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ほら、前にも言ったように、この世の中、すべてが偶然だ。あるいは、だからこそ偶然なんてものはない。
山口は相原さんからぼくのことを聞いていた。そして、相原さんが死んだあと、悲しみにくれる(?)山口は、陸上競技場に行き、ぼくを見つける。なにも偶然ではない。それは無意識的であれ、むしろ、ぼくを捜しに行った行動だ。
その後、ずいぶんたってから、海岸でぼくは犬を連れた山口に出会う。偶然だ。それとも、これも偶然じゃなくて、待ち伏せみたいなものだったのかな。
ともかく、ぼくは山口を好きになった。これは偶然? 妹が言うみたいに、美人で派手な女の子だったら誰でもよかった、というのを否定するだけの根拠はない。
ぼくは、すべての結果を結果として受け入れる。
山口を誘いに、山口の家に行く。歩いて十分もかからない。ぼくは、いつのまにか山口の家族に気にいられてしまったようだ。特に母親。電話なんかすると、ものすごく愛想がいい。
それは山口と相原さんとのことを知っていて(ぼくと相原さんとのことは知らないで)、娘を元気にしてくれる、同じ高校のそれも同じ陸上部員が現われたからなのだろうか。
海に行こうよ、海に。
もうすぐ夏休みなんだから。
タンクトップからむき出しになった山口の腕は白くてとても細い。もっと、ウェート・トレーニングをする必要がある。何キロのバーベルが上がるのだろう。ベンチプレスなら棒だけかも知れない。
「広瀬、おい広瀬だろ、おーい広瀬」
ばかでかい声で呼ばれた。こんなふうに叫ばれる覚えはないんだけどなあ。
あたりを見回すと、よしず張りの海の家の中で、手をおおげさに振っているやつがいる。このあたりはぼくの小学校の学区だ。そのときの同級生かなと思って近づいていった。山口が砂の上を歩くのにあわせて、ゆっくりと。
海の家の中は暗くてよく見えない。でも、なんか、でかいやつがうちわを持って立っている。知らない、こんなの。
「お前なあ、なんだ、あの関東大会は。さえないなあ」
それで、わかった。中沢だ。あの、八〇〇メートルやってる。水着の上に長いTシャツで、陸上選手というより、ちょっとスリム気味のプロレスラーのように見える。
それに関東大会というのは正確でない。甲府でやった南関東ブロックの大会だ。ぼくは県で二位だったのに、ブロックで入賞できなかった。つまり、全国大会には出場できない。
でも、それはそんなものなのだ。タイムとしては確かに県大会より悪かったけど、そういうのはレース展開に左右されるのだから。
中沢は山口を見て、眼を細くして、
「こんちは」
と言う。
山口は、長い髪を片手で押さえ、
「こんにちは」
と、お辞儀をする。
「こんなかわいい子と遊んでるから、勝てなかったんだろ。もう、俺の方が速いぜ、次は」
こいつは何なんだろう。だいたい、どうして、ここにいるんだ? うちわでバタバタと、とうもろこしを焼いている。
「お前、合宿行くんだろ、強化合宿」
それは、県の陸連主催の合同トレーニングのことだ。県下である程度以上の成績をあげている高校生が集まって練習する。日頃、満足なコーチを受けられなかったり、練習相手に不足するような学校の選手のために、主として設けられているのだと思う。でも、ぼくも参加することにしていた。
自分なりに固定してきてしまった練習法の見直しができそうだし、ふだんと違った相手と走るのは、それなりの刺激は得られると考えたからだ。中沢のことは、べつに意識してなかったんだけど。
「おう、じゃ、そこで勝負な」
と言うと、中沢はぼくと山口に、とうもろこしと罐ビールを押しつけた。
お金を払おうとしても受けとろうとしなかった。
「いいの、いいの、このバイトはね、海に女の子見に来るついでなんだから」
と言って。
とうもろこしには、たっぷりと醤油《しようゆ》のたれが効いていておいしかった。そのせいでもないだろうけど、山口は、中沢のことが気にいったみたいだった。
「あんな面白い友だちがいるの」
山口は、笑う。
友だちなのかなあ? 初めて口きいたんだけど。
ぼくは、山口と、炭火焼きとうもろこし醤油たれつきの味と香りのするキスをする。山口の歯の裏についている、とうもろこしの粒の残りを、ぼくはぼくの舌で取り出して食べる。山口が笑って、ぼくに抱きつく。
岩場の陰になったところは、すてきに涼しい。海しか見えないし、波の音しか聞こえない。
山口は、
「相原さんを好きだったふたりが、お互いに好きになるのは、相原さんにとっても嬉《うれ》しいことよね」
と言った。
ぼくは、沖のヨットとそのマストをかすめるように飛ぶかもめを見ていた。
山口の言う言葉は、すぐには意味をなさなかった。
時間的にずれている三流ドラマ的三角関係(でも、それは、妙に正三角形だったりする?)は、どうでもよくなってしまった。飲みなれないビールに酔ってしまったのかも知れない。
いまこの瞬間、地球上にはぼくと山口しかいないのだ。ぼくたちは、このことばの特殊限定的用法であるところの「寝る」までにはいたらなかった。でも、いま、ぼくたちは幸せだ。
たぶん。