2 孤独な夜
「さっぱり心当りはありませんね」
と、梶原真一は首をかしげて言った。
「そうですか」
殿永は肯《うなず》いて、「いや、もちろん、いたずらだろうとは思ったんですがね。万が一、ってことがありますから、こちらの塚川さんからのご連絡で、こうしてやって来たんですよ」
「そりゃどうも。——遅い時間までお待たせしちゃって、すみませんね」
と、梶原は恐縮している。
亜由美と殿永の二人だけで、梶原の家へやって来たのである。
梶原の帰宅が夜の十一時近く、ということで、さすがに聡子とドン・ファンは遠慮することになったのだ。
「何しろ明日は結婚式なものですから、色々と雑用が多くて」
「ほう」
と、殿永は言った。「それはおめでとうございます。いや、そんな時に妙な話を持ち込んで、すみませんね」
亜由美は、なかなかもてそうな人だわ、この人、と思って眺めていた。結婚相手の他に、恋人の一人や二人いても、おかしくはない。
「いや、しかし……。何だろうなあ、この手紙?」
「心当りはないわけですね。失礼ですが……」
「誰かを振って、小田恭子と結婚するとか? 僕はそんなにもてません」
と、梶原は苦笑した。「まあ、たちの悪いいたずらだと思いますがね」
「それなら結構です。——この手紙は、どうしますか?」
「さあ。僕の方は別に……」
「じゃ、一応私の所で預かりましょう」
と、殿永は手紙をポケットに入れて、立ち上った。
「ご迷惑をかけて、すみません」
と、梶原は、亜由美にも謝った。
——梶原の家を出て、亜由美と殿永は歩き出した。
「一人で帰れます」
と、亜由美が言うと、
「いや、レディをお送りするのは、私の役目ですからね」
「じゃ、送っていただこう」
歩いて十五分ほどの道である。
夜風は少し冷たい。亜由美はコートをはおっていた。
「——どう思いました?」
と、殿永が訊いた。
「もてない、ってこともないみたい」
「そうですね。——私の勘では、あの男はなかなか真面目らしい。もちろん真面目な人間が罪を犯さないというわけじゃありませんがね」
「罪って——」
「いやいや、一般論としてです。しかし、確かに感じの悪い男じゃない。いわゆるプレイボーイのタイプじゃありませんな」
「同感です」
「塚川さんに同意していただけると、心強いです」
「何だか皮肉に聞こえますけど」
と、亜由美は苦笑した。
「私はいつも正直です」
「正直な人が罪を犯さないとは限りませんけど」
「やあ、これはやられたな」
と、殿永は笑った。「——そこでね、心配なのは、この手紙の方です」
「いたずらじゃない、と?」
「いたずらかもしれません。しかし、梶原真一が明日結婚することを、この手紙を出した人間は知っていたでしょう」
「そうでしょうね」
「すると、ある程度、梶原に近い人間ということになる。これは、悪友がふざけて出したものではありません。それなら、もっと大げさな内容になるでしょう」
殿永は真剣だった。
「じゃ——本当に危険がある、と思ってるんですね」
「取り越し苦労ならいいのですがね」
と、殿永は首を振った。「幸か不幸か、私は明日非番でして」
「あら。じゃ……」
「一日、家で寝ているつもりでしたが、どうも、用もないのに、結婚式場へ出かけて行きそうな気がします」
と、殿永は言った。
もちろん、殿永に、そんなつもりがなかったことは間違いない。しかし、亜由美の方も、明日は講義を自主的に休講にしようと決心していたのである……。
「ただいま」
松井見帆は、ドアを開けて、言った。
もちろん返事はない。一人住いのアパートである。返事があったら、それこそ大変だ。
でも——たとえ空巣か何かでも、このアパートの、空しく寒々とした部屋の中にいてくれたら、と見帆は思うことがあった。今夜みたいな夜には特に……。
見帆は、ドアを閉め、鍵《かぎ》をかけようとして、思い直した。鍵もチェーンも、かけないままで部屋へ上り、そのまま部屋の真中で服を脱ぎ始める。
もし誰かがドアを開けたら……。それはちょっとしたスリルだった。
裸になると、見帆は小さな浴室へ入って行った。——ホテルで、ちゃんとお風呂には入ったのだが、まだ田崎の匂《にお》いが残っているような気がしたのだ。
シャワーをゆっくりと浴びて、ほぼ二十分ぐらいかかっただろうか。
バスタオルを体に巻いて、部屋へ戻ると、やっと玄関のチェーンと鍵をかけた。
「馬鹿なことして……。何やってるんだろうね」
と、自分でも笑った。
田崎と一緒に、ホテルの部屋で少し飲んだから、その酔いが残っているのだろう。
酔ってでもいなきゃ、田崎なんかに抱かれていられない。
見帆は頭を振った。——しっかりして!
明日、何を着て行くか、考えなきゃ。美容院は午前中に行けば間に合うとして……。
もちろん、今の若い人たちみたいに、まるでTVのアイドル歌手みたいな、派手なものを着て行くわけにはいかない。ある程度、年齢にふさわしい、落ちついたもの。それでいて、お洒落《しやれ》な……。
「言うは易く、ね」
と、見帆は苦笑した。
電話が鳴り出した。——見帆は、TV電話でなくて幸い、と思いつつ、受話器を取った。
「もしもし」
「あら、梶原さん?」
「ああ。さっき電話したけど、帰ってなかった?」
「ちょっとね。やけ酒よ。分るでしょ?」
梶原は笑って、
「デートかい?」
「まあね」
と、見帆は軽く言って、「どう、ご気分は? 緊張してる?」
「いささかね」
「ま、頑張って。明日はうんと泣かしてあげるわ」
「勘弁してくれよ」
と、梶原は情ない声を出した。
それから、梶原は真剣な口調になって、
「でも、本当に君のおかげだよ。何とお礼を言っていいか分らない」
と、言った。
「あらあら。ちゃんとお礼はいただいてるわよ、私」
と、見帆は言った。「そんなことより、恭子さんを大事にしてあげることね」
「分ってる。しかし……」
「何かあったの?」
「いや、そうじゃない。ただね、君が社内であれこれ言われてるんじゃないかと思って、気になってるんだ」
「そんなこと、慣れっこよ」
と、見帆は笑って、「気にすることないわ」
「うん……。本当にありがとう。明日、お礼を言う時間はないだろうからと思ってね」
「ええ。それじゃ今夜は早く寝て。明日はあんまり眠れないわよ」
見帆の言葉に、梶原は照れくさそうに笑った。
「じゃ、おやすみなさい」
見帆は、電話を切った。——少し、気分が良くなる。
派手にクシャミをして、あわてて服を着た。濡《ぬ》れた髪を乾かそうとドライヤーを取りに行こうとすると、また電話が鳴り出した。
「誰かしら。——はい。もしもし?」
少し間があった。見帆が、口を開きかけた時、
「あんたの気持は分ってるよ」
と、低くかすれた、囁《ささや》くような声が聞こえて来た。
「え?」
いたずらだわ、と思った。大して珍しくもない。こういう手合は無視するに限る。
見帆は、さっさと切ろうとした。すると、その囁く声は、
「明日の結婚式を楽しみにしてな」
と、言ったのである。
「何ですって?」
見帆はびっくりした。「あなた、誰なの?」
「いいかね。あんたの恨みは晴らしてやる」
「恨みって……」
「あんたの気持は、誰よりも、俺《おれ》が良く分ってるんだよ……」
「何の話? ねえ——」
「玄関の上り口に置いた人形にかけて、誓うよ。女を食いものにする奴《やつ》は、生かしちゃおかない……」
誰の声だろう? 見帆には見当もつかなかった。
「明日の結婚式のことをどうして知ってるの? ねえ!」
見帆の質問には、その声は答えなかった。
「思い知らせてやるんだ……。あんたの恨みをね」
「待って。——もしもし?」
電話は切れていた。——見帆は呆然《ぼうぜん》としていたが、ふと、今の電話の言葉、「玄関の上り口の人形」を思い出して、目を玄関の方へ向けた。
そこには、紙細工の、ウェディングドレス姿の花嫁が、ちょこんと置かれていた。
いつの間に?——帰って来た時、なかったのは確かである。
では……。鍵も何もかけずに、シャワーを浴びている間に、入って来たのだ!
見帆はゾッとした。
この人形……。これは一体何の意味だろう?
電話の声は、男とも女ともつかなかったが、ともかく明日、梶原と小田恭子が結婚することは知っている様子だった。
あんたの恨みは晴らしてやる……。女を食いものにする奴は……。
無気味なものを、見帆は感じていた。——いやな気分だ。
考え込んでいると、また電話が鳴って、
「キャッ!」
と、思わず声を出してしまった。
まさか、さっきの誰かが、また……?
こわごわ受話器を取ると、
「あ、すみません! こんな時間に」
と、元気な声が飛び出して来る。
「あら、洋子さんね」
見帆はホッとして、言った。
「はい、五月洋子です」
と、わざわざ名乗って、「分ります?」
「そんな声を出す人は他にいないわよ」
と、見帆は言ってやった。「どうしたの?」
「明日の、梶原さんと小田さんの式なんですけど」
と、五月洋子は言った。「どうしても、ワンピースに、真珠のネックレスがほしいんです。もしかして、松井さん、お持ちだったら、と思って」
「ああ、持ってるわ。いいわよ。じゃ、明日、式場へ持って行くから」
「わあ、助かった! 感謝します!」
五月洋子は、二十一歳の、まだ新人のOLである。
たいていは煙たがる新人が多い中で、洋子は珍しく松井見帆のことを頼って来る。明るくて、よく働く子で、見帆も色々面倒を見ていた。
「そんなに大げさに喜ばないで」
と、見帆は笑って言った。「じゃ、忘れないように出しておくわ」
「よろしくお願いします」
と、洋子は言って、「明日、松井さんはスピーチ、なさるんですか?」
「私? 私はしないわよ」
「いいなあ。私、歌わなきゃいけないんですよ!」
と、洋子は嘆く。「音痴《おんち》なのに! 一人じゃないのが救いですけど、みんなが私につられておかしくなっちゃうんじゃないか、心配で」
「そんなに気にしないわよ。おめでたい席なんだから、少々のこと、みんな何も言わないわ」
「そうですねぇ……。ともかく、心配してても始まらないし」
「そうそう」
「じゃ、おやすみなさい! また明日!」
洋子の元気の良さは、正に小学生ののり[#「のり」に傍点]である。
見帆も少し気持が軽くなって、電話を切った。
忘れない内に、と真珠のネックレスを出して来る。——これでいい。
明日のことを考えよう。楽しいことを。
見帆は、あの奇妙な電話のことを、頭から追い払おうとしたのだった……。