8 暗がりの殺意
「クゥーン……」
オフィスビルの中に犬の声がすることは珍しい。
「あら」
足を止めて振り返った松井見帆は、ちょっと目を見開いて、「この間のワンちゃんね。飼主はどこなの?」
「ここです」
と、亜由美がヒョイと顔を出す。
「あら、いらっしゃい」
と、見帆は微笑《ほほえ》んで、「この寒いのに。——大学は? あ、もうお休みなのね」
「ええ。それでちょっと突然に。すみません、前もって電話もしないで」
「構わないのよ。下の喫茶店でお茶でも、どう? あそこのチーズケーキはなかなかのもんよ」
「いいですね」
と、亜由美は即座に肯《うなず》いて、「でも、お仕事中じゃないんですか?」
「『お仕事中』よ。でもね、これぐらいのベテランになると、少々さぼっても誰も文句を言わないの」
と、見帆はちょっとウインクして見せた。
「このドン・ファンも構いませんか?」
「大丈夫よ、あの店のマスターは動物好きだから。何とかしてくれるわ」
それでは——というわけで、亜由美はドン・ファンと共に、見帆の後について行った。
——確かに、その店のチーズケーキはなかなかのものだった。
「結木君のこと?」
と、見帆は紅茶を飲みながら言った。
「ええ。——傷が回復して、またこちらで働いてる、って聞いたもんで」
「そう。だって、警察でも一応釈放されたんだし、不採用にする理由はないでしょう?」
「でも、よく会社の方で、採《と》ってくれましたね。あの田崎って課長なんか、絶対にいやがりそうなのに」
見帆は、ちょっと笑って、
「お察しの通り、とんでもない、って感じだったわ。でも、私がひとにらみしてやったの!」
と、肯いて見せた。
亜由美は、松井見帆のことが、大いに気に入った! こんな先輩は、めったにいるものではないだろう。
「まあ、当人もね、やっぱり気がねしてるから、今のところ、郵便係をやってるの」
「郵便係?」
「そう。会社の郵便物を出しに行ったり、配ったりする係で、いつもはオフィスじゃなくて、下の発送係にいるから、そんなに会社の人と顔を合わさずにすむしね」
「他の社員の方たちは、どう思ってるんですか?」
と、亜由美は訊いた。
「それがおかしくてね」
と、見帆は楽しげに、「女の子たちに凄《すご》い人気なの」
「人気?」
「だって、恭子さんのことを思い詰めて、自殺まで図ったっていうわけでしょう? 今どき、そんな純情な人、いたの、って、びっくりしてるわね」
「ああ、分りますね」
「もう、すっかりアイドル扱い。午前と午後に二回ずつ郵便を配って回るんだけど、あちこちで女の子たちが、手作りのクッキーを出したり、お昼に食べて、ってサンドイッチを渡してみたり……。配り終って、戻る時の方が荷物が多かったりするの」
亜由美は笑ってしまった。——でも、とてもいい話だ。
「私もホッとしたのよ」
と、見帆が言った。「みんなに白い目で見られたら、本人も辛いでしょうしね。でも、そんな心配は無用だったみたい」
「この間の成田の事件は、結木って子のやったことじゃないんです。犯人はきっと他にいるんです」
「危なかったようね、梶原さん」
と、見帆は真顔になって、「早く犯人が捕まってほしいわ……」
すると、喫茶店の中を覗《のぞ》き込む顔があった。亜由美が気付いて、
「洋子!」
「あ、亜由美。びっくりした。来てたの?」
と、洋子は入って来ると、「松井さん、上で大変なんです」
と、早口に言う。
「何なの?」
「田崎課長が——結木君と」
「田崎さんが?」
見帆がパッと立ち上る。
もちろん亜由美も、そして店の隅でミルクをもらっていたドン・ファンも、立ち上ったのである。
「しら[#「しら」に傍点]を切る気か!」
と、田崎が怒鳴《どな》る。
「知らないものは知りません」
と、結木が顔を真赤にして言い返す。
オフィスの廊下で、二人の視線は火花を散らさんばかりだった。
エレベーターの扉が開いて、見帆や亜由美たちが降りて来た。
「——待って下さい!」
と、見帆が声をかける。「何があったんですの?」
「君か」
と、田崎は唇をひきつらせて笑うと、「君のお気に入りの結木君がね、現金書留の金を盗んだのさ」
「何ですって?」
「嘘《うそ》だ!」
と、結木は言い返した。「僕はそんなことしません」
「田崎さん、何かの間違いじゃないんですか?」
「君は何かね、課長の僕より、このアルバイトの言葉を信じるのか」
と、田崎が切り口上になって、「こいつは警察の厄介になった奴《やつ》だぞ」
「それとこれとは別ですわ。その書留というのは……」
「見ろよ」
田崎が、現金書留の封筒を取り出して、「中には十万円入ってることになっている。ところが配られて来た時には、中は空《から》。はっきりしてるじゃないか。こいつが途中で失敬したのさ」
「まさか」
と、亜由美が言った。「そんな馬鹿なこと、誰がするもんですか」
田崎はムッとした様子で、
「何だ君は! 余計な口出しをするな!」
と、にらみつける。
こうなると、ますます強気に出るのが亜由美の性格。
「そんなことすりゃ、すぐに自分が疑われることぐらい、分り切ってるじゃありませんか」
と、言ってやった。
「利口な奴なら、警察の厄介になるようなことはしないさ」
と、田崎はせせら笑って、「女のために手首を切るなんて奴のすることだ。馬鹿で当然さ」
「何だと!」
と、結木が体を震わせている。
怒って当然。——しかし、何だか妙だな、と亜由美は思った。この田崎の絡《から》み方、普通じゃない。
わざと結木を怒らせようとでもしているみたいだ。——そうか!
田崎は、結木が手を出す[#「手を出す」に傍点]のを待っているのだ。田崎を殴れば、理由はどうあれ、結木はこの会社にいられなくなる。
何てずるい奴! 亜由美は先に田崎をぶん殴ってやろうかと思った。何といっても、亜由美なら、この会社をクビになる心配は(当然のことながら)ない。
「田崎さん、それは言いすぎです」
と、見帆が間に入った。
「君は泥棒の肩をもつのか」
と、田崎は言った。「それとも、その金で、こいつとホテルにでも行くのか」
見帆が青ざめる。結木が拳《こぶし》を固めた。——危い!
田崎が見帆に悪口を浴びせたことで、結木の怒りが頂点に達したのだ。
今にも、結木が殴りかかるかと思った時、
「すみません」
と、声がして、「その書留のことですけど……」
まだ若い、入りたてっていう感じの女の子が立っていた。
「その書留、私が田崎課長に言われて出したんです」
と、その子は言った。
「あなたが?」
「はい。でも、中はどう触ってみても空《から》でした。私、心配になって、田崎さんに『これでいいんですか』って訊《き》いたんです。課長さん、『黙って出してくりゃいいんだ』って……。でも、どうしてこの会社[#「この会社」に傍点]あてに出すんだろうって、不思議だったんです」
思いもかけない伏兵の出現で、田崎の方は立場がなくなってしまった。
「——田崎さん」
と、見帆が冷ややかに言った。「結木君を辞めさせるためにしても、やり方がひどすぎませんか」
「うるさい!」
と、田崎は声を震わせた。「こんな奴を置いとくのは、会社のためにならないんだ。俺《おれ》は会社のためにやったんだ!」
冷ややかな沈黙が、田崎を囲んだ。——苛立《いらだ》った田崎は、突然拳を固めると、
「こいつ!」
と、結木に殴りかかろうとした。
その時、ドン・ファンがタタッと床を走って、パッと宙へ飛んだ。
「ワアッ!」
いきなり、茶色の胴体が目の前に飛んで来りゃ、誰でもびっくりする。田崎は、みごとに引っくり返って、したたか腰を打ち、しばし、立ち上れなかった……。
「——さ、結木君、もう行って」
と、見帆は促《うなが》した。
「すみません」
結木は一礼して立ち去る。
田崎が、顔をしかめつつ、やっとこ立ち上った。
「——今に後悔するぞ!」
と、見帆に向って怒鳴り、書留の件をばらした女の子へ、「貴様はクビだ!」
と、大声でわめいた。
その子はムッとした様子で、
「言われなくたって、こっちの方から願い下げよ。イーだ」
と舌を出した。
田崎は真赤になって、腰をさすりながら、行ってしまった。
「みっともない奴」
と、亜由美は言った。「ドン・ファン、よくやった」
「ワン」
「でも……」
見帆の声は、穏やかになっていた。「可哀そうな人」
その呟《つぶや》きは、亜由美をハッとさせるほど、寂しげな響《ひび》きを持っていた。
誰も彼も……。
足がもつれて、田崎はフラッとよろけた。
「フン!——畜生め」
誰も彼も、俺を馬鹿にしてやがる!
酔ってはいたが、胸の中は一向に燃え立たず、苦いものばかりが渦を巻いていた。
俺は課長だぞ。それなのに、部下の奴らまでが、俺のことをせせら笑っていやがる。
松井見帆の奴まで……。
あいつは——あいつだけは、俺のことを分ってくれていると思っていたのに。
結木みたいな奴の味方になりやがって! 俺に抱かれて、いい気持になっていやがったくせに!
俺は……俺は、何者なんだ?
家へ帰りゃ、女房は冷たい目で俺を見下すし、娘も口をきかない。
「酔っ払いは嫌い」
だと?
ふざけやがって!——どうして俺が酔ってると思うんだ!
何も好きで……好きで酔ったんじゃない、初めは。
しかし——昔は良かった。
そうだ。女房も、ハネムーンのころにゃ、可愛《かわい》かった。俺に頼って、いつも心細そうにしてたもんだ。
俺は……娘のことだって、ずいぶん可愛がったんだ。あいつも、小さいころはいつも俺を追い回して……。出張に出るって言うと、泣いたもんだ。
あのころは——そうさ、可愛かった。
みんな、そんな昔のことは憶えていやしない。良かったころのことは、忘れてしまうんだ……。
——もうすぐ家か。
どうせ女房は先に寝てて、起きても来ないさ。いつ亭主が帰ったかも、知るまい。
あいつのベッドに入って行っても、冷たく拒《こば》まれるだけで……。
おっと。——何だ、気を付けろ。
田崎は、暗がりの中で、誰かに突き当られて、よろけた。
フン、酔っ払いめ。
そうか。——俺も酔っ払いか。
田崎は声を上げて笑った。痛みが、腹に走った。——何だろう?
どうしてこんなに痛いんだ? おい……。
歩けなくなった。
田崎は、膝《ひざ》をつき、片手をついて、辛うじて冷たい路面に転がらずにすんだ。しかし、もう一方の手で、痛い所を押えた田崎は、手がべっとりと濡《ぬ》れるのを感じた。
血か[#「血か」に傍点]? これは——血なのか?
俺の血が、なぜ……。
誰かが、俺を刺したんだ!
やめてくれ! 何てことだ……。
早く覚めてくれよ、こんな夢は。こんなひどい夢があるかい。
俺が一体何をしたって……言うんだ?
田崎は、路面に突っ伏した。アスファルトの冷たさも、やがて感じなくなる。
——田崎の意識は、プツンと切れるように絶えた。
珍しく、妻が彼の帰りを待っていたことも、知らなかった……。