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工場を囲むコンクリートの塀は、ところどころ崩れてた。
欠けたところでは、赤く錆《さ》びた鉄筋がのぞいてる。それで、そこに雨があたるから、流れ出した錆が塀をつたって落ち、どぶ板にまで色をつけてる。
その工場の塀は、先が見えなくなるくらいまで、たっぷり三〇〇メートル以上続く。
俺が全力で走ったって、40秒やそこらはかかるね。塀の前の道は車が一台通るのがやっとの細さで、反対側には庭もない小さな二階建やアパートがならんでた。そのうちのひとつに伊田が住んでる。
つまりは、きったねえ街なわけよ。
この工場か、それとも隣のやつのかはわからないけど、どっかから出てる変な甘い臭いがしてた。小便の臭いだって混じってる、きっと。一階が工員相手の飲み屋やラーメン屋になってるところがあるから。
きったねえって言ったけど、ばかにしてるわけじゃないぜ。
俺の生まれた街も、これと同じだ。小学校で、京浜工業地帯は日本の四大工業地帯のトップで世界に誇る生産量です、とか習ったときには、自分の住んでる街が偉いんだって思ったね。
偉かねえよ。汚れてて、ごちゃごちゃしてて、川はまっ黒、空気もきたねえし、からだに悪いだけだ。カスみたいなやつらもいっぱいいる。こんな街にいたら、そうなるんだ。工場行って、休みの日には競輪かボート、酒飲んで道で寝る。
な、京浜工業地帯で本当にもうけてるやつは、こういうとこなんかに住まないの。どっか他の、もっときれいなとこでのんびりやってんのよ。山手の、丘の上の方でね。
だからさ、最初に送ってったときに、伊田が、あたしはここを出てやるんだって、地面に吐き捨てるみたいに言ったのは、よくわかった。
俺はこういう街が嫌いってわけじゃない。そこにいるやつらも嫌いじゃない。なんてったって、俺が生まれて育ったとこなんだから。
でもね、キャバレーなんかの広告がベタベタ張ってある電柱のわきで伊田がそう言ったとき、俺たちふたりで、こういうところをつくったやつらを見返してやりたいとは思ったね。そう、復讐《ふくしゆう》みたいなもんよ。世間に対して、俺たちはここで生まれた、文句あんのか、って。
ま、それはそれとして、俺、だらしないのよ。何がって、伊田とのこと。聞いてくれる?
いままでの俺だったら、こんな工場の裏のね、暗いとこ歩いてたら、一発で押し倒してたじゃないの。全然そんな気になれないの。伊田に魅力がないからなんて、まぬけなこと言わないでよ。その完全な逆。
きょうだって、すごいの。なにせ一〇〇メートル・ハードルの県大会優勝者(それも二連覇)、スタイルがいいから、ジーンズはいてたって脚の長さが日本人じゃない。ぴっちりしたパンツにTシャツ、その上にあの彫りが深くて小さめの顔がのってたら、もう、まぶしくって、目もあけてられないって感じ。
きっちり見てたけど。
デートのあと送ってって女の子にキスするタイミングって、あんまり家のそばまで行ったらまずいでしょ。だから、俺、あせってたんだけど、その気になってちらっと伊田のほう見て、そしたら、フッ、て笑われちゃって、だめなのよねえ。すぐに家に着いちゃった。
しょうがないんで、さよならって言って、伊田が手を振ってくれちゃって、そんなこどもっぽいことしてくれたら意外なかわいさがあって、俺、ボーッとしてたんだろうね。横から出てきたやつらに気づかなかった。
「よう、生意気なつらさげて歩いてんなあ」
とか、俺に向かって言うの。なーまいき。おまえたちの方よ。
まだ、こども。俺と同じか、ちょっと上ぐらいなのよねえ。
そんなに、気合いはいってるようにも見えない。ま、ちょっとツッパッた服は着てるけど。ついて来いよっていうから、ついてった。まわりを囲まれてね。
そんなことしなくたって、逃げないってば。
ちょっと、やばいことはやばいの。むこうは五人もいる。からだは俺よりでかいやつはいないし、大きめのやつも、たぶんただのデブ。それでもね、まともにやりあうには数で苦しい。ま、いざとなれば一発|蹴《け》り入れて逃げようと思ってたけど。
こういうけんかで一番大事なのは、とにかく足が速いこと。陸上部のやつとやったらダメよ。つかまえられなかったら始まらないんだから。
どこまで行くのかって、思ったね。歩かされる。
で、ちっぽけな暗い公園にはいっていった。ここでカツアゲ始めるんだろうな。小便と、近くのラーメン屋のスープとる、くっさい臭い。うん、やっぱ、俺と一緒にこの街を出ようぜえ、伊田さん。
砂場のなかのコンクリートでできたカバにすわらせられちゃった。それで、また、まわりを囲まれた。俺、あっちのキリンの方が好きなんだけどねえ。背中に乗って、耳持ちたいな。
へたくそな演歌のカラオケがガンガン聞こえる。なるほど。助けが呼べない場所なわけね。
「おい、おまえ、中沢だな」
驚いたねえ。
何がって、俺の名前知ってるってことじゃなくて、こいつら、俺が中沢だって知っててからんでんの。そんなやつ、ふつう、いないぜ。いい根性してるね。
で、何、言いだすかと思ったら、なかではちょっとかっこいいやつが、
「いいか、伊田に手だすんじゃねえよ」
だって。
なーんだ。伊田の親衛隊なわけね。
「出したいんだけどねえ、出させてくれないのよ、どうしたらいいと思う?」
俺って、いつも正直。天国に行ける。
「ふざけんじゃねえよ」
そいつ、でかい声だして、でも俺じゃなくてカバのこと蹴った。かわいそうな、カバさん。
うーん、ますます伊田にあこがれちゃうわね。めちゃくちゃアイドルなんだろうな、こいつらの世界の。この辺に住んでるやつらかも知れないし、同じ学校なのかも。
ん? 俺の名前知ってるってことは陸上部のやつがいたりして。
おっ、そうみたいよ。その、かっこいいやつが木刀を出してきて、俺のふくらはぎに当てて、
「おい、足、折られたいのかよ。約束しないと、二度と走れないからだにしてやるぜ」
それはいやだなあ。俺、この前のレース、七着だった。このままで終わりたくないもんね。
夜の九時。月も出てない、ちびっこ広場。いよいよ立回りかな?
「ちょっと、待てよ」
低い声でドスきかせて、俺、ゆっくりと立ち上がった。もちろん、木刀のこと、注意してね。
別に本気でやるつもりなんて、なかった。ただね、あとあとつきまとわれるとうっとおしいでしょ。だから、格が違うってことをビシって見せつけて、こんなことする気にならないようにさせとかないとね。
俺が立つから、まわりのやつらも身構えた。木刀持ったのなんて緊張して先が震えてる。
そのとき、
「てめえら、何してるんだ」
おっと、声の重さが違う。
まずいなあ、本物が出てきちゃったみたいね。