18
クーリング・ダウン。
サブ・トラックを大きく、ゆっくりと。
テントにもどると、みんな、ぼくの方を見ないようにしていた。気をつかってるのが、かえってわかってしまう。
「too passive」
タオルを取ろうとして、横になっているやつをまたいだときに言われた。同じ一年で、棒高跳びで結構いい記録を出してる選手。寝たまま、ひとりごとのように小さい声だった。
passiveな、消極的なわけではない。むしろ、carelessというべきレース展開だったと自分では思うのだけれど、口を開く気がしない。
二周目の第四コーナーの出口で、後ろをもっとしっかりと確認すべきだったこと。ゴール前で流している時点での同じく後方確認。少なくとも耳を澄ますぐらいはする必要がある。トップで直線にはいり、ふたりでフローティングしているのに安心しきっていた。
でも、そういったことは、どうでもよかった。前向きの反省をする元気はわいてこなかった。原因はわかりきっているのだ。
集中力の欠如。
「だいじょうぶ。二着プラス二の二には入れるよ。二組も三組もそんなに速くなかったから」
三年生が励ましてくれたけど、うなずくだけだ。本当にがっくりときたときには、表面的に明るくふるまうこともできない。
服を着替えてテントを出た。
これで山口もわかってくれるだろう、ぼくが相原さんでないことを。彼が一年の春にだしたタイムは知らない。でも、少なくとも山口が見た相原さんは、あんなぶざまなレースはしなかったはずだ。
山口の赤い服を頭の中に置きながら、スタンドをのぼっていった。ロープを張った役員席を避けて裏側の廊下から回り込むと、たしかに山口がいた。でも、その隣の女の子、膝《ひざ》上までのぴったりとしたジーンズにTシャツなのは、妹だ。
「お兄ちゃん、だらしなーい。決勝いけないの?」
妹は、ぼくを見つけると大きな声で話しかける。
うん、だめなんじゃないかな、発表待ちだけど、と答えて、ぼくは少し迷ってから、山口の横にすわった。妹とぼくの間に山口がいることになる。
山口は、いつもととりたてて変わったところはない気がする。階段をのぼっていくぼくに微笑みかけ、ぼくと妹が話すのを聞いていた。
ぼくは、バナナとサンドウィッチとお茶を出して、椅子の上に置く。
ほとんど幼稚園の遠足みたいなメニューだけど、レースの合間の食事にはふさわしいものなのだ。消化がよいので内臓に負担がかからず、血糖値を適当に高められる。
準備段階として、試合の前日から、ぼくは炭水化物中心の食事に切り替えていた。ある程度は自分で料理もする。カーボン・ローディングの理論を実行するために。陸上競技では、食事もトレーニングであり作戦の一部なのだ。
よく間違うのは、スポーツドリンクのようなもので急激に糖分を吸収することだ。そうすると、それに対応するためにインシュリンが過剰に分泌されてしまう。かえって血糖値が下がり、次のレースで筋肉が消費するべきエネルギーが減少するから、試合の間にはよくない。
ぼくの場合、今日はその次の試合というのに出られるかどうかがあやしくなっているので、元気のでない食事ではあるのだけれど。
ふたりにもすすめた。自分がすごく空腹になった場合とか、友だちが欲しがったときとか、ぼくは、いろいろなことを考えて、いつも大量の昼食を用意している。
山口は、
「朝ご飯を食べたばかりだから」
って遠慮する。
まだ十一時にもなってないんだから、当たり前かな。
レースの五時間前には起き、三時間前には食事をすませなければいけないので、ぼくは、予選のレースに備えて、今朝は五時に起きていた。だから、かなりおなかがすいていて、ひとりで食べ始めた。
不作法な気がするけど、こういうのって、車のレースで燃料を補給してタイヤを交換しているようなものなので、しかたがない。このふたりには、その説明は必要ないだろう。
妹は手をのばしてバナナをとり、山口にも一本渡した。
いったい、妹は、ぼくのレースを見ながら、山口に何て言っていたのだろう。あんなに性格も脚も悪い山口さんに向かって。
だいたい、同じ学校の先輩と後輩だとしても、いままでも知り合いだったりするのかなあ? ふたりとも、ぼくには何も言わないのだけど。
「このサンドウィッチ、おいしい。お兄ちゃん、腕があがった」
ありがとう。
妹は、ぼくが中学生のころから、よく陸上競技場に来ていた。
休みの日には友だちと遊びにいくことが多くなってからも、大きな大会には必ず来る。陸上競技場の雰囲気が好きなのだという。
でも、妹は自分ではレースをしたいとは思わない。
「見てるだけでいいの。スタンドにすわって」
そんな話を何回かした。
妹はスポーツをしないわけではない。テニスだとか、スキーとか、そんなものなら。
「お兄ちゃんだって、テレビでお相撲見るのわりと好きだけど、やろうと思わないでしょ。それと同じよ」
同じだろうか。ぼくは、茄子紺《なすこん》のまわしをつけてトラックを走ってるわけではないんだけどなあ。
妹がいることで、ぼくは、ともかく山口とふたりで競技場にいる、という事態からは逃れられた。相原さんのことを考えないですむ。
ぼくばっかり食べていた食事が終わり、三人でトラックを見ていた。
電動車が動いていた。ハードルを運んでいる。あの間隔だと女子の一〇〇メートル・ハードルだ。
けれども、妹は、突然、
「ちょっと、お兄ちゃん、来て」
と言うと、ぼくの返事も聞かずに立ち上がり、さっさと歩き出した。
ぼくは、山口にことわってから、妹を追う。
妹はスタジアムの外へ出るスロープを下った。売店の横を通り過ぎる。ぼくは、しかたなく、ついていく。妹の髪は、同じようなウェーブがかかっているけれど、山口ほど長くない。色も山口の方が淡くて細い。それに妹は脚をひきずるどころか、例の競歩の選手たちみたいに怒っているような歩き方をしているのだ。
でも、後ろから見ていて、どことなく、ふたりは似ているって気がする。なぜなのだろう?
妹は競技場に沿って、何も言わず歩いていく。背中にぼくがいることを確信している。
小さいころから、そうだったのだ。
妹は、ぼくがNOと強く言わないときには、すべてYESなのだと思っている。自分の要求のほとんどは、もともと受け入れられるものなのだと信じている。そのかわり、NOと言ったときの聞き分けは悪くないのだけれど。
駐車場を回って、公園へと続く裏手にでた。こんなところに来る人はめったにいない。まるで、けんかする場所をさがす中学生のようだ。
両側に雑草の茂った敷石の小道に来て満足したのだろうか。妹は、急に立ち止まり振り向いた。
「いったい、何があったの、ボーッとしちゃって。山口さんもお兄ちゃんも。さっきのレースもそう」
べつに、とぼくは答えたのだけれど、妹はそんな返事を期待していない。
スニーカーでスタジアムの壁を蹴《け》り上げてから、
「お兄ちゃん、ホントに免疫ないんだから。きっと、キスしたとか胸をさわったとかで、まいっちゃってるんでしょ。ふたりで見つめあっちゃって」
それだけ言うと、妹は、いきなりぼくに抱きつき、唇を押しつけてきた。
ぼくは、コンクリートの壁を背にして、妹のからだを受けとめる。
それはたしかに山口とのキスとはべつのものだった。
昨日、山口は、相原さんの名前を出してから、静かに泣きだした。それは、しまり切らなかった水道の蛇口から細く垂れていた水がコップにたまり、限界にまで達したあとあふれ、側面をつたって小さい流れが落ちていくかのようだった。
そんなにも穏やかだったのだ。
ボートの脇で、打ち上げられた木にすわり、砂浜にかがみこむようにして山口は泣いていた。ぼくは隣にいて、日が沈んでいくのを見ていた。
こんなふうにひとは泣くのだなと、ぼくは、考えていた。そして、山口は、何回も何回も、そんなふうに泣いてきたのだろう。
ぼくは、ようやく顔をあげ海からの風を受けている、山口の唇にキスした。それは、まだときおり震えていた。
でもね、妹とは、なんて安心な、そして懐かしいものなのだろう。昨日は海の香りがしていたけれど、今日は夏の草の匂い。
妹は舌を入れてきた。ぼくの欲望が刺激される。妹は、ぼくのペニスに触れようとする。ぼくは笑って妹を押しのける。
「ねえ、キスぐらいで、だまされちゃだめよ。私なんか、何人ともしてるんだから。男の子とも、女の子とも。じゃんけんで負けた子どうしキスするゲームとか、お兄ちゃんなんにも知らないでしょ。ホントに遊んでないんだから」
妹は、いらいらして、よくしゃべった。ぼくは、なんだかおかしくて笑っていた。抱きついてくる妹のからだは、山口にくらべたら、しっかりしている。ぼくの腕の中で妹が弾む。どこが似ているって気がしたんだろう?
「山口さんだって、うちの学校の派手な子なんだから、お兄ちゃんのことぐらいだますの簡単よ。ねえ、キスしたくなったら、いつだって私がしてあげる」