10 恋の道
「調べてみましたよ」
と、パトカーの中で、殿永が言った。
「誰のこと?」
と、亜由美は言って、「——秘書の井川ですね」
「ご名答です」
「何か[#「何か」に傍点]あったんですか」
「井川はもともと、津田誠一の運転手だったんです」
「運転手? いつごろですか」
「十五年前」
と、殿永は言った。
「じゃあ……」
「二十二、三の青年でした。ところが、ちょうどあの風間涼子の事件のあった少し後に、井川は突然、津田誠一の秘書になっているんです」
「何か理由があるんですね」
「もちろん。——分りませんか?」
分っていた。
当然、亜由美にも分っていた。しかし、考えるのも辛かったのだ。
「恵子ちゃんが……」
と、亜由美は言った。「ショックでしょうね」
「やむを得ません。真実は真実ですよ」
と、殿永は言った。「もうすぐですね」
パトカーは、津田邸の前に着いた。ロールスロイスが、門の中に停《とま》っている。
殿永と亜由美は、玄関のドアを叩《たた》いた。
しばらくして、ドアが開いた。
「やあ」
と、言ったのは、津田恵一だった。「刑事さん。それに先生も」
「津田さん——」
と、亜由美が言いかけると、
「どうぞ。お電話しようと思っていたんですよ」
と、津田恵一は言った。「ちょうどいいところへ」
「いいところ[#「いいところ」に傍点]ですかな」
と、殿永は言った。「お父様の秘書、井川氏にお目にかかりたい」
「そこにいます」
と、津田恵一は階段の下を指さした。「もっとも、話はできませんが」
——井川は、階段の下で、死んでいた。
殿永は、歩み寄って、死体を調べた。
「首の骨が折れている」
「階段の上から、突き落としたんです」
「なぜです?」
「もちろん、これが、風間涼子を殺したからですよ」
と、津田恵一は言った。「それでみえたんじゃないんですか?」
「——いいですか」
と、殿永は言った。「井川は、お父様のロールスロイスの運転手だった。ところが、ある日、突然、秘書になる。奇妙なことですよ」
「しかし——」
「確かに、井川は、久代という女性を殺したでしょう。彼女は、ゆすろうとした。犯人[#「犯人」に傍点]をね」
殿永は首を振って、「井川は、ゆすられるほどの大金の持主ではありません。調べましたが、給料は確かに悪くないにしても、とてもまとまった金は出せない」
「分りました」
と、津田恵一は肯いた。「犯人は私です。私がゆすられて、井川に頼んで、その女を殺してくれと——」
「あなた!」
と、声がして、郁江が居間から走り出て来た。「何を言うの!」
「ご主人には、殺す理由がない。そうでしょう」
「もちろんです」
と、郁江は夫の腕をつかんで、「——殺したのは私です」
「郁江!」
「私には、立派な動機があります。風間さんは、この人を私から奪おうとしたんですもの!」
「待って下さい」
と、殿永は言った。「そう次々と自白[#「自白」に傍点]されても困ります。真実は一つだけです」
「その通り」
と、声がした……。
「——お父さん」
津田恵一が、何か言いたげに進み出たが、津田誠一はそれを止めて、
「もういい。お前たちにこれ以上、迷惑はかけられん」
「お父さん……」
「風間涼子が、式の前になって、悩んでいたのは当然ですね」
と、亜由美は言った。「夫となるはずの人の父親[#「父親」に傍点]からも、愛を打ちあけられていたんですから」
「涼子……」
と、津田誠一は、ため息と共に言った。「すばらしい女だった」
「息子とでなく、自分と結婚してくれ、と申し込んでいたんですか?」
と、亜由美は訊いた。
「もちろんだ」
津田誠一は肯いた。「それこそ恋というものだ。——分るだろう」
「あの夜、あなたは、彼女に最後の決断を——」
「そう。井川の運転する車で、学校へ行ったのだ」
と、津田誠一は言った。「そこで話し合うという約束になっていた」
「学校へ行ってみると、風間涼子は、ウェディングドレス姿で[#「ウェディングドレス姿で」に傍点]待っていた」
「そうだ。——てっきり彼女が承知してくれたのだと、私が思い込んでも当然だろう。ところが……」
「それが生徒のいたずらだった」
「一旦、喜びに火をつけておいて、彼女は、また私を突き放した。——カッとなって、無理やりに……。彼女が声を上げようとしたので、つい、夢中で首を絞《し》めてしまった……」
津田誠一は、首を振って、「——気が付くと、彼女は死んでいた。そして、様子を見に来た井川が、ぼんやりと立って、見ていたのだ」
「壁へ塗り込めたのは?」
「その話は、彼女から聞いていた。どうしたものかと考えている時に、ふっと思い出したんだ。当然、井川にも手伝わせて、壁の中へ、死体を隠した」
「そして、井川は秘書に——」
「そうするしかあるまい。あくどい男じゃなかったから、それで満足したが、私をゆすることもできたんだからな」
「——まだ十五年の時効には、何日かあります」
と、殿永は言った。「しかし、あなたは高齢だ。色々、事情も考えてくれるでしょう」
「そうかもしれん」
津田誠一は肩をすくめ、「ちょっと着替えて来てもいいかね」
「どうぞ」
「では」
津田誠一が、奥へと歩いて行った。
「——あと何日か、見逃していただくわけにはいきませんか」
と、津田恵一が言った。「父は、体の具合もよくないんです。あとせいぜい二、三年の命でしょう」
「こればかりは、仕事でして」
と、殿永が申し訳なさそうに言った。
「——エンジンの音だわ」
と、亜由美が言った。
「ロールスロイスだ!」
と、津田恵一が叫んだ。「親父が、裏から出て——」
「車の運転は?」
「できません。動かすぐらいはできるでしょうが」
殿永と亜由美は外へ飛び出した。
ロールスロイスは、右へ左へとよろけるように、しかし、スピードを上げて、走っていた。
「あれじゃ、ぶつかる!」
と、殿永が言った時、遠くで、ドーン、という音が響き、赤い火が夜の中に浮かび上った。
二人はパトカーに乗って、急いでロールスロイスが燃えている場所へと向った。
慣れぬ車を運転しながら、津田誠一の目には、きっとかつての美しかった風間涼子の姿が見えていただろう、と亜由美は思った……。
「恵子ちゃん……」
と、亜由美は、霊安室で、遺体と対面して来た恵子に言った。
「でも——」
と、恵子は言った。「優しい、おじいちゃんだったよ」
「そうね。本当に」
亜由美は、恵子の肩を、しっかりと抱いてやった。
病院の玄関の方へと歩いて行くと、殿永と、それに池山香子、刈谷和子の三人が、待っていた。
「——この子を自分の家へ送って下さい」
と、亜由美は言った。
「先生の所にいちゃだめ?」
と、恵子が訊く。
「お父さんもお母さんも、今、大変な時なのよ。あなたがついててあげないと」
「——うん、分った」
と、恵子がしっかりと肯いた。
恵子は、パトカーに乗ろうとして、亜由美の方を振り返り、
「ちゃんと忘れずに教えに来てよ」
と、言った。
「——見抜かれてる!」
と、亜由美は赤面しながら、呟《つぶや》いた。
「だけど……」
と、香子が言った。「あのデパートの幽霊は何だったのかしら?」
「あれは私」
と、和子がいった。
「和子が?」
と、香子は目を丸くした。
「私、先生のこと好きだったの。知ってるでしょ」
「うん……。でも、なぜ——」
「死体が見付かっても、もうすぐ時効が来て、犯人は捕まらない。そんなのいやだ、と思ったの。先生を殺した人間が、何とかして、罰を受けるようにって」
「で、私のデパートに?」
「何かの手がかりや、話題がないと、捜査も進まないし、と思ったの。香子には悪かったけど」
「全くよ! じゃ、中華料理の時も?」
「風間先生の名で、注文しておいたの」
と、和子は言った。
「あの幽霊はどうやったんですか?」
と、亜由美は訊いた。
「ただ、針金で作った人型に、ドレスを着せて身をかがめて、押していっただけです。あんな時だから、大げさに見えるんですね」
と、和子は、ちょっと笑った……。
「じゃ、久代って人がゆすったのは、津田誠一だったの?」
と、聡子は訊いた。
「そういうこと。井川が、代りに、その女を殺したのよ」
「ワン」
「こら! ドン・ファン! お前はベッドの下!」
「ワン」
亜由美の部屋である。
「ま、井川が、その女を殺すのに、わざわざロールスロイスに乗って行ったのが失敗だったわね」
と、亜由美は言った。
「でもさ、私のこのこぶ[#「こぶ」に傍点]は?」
と、聡子がおでこを指した。
まだ、あざ[#「あざ」に傍点]が残っている。
「ああ、ありゃ関係ないの。ただ、恵子ちゃんのこと、可愛いからって、さらおうとした奴《やつ》なのよ」
「何だ……」
と、聡子はがっかりした様子で、「何かの陰謀かと思ったのに」
「仕方ないでしょ。でも、ともかく、役に立ったんだし」
「ワン」
と、ドン・ファンも慰めている。
「じゃ井川を殺したのは?」
「津田誠一よ。井川が、怯《おび》えて、金をもらって逃げると言い出して、津田誠一と口論になり、ついカッとなって殴ったのよ。そこがたまたま、階段の上で……」
「カッとしやすい人だったのね」
と、聡子が肯《うなず》く。
ドアが開いて、母の清美が、
「亜由美、電話よ。可愛い生徒さんから」
「はい」
と、亜由美は珍しく文句を言わずに立ち上った。
「——あ、もしもし、先生?」
「やあ、恵子ちゃん。どう?」
「うん。お父さんとお母さん、結構うまくいってるみたい」
と、恵子が言った。
「良かったね」
「ね、お母さんがお父さんに『何のためにあんなことしたの』って、言ってたの、話したでしょ」
「うん、憶えてるわ」
「お父さんね、一日早く帰国して、私の受ける中学に、コネ作りに行ってたんだって」
「まあ」
「お母さん、そういうことが嫌いだから、怒ってたんだわ」
「そうか。——家庭教師が頼りなくて、ごめんね」
「いいの。人間、頭じゃなくて、人柄だもんね」
と、恵子は言って、「じゃ、来週ね!」
「うん……」
亜由美は、しばし立ち直れないような気がしていた……。