2 母の恋敵
「すみませんでした、本当に」
と、津田郁江——恵子の母親——は、亜由美にお茶を出しながら、言った。
「いいえ。ああいう手合は、こっちの方が意表を突いた出方をする必要がありますわ」
と、亜由美は言って、お茶菓子をつまむ。
「おいしい!」
どうして、うちで食べるお菓子と、こんなに違うんだろ? 謎《なぞ》だわ、と亜由美は思った。
「でも、先生、凄《すご》い!」
と、すっかり恵子は尊敬の眼差で、「凄い才能!」
「まあ——そう言われると照れるわね」
と、亜由美はニヤニヤして、「ちょっとTVに出てみない、とか誘われることもないではないのよ」
「本当! お笑い番組にぴったり!」
——恵子としては、賞《ほ》めているらしかったのだが。
「困ったもんですわ、あんな昔のことを今さら……」
と、津田郁江はため息をついた。
郁江は、若いころは美人だったろうと思える端正な顔立ちで——今でも四十そこそこだから、美人ではあるが——いかにも良家の令嬢がそのまま年齢《とし》を取った雰囲気を身につけている。
よく恵子も、
「うちのお母さん、世間知らずだから」
なんて言っているくらいである。
「でも、本当なんですか、ご主人があの女性の——」
つい、亜由美も好奇心を発揮する。
「ええ、私はすぐに気が付きました。主人は幸い仕事でアメリカに行っているので、まだ何も知らないと思いますけど」
「じゃ、奥さまもあの女の人を?」
「風間涼子さんですか? ええ、知っていましたわ」
と、郁江は肯《うなず》いた。「主人の家と私の家とは、古くからのお付合いですから、子供のころから互いによく知っていました。この家で、主人が、あの女《ひと》を、紹介してくれたんです」
「そうですか……」
「とてもきれいな、芯《しん》の強そうな人でしたわ。主人はもうお坊っちゃんで……。ああいうしっかりした人にひかれたのは、よく分ります」
「でも……。まさかあんなことになるなんてねえ……」
「本当にひどい話ですわ」
と、郁江は首を振った。「誰があんないい人を殺そうなんて思うんでしょうか。——恵子、もうお部屋の方はいいの?」
「うん、もう片付いてる」
亜由美もハッとした。
何をしに、この家へ来たのか、思い出したのである。
——二階の恵子の部屋に上って、亜由美はその広さにため息をつく。
亜由美の部屋の四倍——いや五倍もある! 何しろ立派な応接セットが置いてあるのだから。
「さて、この間の問題集、ちゃんとやってくれたかな」
と、亜由美は言った。「分らなかったところを、一緒にやろうね」
「うん。全部分った」
「——あ、そう」
可愛い子には違いないのだが、時として憎らしいとも思えて来る。
「ね、先生」
「何?」
「心配なの」
と、恵子は、一人前に額《ひたい》にしわなど寄せて言った。
「何が?」
「あの女の人、殺したの、お母さんじゃないのかなあ」
亜由美は仰天して、
「何言い出すの!」
「だって……。お母さんは、小さいころから、お父さんと……何ていうの? いいなずけ?」
「フィアンセね。つまり、結婚するものと決ってた?」
「そう。そこへあの風間涼子って人が割り込んで来たんだもの。面白くないよね、お母さんだって」
「そりゃまあね。でも、大丈夫よ。お宅のお母さん、人殺しなんかしやしないから」
「分んないよ」
と、恵子が真剣に言う。「うちのお母さん、外見はおとなしそうだけど……。カッとなると、凄《すご》く怖い人なの」
「へえ」
すっかり、勉強そっちのけである。
「私、びっくりしたことがあるもん」
「何かあったの?」
「あのね、これ、内緒ね」
と、恵子が声をひそめて、「うちのお父さん、女を作ってたことがあるの」
「へ?」
「女よ。愛人。二号さん。分るでしょ?」
「わ、分るわよ」
亜由美は、何とか教師としての(?)威厳を保つべく、「先生だって大人ですからね」
と、胸を張って見せたりした。
「女の人を、マンションに住まわせてね。でも、お父さん、根が正直で、気の小さい人だから、すぐ見抜かれちゃうの」
娘にこう言われちゃね。亜由美は苦笑した。
「お母さんが、お父さんを問い詰めて……。夜中で、私がもう寝てると思ってたみたいだけど、何だかムードが険悪なんで、起きてたんだ。そしたら夜中に始まって……。凄かった! お母さん、刃物持って、お父さんに——」
「本当?」
と、亜由美は目を丸くした。
「うん! でも、お父さんを刺そうとしたんじゃないの。刃物をこう、自分の喉《のど》に突きつけてね——『私が邪魔なら、そう言って! 今、ここで喉を突いて死ぬから!』って叫んで」
「へえ……」
ああいう、外見がおとなしい人は、結構そんなものかもしれない。
「お父さん、床に這《は》いつくばって、『僕が悪かった! あの女とは別れるから、やめてくれ!』って。私、見てて感動しちゃった」
今の子は、妙なことに感動するものだ。
「で、その女の人とは別れたの?」
「うん、お母さんが会いに行ったみたい」
「よく殺さなかったね」
「ちゃんと、その女の人にお金を渡して、別れさせたみたい」
「なるほどね。——恵子ちゃんも、色んなこと知ってるんだ」
と、亜由美は感心して言った。
「そりゃ、もう子供じゃないもん、私」
小学校の六年生にそう言われると、亜由美としても立場がない……。
「じゃ、お勉強しましょうか」
と、亜由美は言った。「さて、この前はどこまでやったっけ?」
しかし、この夕方は、どうせ大して身も入らなかっただろうが、やはり二人が勉強できないように決められていたらしい。
亜由美が教科書をめくり始めると、家の外で、けたたましいクラクションの鳴る音がして、亜由美は仰天した。
「何、あれ?」
と、亜由美が言うと、恵子の方は、パッと立ち上って、
「おじいちゃんだ!」
と、言った。
「おじいちゃん?」
恵子は、亜由美が止める間もなく、部屋から飛び出して行ってしまった。
やれやれ……。ま、いいか、今日は。
正直なところ、自分も少しホッとしながら、亜由美は教科書を閉じたのだった。
「——私の家庭教師の先生よ」
と、恵子が亜由美を紹介した。「可愛いでしょ。おじいちゃんの好みじゃない?」
「恵子ったら」
と、郁江が苦笑する。
「いや、どうもいつも孫がお世話になっております」
もう七十にはなっているはずの、津田誠一は、亜由美の手をびっくりするほどの力で、握った。
「どうも」
と、亜由美は頭を下げた。
「孫から、先生の武勇伝を聞きましたぞ。いや、大したものだ。私も見物したかった」
と、津田誠一は笑って言った。
「先生、またやって」
「もうだめよ」
と、亜由美は赤くなって言った。
「しかし、全く、うるさい連中だ!」
と、津田誠一は腹立たしげに、「あんなのは馬でけちらしてやればいいのだ」
どうも、この「会長様」は、大分怒りっぽいと見える。
今は息子の津田恵一に社長のポストを譲って、この誠一は会長の職にある。その辺は、恵子から聞いていた。
「——会長」
と、居間へ入って来たのは、パリッとした三つ揃いを着込んだ男。〈秘書〉という看板をしょって歩いてるようなタイプである。
「井川さん」
と、郁江は言った。「あの人たち、どうしてる?」
「何とか引き揚げさせました。お任せ下さい。私がうまくやりますよ」
「助かるわ。主人が帰った時が心配で」
と、郁江は言った。
井川は、津田誠一の秘書だということだった。万事に機転のききそうなタイプ。
井川が、郁江の言葉を聞いて、ちょっとけげんな様子で、
「社長から、ご連絡はないんですか」
と、言った。
「え? だって明日までニューヨークでしょう」
「いや、今日の午後、お帰りですよ。社に顔を出しておられたし」
井川と郁江の話は、津田誠一の耳には届いていなかった。孫の話相手をして、楽しんでいたからだ。
しかし、ちょうどその中間にいた亜由美の耳には入って来たのだった。
井川の言葉に、郁江の顔がサッとこわばるのを、亜由美は見た。しかし、それはほんの一瞬で……。
「じゃ、もう帰るわね」
と、すぐに穏やかな笑顔になる。「——お義父《とう》さん、夕食をご一緒に。恵子も喜びますから」
「うん、そのつもりだ」
と、誠一は言った。「恵子が、ちゃんとピーマンを食べるようになったかどうか、見てやる」
「スープにすれば飲めるよ」
と、恵子はむきになって言っている。
「あの——」
と、亜由美は言った。「今日はさっぱり勉強できませんでしたので、お月謝からは抜いておいて下さい。私、もう失礼します」
「何だ、一緒に食べてってよ、先生」
と、恵子が来て、亜由美の手を引張る。
「ありがと。でもね、うちで仕度して待ってるし……」
「いや、ぜひ私の隣に座ってほしい。食事の時は、隣に若く魅力的な女性がいるかどうかで、ぐっと違って来るんですぞ」
と、また誠一が、うまいことを言う。
「でも、私は——」
「もう用意させておりますから。今日は、恵子を助けて下さったんですし」
「そうですか。でも……」
聡子に、夕ご飯食べようと言って来ちゃった。でも……。
この面々の話にも、興味があった。この、津田誠一も、当然風間涼子のことを、よく知っていたのだし……。
きっと後で聡子からは「裏切り者!」とののしられるだろうが、仕方ない。
私は別に食い意地が張ってるわけじゃないのよ。そうよ。ただ、これが何かのきっかけになって、事件が解決しないとも限らない……。
色々、自分に言いわけしながら、結局、亜由美は津田家の豪華な食卓についていたのである。