8 孤独な女
「——刈谷《かりや》和子ですか」
と、その受付の女性は言った。「ええ、おりますが」
「殿永という者です。ちょっとお目にかかってお話ししたいんですが」
「お待ち下さい」
と、受付の女性は奥へ入って行った。
殿永は、古ぼけたオフィスの中を見回した。
薄暗い中、黙々と仕事をしているのは、ほとんどが中年の主婦らしい女性。
どう見ても、「明るく楽しい職場」とは言えなかった。
「——何ですか」
と、出て来たのは、くたびれた様子の、顔色の悪い女性だった。
仕事は大変でも、それなりに輝いて見えた池山香子とは大分違う。
「刈谷和子さん?」
「ええ」
と、その女は、何十年前のデザインかと思う事務服の、破れかけたポケットに手を入れて、「困るんですよ、仕事中に呼び出されるのは。五分以上席を立つと、一時間当りの賃金の半分、カットされちゃうんです」
「半分も?」
「トイレだって五分以内で戻らなきゃ——」
と、言いかけて、刈谷和子は、ちょっと頬《ほお》を染めた。「ごめんなさい。疲れてるもんですからね。つい……」
「いや、公用ですから、何でしたら、あなたの上司の方に私が話をしますよ」
と、殿永は、警察手帳を見せた。
「——警察の方?」
と、和子は目を丸くした。
「ええ。池山香子さんから、連絡はありませんでしたか」
「香子から……。そういえば、ゆうべ電話が鳴ってたけど、酔っ払ってて、出るのも面倒でね……」
「お酒を?」
「唯一《ゆいいつ》の楽しみですもん」
「でも、体をこわされてるんじゃありませんか」
「まあ、さすがは刑事さんね」
と、和子は笑って、「胃に穴があいたことがあるわ」
「アルコールも、ほどほどに」
「お説教にみえたんですか?」
「いいえ。——実は、ご存知でしょうが、風間涼子さんのことで」
「ああ……」
と、和子は大してびっくりした様子もなく、肯《うなず》いた。「じゃ——分ったんですね」
「四人組で、彼女にウェディングドレスを着せたことは、池山香子さんから、うかがいました」
「そうですか」
と、和子は言った。「じゃ、何をお訊《き》きになりたいの?」
「いや、別に、あの池山さんのお話を、疑っているわけじゃありません。しかし、何といっても十五年も前の話ですしね。四人の方々にお話をうかがって、思い違いや、記憶違いがないか、確かめたいのです」
殿永の話し方は穏やかだった。
「——よく分りました」
と、和子は肯いて、「ちょっとお待ちいただけません?」
「構いませんよ」
と、殿永は言った。
「じゃ、ちょっと——」
和子は、その会社のオフィスを出ると、廊下を急いで歩いて行った。
殿永は、その後姿を見送っていたが、ふと眉を寄せると、
「——失礼」
と、仏頂面で週刊誌をめくっている受付の女に、「この廊下をあっちへ行くと、何があります?」
と、訊いた。
受付の女はポカンとして、
「あっち? 何もないわよ」
「何も?」
「非常階段だけ」
「なるほど……」
殿永は、一瞬、考えると、すぐに駆け出して行った。受付の女は、呆気《あつけ》に取られていたが、
「身投げでもするのかしら」
と、呟《つぶや》いて、肩をすくめた。
殿永は、廊下の突き当りの扉を開けて、非常階段へ出た。
足音がする。——コトコト。上って行く。
屋上へ向っているのだ。
殿永は、その軽いとはいえない体には似合わない素早さで、階段を駆け上って行った。
しかし——やはり地球には重力[#「重力」に傍点]というものがある。体重は、いくら焦《あせ》っても、軽くすることはできないのである。
ハアハア息を切らしながら、やっと殿永は屋上へ出た。
見回すと——刈谷和子が、手すりをまたいで、乗り越えようとしている。
「やれやれ」
と、のんびりした調子で、殿永が言うと、和子がギクリとして振り返った。
「放っといて下さい!」
和子は、震える声で言った。「死ぬんですから、私」
「いやどうも……。こっちも死にそうですよ、本当に」
殿永は、五、六メートルの所まで来ると、そこにペタンと座り込んでしまった。
和子は、手すりをまたいだまま、呆《あき》れた様子で、
「何をしてるの?」
と、訊いた。
「いや、息が切れて、めまいがするんです」
と、ハンカチを出して、額《ひたい》を拭《ぬぐ》う。
「刑事でしょ。そんなことでつとまるんですか」
「全く、面目ない話です」
と、殿永は頭をかいて、「しかし、要は犯人が分ればいいわけでして」
「そりゃそうでしょうけど」
「あなたが、風間涼子を殺した、ということで一件落着ですな」
和子は、むきになって、
「私、先生を殺してなんかいません」
と、言った。
「じゃ、どうして刑事が来たからといって、飛び下りるんです?」
「それは……。先生が呼んでるからです」
「呼んでる? あなたを?」
「ええ」
——殿永は、ゆっくりと肯いて、
「分りました。あなたは風間涼子を愛してたんですな」
と、言った。
「そうです。本当に、心から愛してました」
と、和子は言った。「誰が殺したりするもんですか」
「しかし、先生が結婚すると聞いた時は?」
「そりゃあ……ショックでした」
と、和子は顔を伏せた。「でも——仕方ないことです。先生がそれで幸せになれるのなら……。先生にウェディングドレスを着せて、私、感激で涙が出そうになったもんです」
「なるほど」
「服を隠したりするのは、いやだったけど……。でも、先生だって、許してくれたと思います。そりゃあ、優しい人だったんですもの」
「今、あなたが飛び下りてしまえば、その優しい先生を、あなたが殺したことにされてしまいますよ」
と、殿永は言った。「それじゃ、犯人を喜ばせるだけだ。そうでしょう?」
「犯人……」
と、和子は呟《つぶや》いた。
「犯人が誰か、知ってるんですか?」
「いいえ」
と、和子は強く首を振った。「知っていたら、私が生かしておきません」
「こりゃ怖い」
と、殿永は目を見開いた。「しかしね、もしかすると犯人が分るかもしれませんよ」
「本当ですか?」
「あの死体が今になって現われたのは、先生が、犯人を見付けてくれ、と訴えているのかもしれない。そう思いませんか?」
「ええ……」
「じゃ、生きて、犯人が捕まるところを、見て下さい。死んでしまっては、見られませんよ」
殿永の言葉は、和子の、こわばった体を少しずつほぐして行くようだった。
和子は、手すりから下りて、
「でも……。どうせ長くないんです、私」
と、言った。「夫ともうまくいかずに別れましたし、人に迷惑ばかりかけています。今の職場でもそうです」
「そうですか?」
殿永は、やっと立ち上って、お尻《しり》を払うと、
「さ、行きましょう」
と、促《うなが》した。
「——そうなんです」
と、階段を下りながら、和子は言った。「不器用で、いつまでたっても、手ぎわが悪くて。つくづく自分がいやになりますよ」
「それは困ったもんだ」
「ねえ。だから、こういう女は早く死んだ方がいいんです」
「しかし、案外そうでもないかもしれませんよ」
殿永の言葉に、和子は、不思議そうに、
「そう思われます?」
「ええ、まあね」
と、殿永は肯いて、「ところで、十五年前のことですが、四人が学校を出て、そこで別れたんですね」
「そうです」
「その後、誰かが[#「誰かが」に傍点]学校へ戻りませんでしたか?」
和子は、階段を下りる自分の足下を見つめながら、
「私です」
と、言った。「でも——また思い直したんです」
「戻ろうとしたのは、先生に服を返してあげようと?」
「ええ」
「思い直したのは?」
「どっちにしても、服はもう汚れていて、着られないだろうと思ったからです。先生に叱《しか》られたら、悲しいですし」
「それでまた学校を出た」
「そうです」
「その時、誰か学校へ入って行く人間とかを見ませんでしたか」
「さあ……」
と、和子は考えて、「何しろ、こっちの方が、誰かに見られていないか、心配でしたから」
「なるほど」
「でも——」
と、和子は言った。「そう。車[#「車」に傍点]を見ましたわ」
「車?」
「ええ。車が走って来たので、急いで、電柱のかげに隠れたのを、憶えてます」
「車ね……」
と、殿永は肯いて、「ただ通っただけですか?」
「だと思いますけど……。やりすごして、すぐにこっちも逃げてしまいましたから」
と、和子は言った。「ただ、あの辺、夜は車なんかめったに通らないんです」
「ほう」
「車で行かれると分ります。学校の前の道は、他の道を通る車には、遠回りなんです。学校へ行くだけしか、普通、使わない道なんです」
「それは面白い」
と、殿永の目が光った。「じゃ、その車も——」
「学校に来たのか、それとも、ただ道に迷ったのかもしれませんけど」
と、和子は肩をすくめた。
「そうかもしれませんな」
殿永は、もういつもながらの、おっとりした調子で、「どんな車だったか、憶えていますか?」
「いいえ。夜でしたし——それに、私、車のことはさっぱり。オートバイか四輪か、ぐらいしか分らないんですもの」
と、和子は笑った。
——会社の前まで戻って来ると、
「いや、ご迷惑をかけましたね」
と、殿永は言った。
「とんでもない。——あなたと会って、何だか死ぬ気がなくなりました」
「よく言われるんです。歩くドリンク剤とね」
「まあ」
と、和子は笑った。
受付の所まで二人で入って行くと、
「ちょっと!」
と、巨大な体の女性が現われた。「刈谷さん」
「はい」
「何してんの? あんたはね、他の人より仕事がのろいのよ。さぼってばっかりいて! それでお金をもらおうっていうの?」
凄《すご》い迫力だった。
「すみません」
和子が首をすぼめる。
「いや、どうも申し訳ありません」
と、殿永が進み出て、「私が、用事でこの方を引張り出してしまったんです」
「あんた何よ?」
と、女傑は、ジロッと殿永をにらんだ。
「はあ、こういう者で」
警察手帳を覗《のぞ》かせると、相手もびっくりした様子で、
「な、何のご用?」
と、口ごもる。
「実は、今、話題になっている、ウェディングドレスを着た死体の話、ご存知でしょう」
「ええ、まあ……」
「実は、こちらの刈谷さんは、あの被害者の教え子でして、重要な証人なんです」
「まあ」
と、飛び出しそうな目になる。
「ですからどうしても、お話が長くなりましてね。いや、申し訳ない」
「そりゃ——でも——仕方のないことですわねえ」
「いや、そうおっしゃっていただけると助かります」
殿永はニッコリ笑って、「あなたは大変頼りになりそうな方だ」
「そ、そうかしら? まあ——たいていの男なら、のしてやるわ」
と、変な自慢をしている。
「それはありがたい! この刈谷さんは、大切な証人です、万一、殺人犯が刈谷さんを狙《ねら》うようなことがあったら、と心配でしてね」
「任せて下さい!」
と、その女は胸をドン、と叩《たた》いた。
太鼓のような響《ひび》きがした。
「この人のことは、私が守ってみせます」
「よろしくお願いします! いや、これで一安心だ。じゃ、刈谷さん。またご連絡しますから」
「はあ」
和子は呆気《あつけ》に取られている。
殿永は急に真剣な顔つきになると、
「いいですね。さっきの話は、誰にも言ってはいけませんよ」
「はあ……」
「命にかかわります。いいですね」
殿永が、チラッとウインクした。
「——分りました」
「では……」
殿永は一礼して帰って行く。
「——どうもすみません」
と、和子は席に戻った。
「いいのよ! 何でも、私に相談してちょうだい!」
「はい」
席に戻った和子は、周囲の目が、まるで前と違っているのを感じた。
「——ねえ、あの女の先生ってどんな人だったの?」
「ねえ、教えてよ」
と、あちこちからつっつかれる。
「あの——仕事中ですから」
と、和子は首を振ったが……。
みんなが、和子に一目置いている。
それは和子にとって、この上なく、いい気分だったのだ。
和子は、ふと胸が熱くなるのを覚えた。
先生、ありがとう。——十五年もたって、先生は私を救ってくれたんですね……。