をとられて、ゆっくりと歩きながら、咲江は廊下の突き当りに、〈非常口〉という字と、矢印があるのを目に止めていた。矢印の方向へ、廊下が曲って続いているらしい。
「ここよ」
 重苦しい感じのドアを開けると、とも子は咲江を押しやるようにして、部屋の中へ入れた。
 殺風景な、ガランとした部屋に、机が一つ。机の向うに、男が一人、座っていた。
 机の前の固い椅《い》子《す》に、咲江は腰をかけるように手で示された。
「——入江咲江君だね」
 と、その男は言った。
 軍人かしら、と咲江は思った。
 軍服を着ているわけではないが、ピンと背筋を伸ばしたところ、少し短めに刈った髪。そして口のきき方が、そんな印象を与えたのである。
「あなたは?」
 と、咲江は、少しぼんやりした口調で訊いた。
「君のお父さんは入江警部だね」
 と、その男は言った。「君は一人っ子か。さぞ可愛《かわい》いだろう」
 五十がらみの、少し皮肉っぽい笑みを見せる男だった。
「あなたは?」
 と、咲江はくり返した。
「君の友人の松本君はどこに隠れているのかな?」
 と、男が訊く。
「あなたは?」
 ——男が、ちょっと、後ろに立つ、とも子という女の方へ目をやった。
 とも子の太い腕が、がっしりと咲江の両腕をつかんで、椅子の背もたれの後ろへとねじ上げた。
 肩に激痛が走って、咲江は思わず悲鳴を上げた。
「骨を折るなよ」
 と、男が言った。「——いいかね、質問するのはこっちだよ。君は返事をする、分ったか?」
 穏やかな口調が、却って不気味だ。
 額に汗が浮かんだ。——咲江は黙って肯《うなず》いて見せた。
「はなしてやれ」
 と、男がとも子に言った。
 ——咲江は、自由になった両腕を、軽く振った。
「日記も手に入れたし、何が望みなんですか?」
 と、訊いた。
「しかし、この日記は特別だ、分るだろう?」
 と、男は言って、机の引出しから、あの日記帳を取り出した。
「中がラテン語だから?」
「そう。私も、五か国語が分るが、ラテン語というのは分らん」
 と、男は首を振った。「君は?」
「分りません」
「しかし、君の恋人は分る。——そうだろう?」
 咲江は答えなかった。
「松本君は、これを読んだのか?」
「いいえ」
「どうかな? 君を信じていいかね」
「そんな時間はありません」
「確かに」
 と、男は肯いた。「しかし、この一部を読んだ、ということは、考えられる」
 男の指先は、日記帳の表紙を、トントンと、ピアノの鍵盤のように叩《たた》いていた。
「一体何が書いてあるんですか」
 と、咲江は訊いた。
「重大な機密さ。国家の機密だ」
「そんなもの、あるんですか」
 咲江はちょっと笑った。
「あるとも」
 男は、真顔で言った。「君たち若い者には分らないようだが、国家というものは、君らのデートする権利とか、映画を見に行く自由より上にあるものなんだ」
「そうは思いません」
 と、咲江は言った。
「残念だね、意見が合わなくて」
 と、男は言った。「君が同じ意見になるまで、君は、ここから出られない」
 咲江は腹が立った。——こんな男に頭なんか下げるか、と思った。
「ここは監獄?」
「いや」
 と、男は頭を振って、「一応、精神病院ということになっている」
 咲江はゾッとした。——一生、ここに閉じ込めるつもりなのだろうか。
 薬づけにされて、何も分らなくなるまで……。
「それでね」
 と、咲江が肯いた。
「何だね?」
「あなたがここにいるわけが分ったわ」
 男は、ちょっと笑った。
「なかなか気の強い娘だな」
「——薬で眠らせますか」
 と、とも子が訊く。
「いや……一人部屋へ入れておけば大丈夫だろう。そんな娘一人だ」
 と、男は立ち上った。「では、ゆっくりしたまえ」
「待って下さい」
 と、咲江は言った。
「何か?」
「話してくれてもいいでしょう。どうせここから出られないのなら」
 咲江は、挑みかかるように男をにらみつけた。
「——なるほど」
 男は腰をおろした。「まあ、君の気持も分る」
「ですが——」
 と、とも子が口を挟む。
「まあいい」
 男は、とも子を押えて、「この日記帳を書いた男はね、医者だったのだ」
「医者?」
「そう、国家のための研究機関で働いていてね。そこで、我々の依頼した研究を行なっていた」
 男は、ちょっと間を置いて、「分るかな、君には」
 と、言った。
 見当はつく。——国家の、おそらくは自衛隊か、公安警察か。
「軍事機密ですね」
「そういうことだ」
「細菌兵器」
 男は、ニヤリと笑って、
「ご名答だ」
 男は肯いて、「さすがに頭がいい。見かけ通りだね」
「何て時代遅れなこと! こんな平和な時代に」
「それは間違いだよ。ソ連は我々を騙《だま》している。あの笑顔を信じていると、とんでもないことになるよ」
「あなたの方が、ずっと恐ろしいわ」
 と、咲江は言った。「日記を書いた人は、その研究をいやがったんですか」
「違う。彼は感染したんだ」
「感染?」
 思いがけない言葉だった。「じゃ……死んだの?」
「それを確かめなければならないので、彼と娘を山中の町外れに移したのだよ」
「その日記帳に、そのことが?」
「おそらくね」
「でも……その男の人は、どうなったんですか」
「それは君とは関係ないことだ」
 と、男は言った。「いいかね、君がここを出られるとしたら、その方法はただ一つ、君が我々の協力者になってくれることだ」
「とんでもない」
 男は首を振って、
「そう簡単に返事をしない方がいいと思うがね」
 と、再び立ち上った。「その若さで、これから何十年もここで過すのかな?」
 咲江は、目を伏せた。
「——ま、時間はある、ゆっくり考えることだね」
 男は、とも子の方に肯いて見せた。
「行くのよ」
 とも子が咲江を立たせる。
 ——廊下へ出ると、咲江は、
「トイレに行かせて」
 と、言った。
「部屋にもちゃんとついてるわよ。——妙な考えを起こさないこと。いいわね」
 とも子の、がっしりした手が咲江の肩をつかんだ。
 それは恐ろしいほどの力だった。
 咲江は、廊下を奥へ奥へと連れて行かれ、ドアの一つの前で、やっと立ち止ると、
「ここがあなたの部屋よ」
 とも子が、ドアを開ける。
 木のドアに見えるが、実際は、鉄板が入っているのだろう、かなり重そうである。ベッドと小さな机。——窓はない。
「ここは地下?」
 と、咲江は訊《き》いた。
「そうよ、窓もない。換気口は小さいからね」
 と、とも子が言った。
 笑顔が、いかにも冷ややかだった。
 咲江は、小さな洗面台の方へと歩いて行くと、水を出そうとした。
 ——うまく行くだろうか?
 咲江は、何とかして、逃げなくては、と思っていた。
 逃げるのなら、今しかない。
 ここで何日か過せば、もう絶対に逃げ出せなくなるだろう。今か、でなければ、永久に敗北するか、だ。
「すみません、とも子さん」
 と、咲江は言った。
「なあに?」
 出て行きかけたとも子が振り向く、
「水が出ないんですけど」
「あら。——変ね。点検をしてないのかしら」
 と、とも子がやって来る。
 咲江は、少し退がって、
「手に力が入らないからかも……」
 と、言った。
「そうね。でも、そんなに固いはずが……」
 とも子が、洗面台に向う。
 咲江は、開いたままのドアに向って、駆け出した。

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