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クラブハウスを出ると外はまだ充分に明るかった。
日が長くなっているのだ。
ぼくはグラウンドを横切って、急ぎ足で帰る。他の陸上部員たちは、きっと、まだ雑談をしている。例の、練習のあとのちょっと興奮した会話。着替えのすんでないのだっているだろう。
今朝、電車が終点の駅に着いたとき、ぼくたちは、混雑した車両から最後に降りる乗客だった。集団の最後尾でプラットホームを歩いていた。
山口は、
「駅の近くの店で、待ってていい?」
と訊《き》いた。
ぼくが、
「練習の都合で、遅くなるかも知れないけど」
と答えると、
「それでもいい、一時間ぐらいは平気よ」
と言って、笑った。
いつも、山口とぼくは、JRの改札のところで別れる。時間に余裕のある山口が、そこまでぼくを見送ってくれるのだ。
急ぎ足の人々がいきかう朝の駅、ぼくはホームに続く階段の途中で振り返る。そこが改札から見える最後の場所だ。人込みの中に、ぼくを見ている山口の姿がわかる。ぼくが振り向いたことで喜びの笑みが浮かぶ。
山口は恐れているのだ、ぼくが消えてしまうことを。ある日突然、相原さんがこの世界からいなくなってしまったように。
ぼくは、そんな山口にこたえてあげたいと思う。練習で遅くなったりなんか絶対にしたくなかった。冷めたミルク・ティを前にして、様々な心配をする一時間に、山口が耐えられるとは思えない。
ひとがひとを好きになることに理由なんてない、とぼくは思う。
いや、この世の中のすべてのことに、「理由」とか「原因」なんてないのだ。
もちろん、ひとつの閉じられた理論のなかではべつだ。たとえば、八〇〇メートルをより速く走るための理論。
上体を前に向けて保ったまま、左右の足が一直線上に着地するように腰の回転を使って走る練習をする。これにはちゃんとした「理由」がある。
同じピッチで走るのなら、一歩ごとのストライドが大きい方が速いに決まっている。ストライドをかせぐためには、脚を前に振り出して着地するときに、ウエストの回転を利用して、振り出す側の腰を前方に突き出すようにすればいい。
競歩の歩き方と同じことだ。この理論はまったく正しい、とぼくは思う。もちろん、しっかりと腕を振ることで上体のバランスがとれ、また腹筋と背筋が充分に鍛えられていて、そのことによってピッチが落ちることがないようにしなければならないけれど。
でもね、人間がからんできたら、話は全然違ってきてしまう。ひとは理由があって何かを感じたり行動したりするわけではないのだ、とぼくは思う。
中学受験をしているころ、国語が嫌いだった。勉強していて、早く算数の冷たい世界にもどりたかった。なかでも厭《いや》だったのは、物語の登場人物の気持ち、というようなタイプの設問。なぜ彼はそのような行動をとったのでしょうか、とか。
いろんな可能性を考えるとわけがわからなくなり、「ただ、そうしたかったから」、とか答えて×をもらったことがあった。
なさけない解答だなあ。
入試が近づくころには、パターンで出題者の期待していることが予想できるようになり、ぼくは、単にゲームとして正答にたどりついていった。
話をもどそう。
ひとがひとを好きになることに、理由なんてない。
ぼくは山口を好きになった。山口が美人だから、ということもできるし、山口の脚が悪いから、ということもできる。でも、そんなのはすべてあとからつけた理由、原因さがしだ。ぼくは山口を好きになったから好きになった、それだけだ。
これから、ぼくは山口に会う。
ドアが開くたびに期待をこめて見上げてはがっかりする、そんな繰り返しをしていた山口がぼくを見る。山口のすわっているテーブルまで歩いていくときの山口の表情が、高校の門を通り抜けているいまでも、はっきりと、わかる。