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なぜ八〇〇メートルを始めたのかって訊《き》かれたなら、雨上がりの日の芝生の匂いのせいだ、って答えるぜ。
陸上競技場は、そんなにも特別なところだ。
いや、形は単純なのよ、形は。
一周四〇〇メートルのトラック、二本の直線と二つの半円で出来たやつが、すり鉢になったスタジアムの底に置かれてるだけだ。
でも、最初にその底に降りたときには、脚が震えたぜ。うん、ビビッたな、正直言って。
俺は、こんなひろい、はれがましいところにいるのは初めてだって気がしたね。空が違って見えるんだ、スタンドで見上げてるやつとは。
メチャクチャ大きい。
ふつうだったらさ、すぐに、じゃまする建物とかあるじゃない。それがね、なにもないの。ガーン、って、空だけ。
ウォーミング・アップで芝生の上にころがるやつがいたのよ。なんか、カッコいいからマネしてみたら、俺、二度と起き上がりたくないって思った。
まっ青な空に白い雲が飛んでて、世界に俺ひとりしかいない。
で、腹這《はらば》いになってアゴを地面につけたら、芝生の草と草の間、ずっと遠くに人が動くのが見えた。四〇〇メートル・トラックの内側に、えんえんと緑のフィールドが続いてて、その向こう。
だいたい、俺は、バスケットボール部だったのよ。薄暗い明かりがついててさ、汗くさーい体育館で、バッシュをキュッキュッいわせてた。
うん、暗かったね、あれは。
俺がいた中学には、陸上部がなかった。それで、市の競技会に借り出されたってわけ。なんでだかわからないけど、俺は、八〇〇メートルだった。競技場のトラックを二周して帰ってくればいい。
やってらんないな、って思ったぜ、そんなもん。俺は、馬じゃないんだって。
ただ、授業がサボれるのが面白かった。なんか選ばれたやつだけでさ(みんな、野球部とか、サッカー部とか、そんなやつら)バス乗って、学校から出ていけるんだ。俺の隣には、バレー部の小川《おがわ》を窓際に座らせて。
こいつ、ちょっと生意気ですましてる子なんだけど、乳首が立ってきてたぜ、やわらかいブラジャーの上からときどき俺がさわってたら。いい匂い、させちゃってさ。眼だって、トローンてなっちゃってんの。
それで、陸上競技場だ。
着いたらね、ドーンって感じ。
いま言ったみたいに、最初はさあ、かったるいなって、雰囲気よ。だって、どうでもいいじゃないの。俺の中学はちっちゃくて、陸上部もなくて、それでも市の大会があるんで体育の教師がカッコだけ間に合わせてやってきた。勝っても負けても関係ないの。
それが、生まれて初めてスパイクはいて、スタートのラインに立ったら違うんだよね。ま、スパイクは学校の、備品、っていうのかな、俺のもんじゃないから、きつかった。俺の足は28センチあるんだ。無理やり突っ込んだけどね。
やっぱ、勝ちたいって気になる。
いま考えてみれば、もう、わけもわからずスタートよ。ピストルがバンって鳴って、ほら、そういうのってコースをわけてなくて、斜めになった線から立ったままスタートするでしょ。あちこちの中学からひとりずつ選んでて、予選なし、実力も関係なくて、一気に飛び出すわけね。そしたら、右にいたやつが、肘《ひじ》はって、押してくるんだよね。
やるじゃないの。
俺はそれまで、陸上なんて、おぼっちゃんのスポーツだって思ってた。なんか上品そう。タイムばっか気にしてて。一生懸命体操やって、それで、あ、脚がつっちゃいました、って感じ。
ふっ、俺はバスケットボール部なんだぜ、プッシングなんて慣れてる。
泳ぐようにして、右腕を伸ばして、こいつのことは、はらいのけてやったね。俺の身長は、一八八センチあった。中学の三年でだぜ。バスケットするうえでも、ちょっとしたもんだった。こんな、ただ走るだけなのに負けてられっかよ。
そんなで、ごちゃごちゃして、気がついたら、もうバック・ストレートになってた。俺、ここの景色を一番覚えてる。たぶん、一生忘れないね。まっすぐ、コースがあるの。それで、その先のスタンドは芝生になってて、で、また、その上にまっ青な空が、ぽかっと見える。
するとね、走ってる俺たちの外で、何の関係もなく棒持って走ってくるやつがいるわけ。こっちに向かって、まじめなつらして。棒高跳びやるやつって、このとき初めて見た。ちょっと奇妙。俺もレースやってたんだけど、なんか、ながめちゃったね。ふーん、っていう感じ。
前には六人ぐらい、いたのかな。
えらい速いやつらだって思ったな。小さいころから走るのは速かったぜ、俺だって。小学校の運動会ではいつもリレーのメンバーだったし、まあ、いつだってクラスの一番か二番、絶対三番までにははいってた。
でもさあ、まだこのあと、だいたい六〇〇メートルは走んなきゃいけない。気が遠くなる。みんな、そんなこと当然って感じでガンガンいくんだ。
やっぱ、陸上部のやつらって偉いのかなあって、感心しながら走ってた。
で、一周してスタートラインにもどってきたら、審判台のわきでうずくまってるやつがいるの。そばに帽子かぶった役員がかがみこんでた。すぐに、俺がやったんだってわかったね。
バスケットボールは格闘技だとか言うじゃない。まあ、それはそうだ。でも、陸上なんてそれどころじゃない、凶器攻撃だぜ。俺、あいつのことスパイクした感触が急によみがえったもの。俺の左足の底にある六本のピンが、しっかりと、あいつの肉をえぐったはずだ。
なんか、ものすごく愉快になったね。
俺は、このスポーツが気にいった。スパイクなんてされるやつの走り方が悪い。これ、絶対にそうだぜ。バスケットやってて知ってるもの。ケガするやつって、そいつが間違った動きしてる。ゲームの流れにのってない。
ほとんど笑いそうになりながら、二周目にはいった。また、棒高跳びのやつらがいた。すわって、緊張した顔で、屈伸やったりしてる。
バックの直線駆け抜けて、コーナーの入口でひとり抜いた。大回りになって損だなって思ったけど、それどころじゃない。
みんな、止まってるんじゃないかって気がしたぜ。俺は走ってるのにさ。どんどん抜けるわけ。もちろん、俺だって苦しくなってた。でも、ぜんぜんスピードが違ってて、ほとんど外側走って直線だった。
スタンドにいるうちの中学のやつらの声が、ちゃんと聞こえてた。俺がバンバン抜くから、キャーキャーいってて、小川が、がんばってえ、とか叫ぶから、俺、勃起《ぼつき》しそうになったな。帰りのバスではがんばってあげるよ、って。
で、俺はギリギリのところで二着だった。
あと五〇メートル、いや三〇メートルあったら抜けてた。そしたら、俺が優勝だった。ま、いいけどね。
ゴールしてからも、まだまだ走れそうだった。体育の教師がとんできたぜ、ストップ・ウォッチのひも振り回して。
スピード違反、スピード違反、って叫んでる。こいつ、まだ若いんだよね。ポリが追いかけて来てる気がしてたからな、とか、俺も言って、愉快だった。最高。
まあ、そんなわけよ。初めて走った八〇〇メートル、ってのは。
悪くなかったね。