6 不安な女教師
応接室へ入って来た津田恵一は、意外そうに目を見開いた。
「こりゃあ、先生。うちの恵子が、何だかご迷惑を——」
「いいえ、とんでもない。気にしないで下さいな」
と、言ったのは、もちろん亜由美である。
「あの……警察の方がみえたと聞いたんですがね」
「私です」
と、殿永が自己紹介して、「こちらの塚川さんとは、旧知の間柄でして」
「そうでしたか! しかし……。先生、お若く見えますね」
亜由美は少々カチンと来て、
「旧知[#「旧知」に傍点]といっても、新しいんです」
と、妙な弁明をした。
「ま、どうぞ」
と、津田恵一はソファにすわった。「いずれおみえになると思っていましたよ」
「どうも大変なようですね」
と、殿永は言った。
「いや、全く、困ってます」
と、津田恵一は苦い顔で、「ビルの前にはいつもTVのレポーターやカメラマンが待ち構えているし、仕事の電話だというので出ると、『一言、風間涼子さんのことでコメントを』と来るんです」
「ほんのしばらくのことでしょう」
「そうでなきゃ困ります。——恵子が、先生のお宅にご厄介になっているのも、その点では、助かっています」
と、津田恵一は言った。
「でも、恵子ちゃんは、ご両親が何だか仲良くしていない、と言って、うちへ来てるんですよ」
亜由美の言葉に、津田恵一は、
「面目ない話です」
と、頭をかいた。「別に……その、喧嘩《けんか》とかいうわけでもないんですがね」
「今度の風間涼子の事件と関係が?」
と、殿永が訊《き》く。
「まあ……いくらかは」
と、渋々|肯《うなず》く。「何といっても、郁江も、彼女のことを知ってました。今になって、彼女がまるで〈天使のような女〉にされては、郁江の立場としては、面白くありません」
「当然ですな」
と、殿永は肯いて、手帳を開くと、「さて——事件のことですが」
「何分、十五年も前のことですから」
「よく承知していますよ」
殿永の訊き方は、決して威圧的ではない。しかし、そこがなかなか曲者《くせもの》なのである。
「あんな所から、風間涼子の死体が見付かるなんて、想像しましたか?」
「とんでもない!」
と、津田恵一は強く首を振った。「大体、あんな所に部屋があったなんて……」
「当時の図面を見付けましてね」
と、殿永はページをめくった。「あの空間は、小さな物置になっていたようです。ところが、水が洩《も》って、下の板が腐り出したんですね。それで、ああしてふさぐことになったそうです」
「しかし、どうしてあんな所に彼女が——」
「あの日、ちょうど、その壁を塗ったばかりだったんですよ。その夜に、風間涼子は姿を消した。——つまり、殺されたわけです」
「じゃ、犯人は、それを知っていたということですか」
「まあ、そうでしょう。彼女を殺し、死体をどうしたものか、困った。そして、ふと、新しく塗ったばかりの壁のことを思い出した……」
「しかし、犯人は、その中へ彼女を入れて、また壁を塗ったわけですか」
「そうです。ただ、もともと、下にベニヤ板を貼《は》って、それの上に塗ったというので、どっちにしろ、素人《しろうと》の仕事だったんです」
「そうですか。すると、誰でも、その気になれば……」
「できないことはなかったでしょう」
と、殿永は肯いた。「我々も残念です」
「どうしてウェディングドレスを着ていたんでしょう」
と、亜由美が言った。「津田さん、お心当りは?」
「いや、一向に。——彼女のために用意したのは、あの当時としては、相当に高価なものでした」
と、津田恵一は言った。
「そうでしょう」
と、殿永は言った。「あの死体が身につけていたもののメーカーを、何とか突き止めました。そこの話では、至ってシンプルな、あまり値の張らないものだったそうですよ」
「なるほど。しかし、誰が一体そんなものを——」
「もちろん、今となっては、誰が買ったのかまでは、調べようがありません。ただ、犯人が風間涼子を殺してから着せたとは思えないのです」
「というと?」
「つまり、あのウェディングドレスのどこにも血痕《けつこん》らしいものはついていませんでした。それに、もちろんボロボロになってはいましたが、力ずくで引張って裂けたような部分は見当らなかったのです」
「つまり、彼女が自分で着た、ということですか」
「脅されて、という可能性はありますが、ともかく、自分で着たことは確かでしょうね」
と、殿永は肯いて言った。
「——全く、見当もつきませんね、何があったのか」
と、津田恵一は首を振って、言った。
「あなたは、たとえば風間涼子が、誰かから求婚されていたとか、そんなことを聞いたことはありませんでしたか」
殿永に訊かれて、津田恵一は、しばらく考え込んでいた。
「——どうかなさいました?」
と、亜由美が言うと、
「ああ、いや……。そのことは、彼女がいなくなった十五年前にも、ずいぶん訊かれたし、考えました。そして、この間、彼女が発見されてから、また必死に思い出してみたんです……」
「何か思い当ることが?」
津田恵一は、少しためらいながら、
「十五年という年月は、短くありません」
と、言った。
「もちろん、あなたが、昨日のことのように鮮明に、当時のことを憶えておられるとは期待していませんよ」
と、殿永が言うと、
「いや、そういう意味じゃないのです」
津田恵一は首を振って、「あの時には何でもないと思えたことが、今、この年齢になって考えると、何か意味あることのように思えて来る、と。——そんなこともあるんですね」
「なるほど」
「式の前になって、涼子は、何となく悩んでいる風でした。それまで、彼女は、何につけても、迷いというものを見せない女《ひと》だったのです」
津田恵一はすわり直して、「結婚を承諾する時も、もちろん、彼女なりに充分考えたに違いないのですが、決して迷いはしませんでした。教職を続けるという条件を出した時も、それはだめだと言われたら、ためらわずに、結婚を断ったでしょう」
「なるほど。ところが——」
「式の間近になって、彼女はどうも時々、沈み込むようになったんです。しかし、こっちはもう、すっかり舞い上ってしまってますからね、そんなことなど、気にもしていません。女なら、色々悩むもんなんだろうな、ぐらいに考えていましたから」
「それが、今になってみると、気にかかる、というわけですね」
「そうなんです」
津田恵一は肯いて、「今思い出してみると、確かに、式の前になって、涼子は迷っていた。彼女らしくないことです。——一体、何があったのか、訊いてみるべきだったんでしょうが……」
「何か、手がかりになりそうなことを、一言も言わなかったんですか」
「ええ……」
津田恵一は、少し口ごもった。「いや——実は——もう十五年も前のこととはいえ、お話ししにくいことなんですが」
——亜由美と殿永は、じっと津田恵一が口を開くのを待っていた。
当人が話す気持になりかけている時、下手《へた》にせっつくと、却《かえ》って口を閉じてしまうこともあるのだ。その辺、亜由美も殿永から学んでいた。
「まあ、笑われそうなことですがね」
と、津田恵一は、ちょっと笑って、「——僕と風間涼子が初めて、その……ホテルに泊ったのは、式の一週間前だったんです」
「へえ」
と、亜由美は、つい妙な声を上げてしまった。
「まあ、その前にもキスぐらいはしてましたが、何しろけじめ[#「けじめ」に傍点]ってものをうるさく言う女性でしたから、そういうことは結婚まではだめだ、と言われてたんです。当人がだめ、と言えばもう、これは絶対無理ですからね。こっちも諦《あきら》めてました。ところがその時は、彼女の方から、僕を誘ったんです。これにはびっくりしました」
「何か、特別のきっかけでもあったんですか?」
「いいえ。普通に食事をして、式の打ち合せをしていたんです。彼女は酔っていたわけでもないし、特にロマンチックなお膳立てが揃《そろ》っていたというわけでもないのに、突然、『今夜、どこかに二人で泊りましょうよ』と言い出したんです」
「何か理由を訊《き》きましたか?」
「いいえ。こっちはもう即座にOKで、近くのホテルの部屋を取って……。彼女は男は初めてでした。——あの時、きっと、彼女は不安だったんだと思います。何か、彼女を不安にさせるものがあったんです。しかし、鈍い僕は、全く、そんな彼女の気持に気付かなかったんです」
と、津田恵一は、ため息をついた。
亜由美は、少し間を置いて、
「立ち入ったことをうかがいますけど」
「何ですか?」
「今、奥様の他に、恋人はいらっしゃるんですか?」
津田恵一は面食らった様子で、
「とんでもない!——ああ、恵子の奴《やつ》ですね。何しろませた子で」
と、苦笑して、「確かに、以前、一度だけ女をマンションに住まわせていたんですが、アッという間に家内に見抜かれ、平謝りです。それでこりて、以後は真面目《まじめ》なもんですよ」
「それがいいです」
殿永が真面目くさった顔で、「古女房にまさるものは、決してありません」
と言った……。
まあ、結局、津田恵一から、決定的な証言は得られなかったわけである。
「何しろ十五年も前じゃね」
と、殿永は、亜由美を車で家まで送ってくれて、「——どうも、連れ出して、すみませんでしたね」
「いいえ。殿永さん、寄って行ったら? きっと母が喜ぶわ」
「そうですね」
と、殿永は車を停《と》めて、「それに津田恵一の娘にも会ってみたいし」
二人して、塚川家の玄関を入ると——。
「ただいま」
亜由美は、上って、「お母さん、殿永さんよ。——お母さん」
居間へ入って、亜由美は、思い出した。今日は、父が休暇を取って、家にいるのだ。
「お父さん……」
と、亜由美はそっと声をかけた。「お母さんと恵子ちゃんは?」
「黙っててくれ……」
と、父はじっとTVを見つめて、すすり泣いている。「今、哀れな少女ジュリーが、母と引き裂かれるところなんだ。何という運命の残酷さ……」
——こりゃだめだ。
目を丸くしている殿永に、
「父は少女アニメの大ファンなんです」
と、説明して、「決して変な人じゃないんですけどね」
と、念のために、付け加えた。
「いや、よく分ります。私も〈ハイジ〉を何回くり返して読んだか……」
と、殿永が慰めるように言っていると、
「あら、いらっしゃい」
と、母が二階から下りて来た。
「お母さん、どこにいたの?」
「お前の部屋よ」
「私の部屋?」
「恵子ちゃんに、昔のお前のアルバムを見せてあげてたの。——殿永さん、どうぞお茶でもいれますわ」
「恐れ入ります」
亜由美は、
「ふーん。昔のアルバムね……」
と、肯《うなず》いていたが、やがてサッと青ざめると、「やばい!」
ダダダッと階段を駆け上った。
「——やっぱり!」
自分の部屋へ飛び込んだ亜由美は、恵子とドン・ファンが、一緒になって、下にズラッと亜由美の成績表を並べているのを見て、天を仰いだ。
「あ、先生、お帰りなさい」
と、恵子が言った。「ごめんね、勝手にこんなもの見て」
「いいのよ。どうせうちの母が見せたんでしょ」
と、亜由美は肩をすくめて、「ま、あなたも、もっといい家庭教師を捜すのね」
「え? 先生、辞めるの?」
と、恵子が目を見開く。
「だって——それを見りゃ分るでしょ。私が教えてたんじゃ、あなた来年受験しても、絶対に合格しないわよ」
こんなに素直で、正直な家庭教師がいるだろうか? 亜由美は自分で感動していた。
「ワン」
「あんたが同感[#「同感」に傍点]なんて言わなくてもいいの」
と、亜由美は、愛犬をにらんでやった。
「先生って大好き!」
と、恵子は明るく言った。「たとえ、落ちたって構わないの。先生にずっと教えてほしい」
「まあ……。本当?」
亜由美は、胸が熱くなって、つい目頭が……。涙もろいのは、父親の血筋かもしれなかった。
「本当! 男の子の引っかけ方とか、ベッドでどうしたらいいかとかも」
「ちょっと!」
亜由美は、焦《あせ》って、「まさか、恵子ちゃん、その年齢《とし》で——」
「大丈夫。口だけよ」
完全にのせられている。——亜由美はともかく、成績表を片付けて、引出しの奥深く、放り込んだのだった。
「——この写真、可愛い!」
と、恵子が取り出したのは、亜由美が中学生ぐらいの時の写真で——。
「ああ、これ。学芸会でね、私が花嫁の役だったの」
作りもののウェディングドレスを着て、得意げな顔をしている。——確かに、うっとりするほど可愛い(本人が言うのだから、間違いない)。
「王子様か何かと結婚するの?」
「いいえ、狼男《おおかみおとこ》となの」
と、亜由美は言った……。